映画「聲の形」を感動ポルノだとする批判は妥当なのか

映画「聲の形」を感動ポルノだとする批判は妥当なのか

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  • 更新日:2016/10/19
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ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。前編、中編記事に続いて、映画『聲の形』について語り合います。

小学生時代の悪事に罪悪感を持つ不思議

藤田 そもそも、『聲の形』みたいな学校内での心理の問題を描く作品のリアリティがよくわからないんですよ。なんでみんなこんなに人間関係のことばっかり考えてるんでしょう。時代?

飯田 Yahoo!知恵袋とかLINE Qとか見たことあります? 小さい人間関係の悩み相談めっちゃしてますよ、世の中の人は。

藤田 大変ですねぇ……。小学生の頃にやったイジメやらの悪事をあんなに罪悪感持って、関係性を再構築することってあるんでしょうか。皆が積極的に動くのも不思議で。

飯田 「皆が積極的」ではないと思うけど。

藤田 なんか(物語的には)強引に巻き込んだ人も結構いますね。
ぼくの、とあるクラブでの経験からすると、人はまず加害に気づかないし、自覚も反省もしない、ましてや謝罪もしない。これがリアル(笑)。そして人はそう簡単に「報復」を断念しないよ(笑) ヒロインは、そういう性格の「特別な」存在だとしても、他の人まで報復しようとしてないのはよくわからない。

飯田 硝子の妹の結弦は報復してるし、メガネっ子の川井さん(途中でコンタクトになり、また文化祭のときには元に戻っているけど)だって将也に「おまえ口、軽いんじゃね?」って疑われたらすぐ反撃してるし、それをやられた将也が橋で暴言吐くのは報復みたいなものじゃないの?
それに植野は硝子のことを受けいれても許してもいない。それは本人も言っている。

「聲の形」で描かれるのは“いじめ”なのか

藤田 だって、植野ってこの映画最大の加害者じゃないですかw いじめを開始したの彼女でしょう? 佐原さんを不登校にし、西宮さんへのいじめを開始したでしょう? その原因の一端は、主人公に対して植野さんが好意を持っていて、西宮さんに嫉妬したことにあるわけでしょう? 端的に見て、植野、石田、川井、島田は、加害者でしょう。

飯田 うーん、藤田くんがどうして「いじめの話」「誰が加害者か」に押し込めたいのかがわからないな。だいたい「いじめ」という言葉は、先生(大人)は使ってるけど、川井さんと真柴くんを除けば将也や硝子たちは一回も使っていないはずで、つまり彼らは「いじめ」という言葉に集約できるようなことだと認識していないと思います。

藤田 当人の主観と、客観は違うわけで、その認識のゆがみも含めて総合的に捉えないと。いじめに関係する、人間関係を中心に描いた物語であることは確かですよね? ざっくり言うと、被害者(西宮、佐原)、加害者であり被害者である者(石田)、加害者(植野、川井、島田)が、過去の行為に対して、再会してどう向き合うかっていう話じゃないですか。

飯田 いやいや、そんなパッキリ二分すべきじゃないよ。

藤田 罪を自覚する者、しない者、被害者意識と加害者意識の持ち方の違い、などなど、その辺の、個体差を抉る話なんじゃないですかね……

飯田 違います。そういう被害/加害とか、善/悪の二分法でレッテル貼って演出していく監督じゃないし。彼らはそれぞれに個別の「行為」に問題のあることはしたけど、被害者、加害者、善人、悪人みたいな「人格」に回収して断罪するのはまずいよ。

藤田 「二分法はない」となると、加害も被害もなくなる。それはダメでしょう。現実や人間は複雑なものだけれど、スパッと割り切る必要もある。「害」が生じたのだから、その害に対する責任は取らなければならない。
最も加害者であるのに被害者意識を持っている者(植野)と、最も被害者なのに加害者意識を持っている者(西宮)の両ヒロインの対比。石田が中間。加害者意識すら持っていない川井、加害者意識は持っているかもしれないが贖罪は試みない島田の二人が、「邪悪」方面の典型例ですね。

