没後25年、フレディ・マーキュリー列伝:知られざる10の真実

没後25年、フレディ・マーキュリー列伝:知られざる10の真実

  • RollingStone
  • 更新日:2016/11/30
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没後25年、フレディ・マーキュリー列伝:知られざる10の真実

故フレディ・マーキュリーがダイアナ妃をお忍びでゲイバーに連れて行ったことから、墓碑の所在地まで、伝説のヴォーカリストの人生の知られざる横顔を紹介する。

『Lover of life, singer of songs(命あることを喜び、歌い続けた歌手)』。

クイーンのメンバー、ブライアン・メイは、複雑な人物として知られるフレディ・マーキュリーを、このシンプルな追悼の言葉でうまく表現した。「彼は精一杯生き抜いた。僕にとって、とにかく、彼は寛大で、親切で、そして時々、短気だった。でも大切にしていたこと、つまり音楽を作ることに、本当に献身的だったんだ」と、メイは英BBC放送のドキュメンタリー番組の中で振り返った。

英保護領ザンジバル生まれのフレディの本名は、ファルーク・バルサラ。その並外れた才能は、派手さと躍動感で示されることとなる。その本質が、大ヒットしたクイーンの楽曲や、歴史に残るコンサートを生み出した。その生涯において、4オクターブの声域は(フレディの声の複雑さと荘厳さを解明しようと科学者が研究している)、ロックシンガーの歌唱水準を引き上げた。そして死んでもなお、フレディは、数百万人のエイズ患者に対し、歌声を届けた。

フレディの逝去から25年、彼のさまざまな偉業を振り返り、まだあまり知られていない話をここにまとめた。

1.クイーン結成前、ロネッツやダスティ・スプリングフィールドの曲をカバーしたソロ・シングルを発売。グラムロック界のスター、ゲイリー・グリッターに皮肉も

クイーンとして活動する前、マーキュリーはクイーンの他の2人とバンドを組み、非常に不躾なレコード盤を発売した。1973年の年明け、バンドを結成したばかりの頃、当時デヴィッド・ボウイやビートルズが使用していた、ロンドンにある最新鋭のトライデント・スタジオでデビュー・アルバムを制作していた。そのような輝かしい足掛かりも実は、レコーディングを深夜に行うという許可のもと(ほとんどのレコーディングは午前3時から7時の間)、実現したものだった。「『ダークタイム』って呼んでたね。録音エンジニアがお気に入りのバンドのレコードを作ってあげるか、下っ端がオペレーターをさせられてた」と、プロデューサーのジョン・アンソニーは、音楽グループ伝記作家のマーク・ブレーク著『Is This the Real Life??The Untold Story of Queen(仮題:これは現実か?クイーン秘話)』の中で述べている。

ある晩、スタジオが空くまで待機していると、マーキュリーにトライデント・スタジオのエンジニア、ロビン・ジェフリー・ケーブルが近寄ってきた。ケーブルは、録音プロデューサーのフィル・スペクターが考案した『ウォール・オブ・サウンド』を再構築しようとしていた。そのプロジェクトにマーキュリーの声は理想的だった。マーキュリーは演奏者としてブライアン・メイとロジャー・テイラーの名を挙げ、3人はロネッツの『アイ・キャン・ヒア・ザ・ミュージック(I Can Hear The Music)』(ビーチボーイズのカバー曲がヒットしたため当時流行していた)と、ダスティン・スプリングフィールドが歌ってヒットした、キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの曲『ゴーイング・バック(Goin Back)』をカバーした。

結果、3人は実力を評価され、レコードを売り出すようケーブルから勧められた。マーキュリーは賛成したが、クイーンとしてのデビューが迫っていたため、紛らわしいことは避けようという理由から別名を名乗ることになった。そして『ラリー・ルレックス(Larry Lurex)』という奇妙な名前をつけた。当時、イギリスの音楽ランキング上位にいた、ゲイリー・グリッターをもじったもので「個人的なジョーク」だったと認めている。姓のルレックス(Lurex)とは、ラメ用の金属繊維のメーカー名で、グラムロック界のスターだったグリッターが好んで着たボディスーツに使われていた。

グリッター(この数十年後には性犯罪で投獄されてしまうのだが)は当時の大人気スターであり、マーキュリーの横槍に良い反応を示す者はなかった。腹いせから誰もレコードを買わず、DJも曲をかけることはなかった。6月の終わりに売り出されたが、最初で最後のラリー・ルレックス名義のレコードは撃沈した。クイーンの最初のアルバムはこの1週間後に発売となったが、そちらは上々の仕上がりとなった。