飯田 「あいつ、ださくね」って植野に小学校時代言われて不登校になっちゃった佐原は植野のセンスに憧れがあるし、そんな単純な「被害者か、加害者か」みたいな話じゃないですよ。

藤田 動機はどうあろうと、行為のみで判断すれば、罪の軽重は判断できますよ。
観客に「誰が悪いのか」を見せつつ(分かるような描写を的確に入れつつ)、それに対するキャラクターの自覚や振る舞いの齟齬などを含めて、人間関係と心理の複雑さを描く映画だと思うので、そこは結構肝となると思うんですがねぇ……

飯田 『聲の形』は、それぞれにいいところもあれば、弱いところもあるし、問題だってある、っていう描き方をしている。藤田くんの観方は、「これはいじめの話」で「誰が断罪されるべきか」っていうフィルタをあらかじめかけすぎていると思いますよ。

藤田 「色々感じて考えてそう動いちゃった」のは、もちろん見れば分かるんですよ。でも、それは動機が判明するとか、情状酌量の余地ができるだけの話であって、気持ちと、「害」に対する審判は別。
植野が正直に気持ちを言っていて、石田が鈍感でなければ、この悲劇は起こらなかったものを……って感じましたが。勇気がない人間と、勇気がある人間の対比なのでしょうねぇ。植野は、耳も口もつかえるのに、コミュニケーションに成功しなかった。

飯田 「成功」……? 成功/失敗という二分法もよくわからないですね。
植野視点で考えると、小学校時代に軽く言ったひとことで佐原が不登校になり、自分のせいもあって将也が島田の標的になり、しかし手を差し伸べることはできず(ここの心理は謎。そのあとも島田と仲悪いわけでもビビってるわけでもないしね)、ってのはもちろんまずいわけだけど、植野は将也に再会したとき謝ってるからね。将也のチャリのうしろに乗ったときに。高校で再会した佐原とだって「加害/被害」でわりきれる関係じゃないし。基本、植野は素直なんですよ。恋心以外は。
久々に将也に再会したら硝子と仲良くなっていてそりゃ意味がわからなくて混乱するだろうし、遊園地で島田と将也を引き合わせてみたら将也めっちゃ落ち込むし、ケリつけようと思って硝子と観覧車乗ったらいきなり泣かれて対話がやっぱり成立しないし、呼ばれて橋に行ってみたらなぜか将也がバッド入っててみんなをディスりまくるし、それで将也と距離置いてたら硝子助けようとして意識不明になるし。
彼女から見たら高校以降の将也の周辺はわけわかんないことだらけだと思う。高校将也と再会してからの植野は「友達ごっこ」じゃなくて最初からずっとハードコアに本音で人と付き合おうとしてるんじゃないでしょうか。早くコクれって話はさておけば。

藤田 そこを隠しているから面倒なことになっていくw 佐原を不登校にし、西宮にイジメを行い、石田の場合は傍観し、再会した後も「お前が転校してきたせいだ」と西宮を責めるわけでしょう。ただ、本当は罪を自覚していて、相手から「責めてもらって楽になりたい」という気持ちすら透けて見えて、それを相手に求めるところも、いやらしい。
しかし、謝ったときに、真意を悟らない石田もどうかと思いますが。

飯田 将也は心を閉じてるからね。

藤田 植野ちゃんは、いじましいし、想いも分かるんだけどさぁ、起こした結果に対しての責任をとらなすぎているし、八つ当たりしすぎだからねぇ。

飯田 なんで藤田くんがそこまで植野に冷たいのかがわからんw

藤田 逆に、飯田さんがそこまで植野に肩入れする理由が分からない。

飯田 僕はああいう立場の子が好きなの。『エヴァ』でもいちばん好きなの伊吹マヤだからw
しかし、そんなに植野が嫌いですか。

「無意識に過去や現実を変えてしまうタイプ」

藤田 いや、一番嫌いなのは植野さんじゃなくて、川井ですよw

飯田 山田監督いわく「彼女はナチュラルに、生まれもってのシスター的な存在」なのだと。「そのときの自分の気持ちに対して、つねにウソは言っていない」と。
言いかえると、裏表があってああなってるんじゃなくて、なさすぎてああなんだ、と。