マーキュリーは、クイーンの活動にパワーを注ぎ続けたが、ラリー・ルレックスが失敗した本質的な問題に腹を立てていた。「あれはいい出来だったよ!みんな気付いた方がいい。自分の曲がカバーされるなんて、アーティストにとって一番の名誉だろ?お世辞みたいなものだよ。冗談にすぎない。いや、あれの何が問題なんだ?エルヴィス・プレスリーが出てからは、みんなプレスリーのパロディじゃないか?」と、話している。

この失敗のせいでマーキュリーとケーブルの関係が悪化するようなことはなかった。翌年行われたクイーンのセカンドアルバム『クイーンⅡ』のレコーディングにおいて、マーキュリーは収録曲『ファニー・ハウ・ラヴ・イズ(Funny How Love is)』のウォール・オブ・サウンド・システムの再構築を、ケーブルに任せた。

2.クイーンの『紋章』をデザイン、多彩なフレディ・マーキュリー

フレディ・マーキュリーがバンド名を発案したのだから、紋章をデザインしたのが彼だとしても、意外なことではない。

バンド名候補リストには『Build Your Own Boat』『Grand Dance』『the Rich Kids』などが挙がっていたが、マーキュリーの構想にしっくりくるものはなかった。「クイーンのコンセプトは、威厳と風格だ」と、英音楽誌メロディ・メイカーに対し述べている。「ダンディで、インパクトがあり、奇抜な存在になりたい」。クイーンはその期待どおりになった。

バンド名以外にも、あの特徴的なロゴ、マーキュリーが言うところの紋章も、フレディが考案したものだ。ピート・タウンゼントやロン・ウッドも通ったロンドンのイーリング・アート・カレッジで美術の才能を伸ばしたマーキュリーは、デビュー作品のジャケットに使用するため、紋章のデザインを考え始めた。メンバー4人それぞれの星座が描かれている。2匹のライオンはしし座のジョン・デーコンとロジャー・テイラー、蟹は、かに座のブライアン・メイ、マーキュリーは厚かましくも、おとめ座を表現した2匹の妖精としてデザインされている。大きな不死鳥が、希望と再生の象徴としてそれらの絵を囲んでいる。マーキュリーの母校、セント・ピーターズ・スクールの紋章を参考にしたものだ。そして当然ながら、中央に位置する王冠の真ん中には優美な『Q』の文字が配置されている。

3.デヴィッド・ボウイのステージを組み立てる。ボウイにヴィンテージ物のブーツを勧める

デヴィッド・ボウイとフレディ・マーキュリーは、1981年に『アンダー・プレッシャー』の合作で世界的ヒットを飛ばしたことで知られているが、2人はそれぞれが売れる前、60年代後半に知り合っていた。当時、ボウイの方が有名だったのだが、イーリング・アート・カレッジの昼食時間にライブをやって欲しいという申し入れを受けたのだ。マーキュリーはボウイのファンだったので、荷物運びを買って出た。ボウイは、一緒に机で簡易ステージを作ってほしいとマーキュリーに頼んだ。

それからまもなく、マーキュリーとロジャー・テイラーは、音楽だけでは収入が足りないので、ケンジントン・マーケットにヴィンテージ服飾店を開いた。テイラーは「エドワード調の服まで売ってたんだ。怪しい卸業者から絹のスカーフのバッグなんか仕入れてた。入荷すうとアイロンをかけて、パタパタはたいてた」とブレークに話す。ブライアン・メイは、2人の店の商品の品質について、褒められたものではなかったと思い出す。「フレッドは、そんな古着が入った袋をどっさり持ち込み、服を取り出して『見ろよ、この服、すごいだろ!これなら金になるよ!』って言うんだけど、『フレッド、そんなものただのボロキレだよ』って言ったんだ」。

マーキュリーとテイラーは、古着屋の経営には向いていなかった。マーケットの通路を隔てた向かい側で服飾店を経営していた、心優しいアラン・メイヤーが2人を雇うことになる。メイヤーはマーキュリーについて「どんな時も頭の回転が速く、とても礼儀正しかった」とBBCのドキュメンタリー番組『フレディーズ・ミリオンズ(Freddies Millions)』の中で語った。「フレディに対して文句をつける人はいなかったし、態度に問題もなかった。いつも遅刻していたが、別に大したことじゃなかった」。

メイヤーは、デヴィッド・ボウイの初期のマネージャーの知り合いで、将来の「スターマン」が、ある日店に来たと言う。「『スペース・ オディティ』がヒットしていたんだけど、お金がないって言うんだ。音楽業界の常だよ。『お金はいいから好きなの持って行って。出世払いでいいよ』って言ったんだ。そしたらフレディが、ボウイにブーツを履かせてた。だってフレディ・マーキュリーが店員だったから。文無しの人気スターだったデヴィッド・ボウイにブーツを謹呈したよ」と、『Is This The Real Life』の中で、メイヤーは話している。

4.後悔している?セックス・ピストルズの大ブレイクの原因を作ったマーキュリー

1976年12月1日。クイーンは、ビル・グランディが司会を務める夕方のトーク番組『トゥデイ(Today)』にニューアルバム『華麗なるレース』の宣伝のため出演する予定だった。しかしマーキュリーは(しかもなんと15年ぶりに)歯医者に行かねばならなくなり、クイーンが所属していたレーベル、EMIは、売り出し中のバンド、セックス・ピストルズを代わりに出演させた。何を考えたか、番組プロデューサーが本番前に酒を振舞ったため、物騒なパンクロックミュージシャンは殊更にやんちゃな言動をしてしまった。ピストルズのメンバーと同じくらい酔っぱらっていた挑発的なグランディにけしかけられ、スティーヴ・ジョーンズとジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)の2人は、何度も、露骨に性的な言葉、つまり決してテレビでは口にしてはならない『ファック』などを繰り返した。この番組は大ロンドン地区しか放送されなかったが、すぐにマスコミが攻撃、セックス・ピストルズは全国的な知名度を得ることになる。英デイリー・ミラー紙の1面見出しには『卑猥で乱暴!』と大きく書かれ、他の多くのタブロイド紙もこれにならった。伝え聞くところでは、視聴者の一人、怒り狂ったトラックの運転手はテレビを叩き壊したという。ロンドン市議会の保守派議員は、セックス・ピストルズのことを「吐き気をもよおす存在」そして「人類の対義語」と表現した。間近に迫った『アナーキー・ツアー』は次々キャンセルされ、抗議運動も起きたが、マスコミによる調査において、人気はどんどん上がっていった。

超有名バンドを馬鹿にしていたセックス・ピストルズは、クイーンのことは特に、華美でショービジネス的、技巧的とみなし、見下していた。とはいえ、これはお互い様だった。マーキュリーは粗削りなロック・スタイルを認めなかった。「フレディはパンクそのものを理解できないと言っていた。フレディにとって、セックス・ピストルズは音楽ではなかった」と、EMIの役員はブレークに対して語った。

1977年、セックス・ピストルズがデビュー・アルバムを録音していたロンドンのウェセックス・スタジオを、クイーンも同時期に使っていたことがあった。「廊下でよくすれ違ったよ。ジョン・ライドンと話す機会もあったね。いつもとても礼儀正しかったよ」と、ブレークに対し、ジョンは話している。

しかしセックス・ピストルズのベーシストに対するロジャー・テイラーの評価は、少し厳しい。「シド(・ヴィシャス=悪意)はアホだった。彼はバカだったね」と、クイーンのドキュメンタリー番組『Days of Our Lives』の中でコメントした。忘れられない場面として、ヴィシャスがクイーンのスタジオに酔っぱらって入ってきて、マーキュリーに喧嘩を売り、「お前、バレエを披露して、大衆にウケたのか?」と、わめいたことを挙げた。当時マーキュリーが英音楽紙NMEのインタビューで、華やかに、そして自慢げに語った内容に対する当てつけだった。

マーキュリーがその場で喧嘩を買うことはなかった。「シドには、サイモン(シドの本名)・フェロシャス(=凶暴)とか、そんな呼び方してたよ。彼は本当に嫌がってた。『自分はどうことがしたいんだ?』って言ったんだ。でもシドは、わかってたんだ。ハッキリしていた。だから言ったんだ。『明日は別なことを考えているかもしれないんだから、今日鏡を見て正確に自分の立ち位置を確認するんだ』って。そんなことを言われることさえ、彼は嫌ってたね。クイーンは、その試練に生き残ったと思ってる」と、テレビのインタビューに答え、そう話している。

5.英ロイヤル・バレエ団との共演

セックス・ピストルズは知る由もなかったが、すぐにマーキュリーはバレエを披露するという公言を実現させた。1979年8月、ロイヤル・バレエ団のプリンシパル、ウェイン・イーグリングは、慈善公演に向けて、バレエ団と共演できる、特に体が柔らかい有名スターを探していた。ケイト・ブッシュに断られ、イーグリングはマーキュリーに目を付けた。