藤田 いや、それは嘘(笑) その応答はぼくも読んだけど、シスター(聖女)ではないw 彼女は、自分が「良い子」であるというイメージに合わせて、過去や現実をゆがめてしまう人。無意識に過去や現実を変えてしまうタイプ。こういう自覚ない悪、怖いよ。

飯田 君はそういう人に被害に遭ってるしね……。

藤田 (笑) イジメをやってたくせに、それを指摘されたら、「イジメっ子扱いするのか!」みたいに被害者ぶって泣いてクラスメイトを味方に付けるわけでしょう。こういう対人操作・人心操作的な加害を行うキャラクターを登場させ、「野放しになる」ということを描いたのは面白いんですよね。もう少し、決着が欲しかったけど。

飯田 真柴くんは川井さんのどこがいいと思っているのかねえ。

藤田 真柴くんは、超絶いい人ですね…… 出来杉くんですね。

飯田 出来杉くんwww 橋の上で決裂するところでも原作より人格者として描かれてたしね。原作だと将也のことぶん殴って「何様だよ」「他人様」とかって捨て台詞言ってたけど、映画ではひどいこと言った将也に対して「友達だと思ってたのに」だもの。
……てか藤田くんとどこでそんなに考えがすれ違うんだろうと考えたんだけど、僕は小学校時代のいじめって多かれ少なかれあるもので、しょうがないと思ってるんですよ。だって前頭葉が成長してないんだよ、子どもって。理性がろくに働かないんだから。だけどそういう愚かな時期にしたことに向き合うからえらいわけでしょ、将也は。

藤田 植野と川井は向き合ってないでしょう、高校生になってからも。

飯田 川井さんはともかく植野は向き合ってるよ。

藤田 向き合おうとする石田が特別だった、ってことであって、植野や川井は、むしろ現実では普通なんだろうと思いますが。昔行ったいじめを謝りに行った人なんて、そんな大多数ではないと思いますね。

飯田 そりゃそうだよ。そんなやつ聞いたことないよ。

聴覚障害者の描き方が感動ポルノ?

藤田 それから、聴覚障害者の描き方も問題でしょう。美少女で、あんなに健気で、自責的な描き方をすることの是非はある。実際に、既に感動ポルノだとする批判があります。

飯田 聴覚障害を持ったキャラクターを登場させるだけで、どのようなかたちで描かれたのであれ、批判は生じたと思います。有名な話ですけど、有川浩の『図書館戦争』では、聴覚障害者が登場するエピソードはTVアニメ化されるさいにカットされています。そういうふうに「なかったことにする」よりは、世に出して今みたいに議論されたほうがよかったと思いますよ。少なくともこの作品に関して言えば。

藤田 西宮が無茶苦茶ブスで、性格が悪かったら、それでもこの映画は成立するのだろうか? とか、考えてしまいましたよ。

飯田 君の言い方は「障害者は普通の意味でかわいくとか美しく描かれてはいけない」みたいに聞こえるけど、それはそれで問題では?
将也は硝子がブスでも過去に自分がしたことについて、本気で反省したと思いますよ。

藤田 二回目以降、会いに行ったかなぁ?

飯田 そういうキャラだったら、将也は永束くんと仲良くしてないよ。
ばあちゃんが死んだあとすぐ自分も死のうとする硝子は正直、理解を超えてますけどね。自殺しようとするところなんか、メディアで求められる、障害者のテンプレ的なイメージからは逸脱している気がします。