当初のマーキュリーの反応は、好ましいものではなかったが(曰く「頭がおかしいんじゃないかと思った」)、偶然にもEMI会長のジョセフ・ロックウッド卿のロイヤル・バレエ団の理事長就任が重なり、2人が話し合った後でマーキュリーは出演の意思を固めていく。「フレディは、バレエにはそれなりの興味を持っていた。でもロックウッドがそれに火をつけたんだ。フレディはスケールの大きさに惹かれたんだ。相当な規模だった。フレディの演技はすべて勇壮だった、」と、クイーンのマネージャー、ジョン・レイドは、ドキュメンタリー映像『クイーン・フレディ・マーキュリー神話~華麗なる生涯~グレート・プリテンダー(The Great Pretender)』の中で話している。何もかもが上手く運んだ。

クイーンとしてのマーキュリーの運動能力は知られており、標準レベルに引き上げるため、厳しい訓練が待っていた。「バレエスタジオの手すりで練習させられるんだけど、脚のストレッチから、とにかく色んなこと、バレエ団の人たちが何年もかかってやってきたことを1週間でやらせようとしたんだ。人殺しさ。2日後には激痛に襲われたよ。体にそんな部位があるって知らなかった場所があちこちで痛むんだ。参ったよ」と、ロンドン・イヴニング・ニュースに対し、マーキュリーは語った。

1979年10月7日土曜日、ロンドン・コロシアム劇場で、2500名のチャリティ後援者を前に、マーキュリーはバレエの初舞台を踏む。『ボヘミアン・ラプソディ』と、そのあと発売になった『愛という名の欲望』をオーケストラの演奏で歌い上げ、上半身裸の3人の男性に高々とリフトされた。最後の山場では、銀色のボディスーツに身を包み、こうもりのように頭を下にして宙吊りになる演技もやってのけた。

当時客席で見ていたロジャー・テイラーは、ブレークに対し「あんなことをやって済まされる人間なんて、どこ探しても他にいないよ。平均年齢94歳の、ステージでひょいっと持ち上げられている銀色のモノが何をしているんだかわからないような、頭の固いロイヤル・バレエ団の観客の前で演技したんだから。勇気があるというか、おめでたいというか」と話した。

「バリシニコフとまではいかなかったけど、おじさんのバレエ初心者としては悪くなかったよ。ミック・ジャガーにも、ロッド・スチュワートにも見せたいね」と、マーキュリーは後になって、この経験を冗談交じりに振り返っている。

6.『愛という名の欲望』はバスタブの中で作られた

クイーンは1979年6月にアルバム制作のため密かにミュンヘンへと旅立ち、完成したニューアルバム、「ザ・ゲーム」が発表される。豪華絢爛なバイエリッシャー・ホフ・ホテルにチェックインした後、バスタブで旅の垢を落とそうとマーキュリーはバスタブに足を入れたとき、メロディーが浮かんできたという。しゃくりあげるような歌い方をするロカビリー調の曲で、パロディの要素も入っている。若かりし頃のマーキュリーに、歌手として多大な影響を与えたエルヴィス・プレスリーがその頃亡くなり、敬愛を込めて歌われている。アコースティックギターを弾けと、アシスタントのピーター・ヒンスを呼び、バスタオルを体に巻き付けて、マーキュリーとしては珍しい、極めてシンプルな曲の基本部分が作られていった。

1981年のメロディ・メイカーの取材に対し、マーキュリーは「『愛という名の欲望』は5分か、せいぜい10分で作った」と認めている。「ギターで作曲したんだ。ギターは全然わからなかったのに。コードなんかあまり知らないから、そういう制限がかえって成功につながったと思うよ。小さな枠組みの中で曲作りをするのは、いい訓練だった。いっぱいコードを使ったら、曲作りの足かせになってしまって、いい曲が書けなかったと思う。制限があったからこそ、いい曲が書けたんだ」と、マーキュリーは話した。

だいたいの骨組みができたところで、マーキュリーはさっそく、ミュージックランド・スタジオで曲を固めていった。事前に、エンジニアのラインホルト・マックに録音の準備をするよう電話していた。「とにかく急いで、一瞬で、何もかも準備したよ」と、『Days of Our Lives』の中で、マックは話している。クイーンのメイ以外のメンバーは来ていたが、マーキュリーは、メイの不在をおしてレコーディングを敢行した。実際、束の間であっても、完璧主義者からの反発から逃れられ、若干救われたところがあった。「(マーキュリーが)『ブライアンが来る前に早く終わらせよう。そうじゃないと長引くぞ』って」とマックは笑った。

本当に、メイが到着する前に作業は終わっていた。「ブライアンの好みじゃないだろ」という意見があがっていた。実際、メイは気に入らなかった。第一印象でピンと来なかったところがあったが、それよりもクイーンのほとんどのレコーディングでメイが使用してきたメイン・ギター『レッド・スペシャル』を諦め、50´sっぽいフェンダーのテレキャスターを使ってくれ、と言われたことに腹を立てていた。「面白くなかったね。反対したんだが、それが進むべき道だとわかった」と、メイはブレークに言った。