藤田 ぼくも、正直言って、西宮さんかわいいと思いますし、やりとりに萌えますけどね、だからこそ、まずいと思うんですよ。
障害者を美少女で萌えるキャラクターとして描くことで、大衆エンターテイメントとして成立するギリギリのラインで深刻な問題を扱った。それは評価します。しかし、障害者のあるべき像を無意識に押し付ける効果は批判しなくてはいけないのではないだろうかな。……そこが、実は「邪悪」と断じた川井とおんなじ戦略なんですよ。見た目で情動を動かす戦略においては。
自殺を急に試みる場面は、表面に見せている姿と、内面が乖離していたことを、観客も突きつけられる効果はありましたね。西宮は、「演じていた」わけですよね。でも、裏側に降り積もった何かがあったわけで。そういう「背後を想像せよ」という指示が暗黙になされている場面と観ることができる。そう観ることで、この映画全体が「美しすぎる」ことの背景に秘めた意図を擁護できるようになるかもしれない。
しかし、それでも、西宮が許しすぎなのは、どうかな……。寛容すぎるような。

飯田 寛容なんじゃなくて、自己評価が低すぎて、DV被害者にいるような「自分が悪い」と思い込むタイプが硝子。硝子は硝子で現実を見ないように逃げ続けている。それを描いているのが『聲の形』で、聴覚障害者だからって特権的な扱いはしてないですよ。
「自分が全部悪い」ってしょいこむことで具体的な個人や事象と向き合わないのは嫌い(まずい)、って植野は観覧車の中で硝子に対して、橋で将也に対して言っていて、植野の思想は一貫しているし、間違ったことは言ってない。

藤田 そこは正しいんですよね。荒っぽく言っているけど、相手にもちゃんと影響与えている(と思しい)。植野の行動がポジティヴに、しかも、一番核心に近い部分に触れて(無意識に)相手を変えた(かもしれない)あの瞬間があることは大事ですね。

重松清の「カレーライス」を朗読するシーンの意味

飯田 小学校時代、国語の授業で朗読されているのは重松清の「カレーライス」なんだけど、あれって「1日30分しかゲームやっちゃだめ」って言われてたのにやってたから電源切られて父親とケンカ状態にある息子が「ごめんなさい」なんて言わないぞ、って話で、父ちゃんといっしょにカレーつくって仲直りするんだけど、でも最後まで謝らないんだよね。
これを朗読するのが植野、硝子、将也。「ごめんを言わない/言えない」という「カレーライス」の内容は明らかに映画の内容と連関している。しかもそれを父親のいない将也や硝子が朗読する。父的な存在は小学校の担任以外登場しない作品において、です。
もっと言えば重松清は本人も吃音であり、小説でも吃音の人物を何度も登場させている作家です。「カレーライス」にはどもりの描写はないけれども、植野は適当に読んで先生に怒られ、硝子は読み方を不問にされ、将也は硝子の読み方をマネしてまじめに読まない。彼らは「伝えられない/しゃべれない/しゃべらない」という、ある意味では吃音的なふるまいをしている。『聲の形』は「耳/聞こえる」ことにフォーカスされがちな話だけれども「口/話す/伝える」ことがうまくできない人間たちの話ですよ、ということを、重松の引用は指し示している。
「誰が悪い」とか人格批判をしたい人はすればいいけれども、僕はこういう細かいところを考察したほうが感じ入ることができる作品だと思います。

藤田 どうだろうか。「客観的に誰が悪いのか」も、キャラクターの関係性や、内容全体を判断する時に重要になってこないだろうか。石田がふざけて読むのは、西宮が笑われたのを庇うためですよね。自分が笑いものになることで、彼女の気を楽にさせ、クラスメイトの彼女への印象を消すためですよね。その意図は、西宮はおそらく理解している。植野も理解していて、だからこそ腹が立つ。
西宮と石田が恋愛関係になるのは、不思議ではない。いじめが始まる前に石田はターゲットにならないようにアドバイスしているし、笑い者に自分がなるように差し出しているでしょう。サクリファイス(自己犠牲)の人である部分もあった。それが、繰り返される(イジメのターゲットになる、西宮に変わって転落する)。そういう象徴の構造になっているのは分かるんですよ。
伝わる部分と伝わらない部分が、それぞれでまだらなまま、悲劇的な連鎖反応が起きてしまったからこそ、発信・受信を遮断するようになった。そこから回復するために、最適な周波数・解像度・言語を手探りする、という話なんだと思うんですよね、映画全体が。

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