そう、それで正解だったのだ。『愛という名の欲望』は、その秋にニューアルバムが発売される前、シングルとして先行リリースされたが、世界中で売上1位を獲得した。「まだ製作途中だったんだ。完成までまだ随分あった。ミュンヘンに飲みに出掛けたんだ。そしたら誰かが、『アメリカで1位を取ったぞ』って言ったんだ。だから『イェア!もっと酒持ってこい!』ってなったよ」と、テイラーは『Days of Our Lives』の中で語った。

7.ダイアナ妃にゲイの格好をさせ、お忍びでゲイクラブへ

80年代半ば、クイーンの名声により、マーキュリーは皇室に縁を持つようにさえなった。レディ・ダイアナ・スペンサー、後のダイアナ妃とも友人関係にあった。その名も『国民に愛されたお姫様(Peoples Princess)』の落ち着いた行動は国民から慕われたが、止まぬマスコミの報道合戦は若いダイアナ妃にとって大きなストレスだった。そこでマーキュリーは、ダイアナ妃を夜遊びに連れ出そうと企んだ。

2013年に発表された、女優クレオ・ロコスの回顧録によると、ダイアナ妃とマーキュリーはある日の午後、コメディアンのケニー・エヴェレットの家でシャンパンを飲みながら過ごした。音量を下げて『The Golden Girls(ゴールデン・ガールズ)』の再放送を見ながら、『もっと激しいストーリー』に仕立て直し、即興で演じていたという。ダイアナ妃が全員にその夜の予定をたずねたところ、マーキュリーはロンドンで有名なゲイクラブ『ロイヤル・ ボクソール・タバーン(Royal Vauxhall Tavern)』に行くと答えた。するとダイアナ妃は、自分も一緒に行きたい、普段のうっぷんを晴らしたいと言い出した。

ロイヤル・ ボクソール・タバーンは大人気でいつも混みあっていることで知られ、常連客同士の喧嘩がたびたび起こることでも有名だ。まずもってプリンセスが訪れるような場所ではない。「『もし喧嘩に巻き込まれて新聞沙汰になったらどうするの!』と引き留めたの。でもダイアナは、『激しいストーリー』モードに入ってしまっていたので、フレディが言ったの『行こう!女の子だって楽しまなくちゃ(let the girl have some fun)』」。

この計画が成功するか否かは、変装にかかっていた。エヴェレットが自分の衣装から選び出し、提供した。黒いアーミージャケット、ティアドロップ型のサングラス、髪を隠すために革製の帽子も。「薄明りの中でよくチェックしたわ。そして当世で最も有名なこのお方は、もしかして、もしかすると、変な話だけど、むしろゲイの男性モデルに見えるかもしれないって結論に達したの」と、ロコスは語る

彼らは、ダイアナ妃をどうにかゲイクラブに忍び込ませた。居合わせた大勢の客は、マーキュリー、エヴェレット、ロコスに視線を向け、ダイアナ妃にはまったく気付かなかったので、妃は自分で酒をオーダーできたという。「革製の衣装を身に着けた大群を掻き分けてやっとバーカウンターにたどり着いたの。私たちは学校のいたずらっ子のように肘をつつき合ったわ。ダイアナとフレディはクスクス笑ってた。ダイアナは白ワインとビールを注文してたわ。ダイアナが注文して普通に飲み物が出てくると、私たちは全員で視線を交わし、この冒険が大成功を収めていることを一緒に喜んだ。やったね!って」。

しかし彼らは羽目を外すことなく、たった20分の滞在で店を後にした。しかし、有名人の重荷から束の間でも解放されたことは、ダイアナ妃にとって貴重な経験だった。ケンジントン宮殿に妃を送る道のりで、「絶対またやらなきゃ!」とはしゃいでいたという。

その後、90年代初めに、マーキュリーとエヴェレットはエイズ関連の病気で死去、ダイアナ妃は英国最大級のエイズ撲滅支援団体、ナショナル・エイズ・トラストの後援者となった。2016年、ダイアナ妃のロイヤル・ ボクソール・タバーン潜入作戦はミュージカルになり、劇場で上演されている。

8.マイケル・ジャクソンとのレコーディングを『キング・オブ・ポップ』のペットだったラマが妨害

マーキュリーは、クイーン結成前、ジャクソン5の『I Want You Back/帰ってほしいの』をハードロック好きのルームメイトに熱く語っていた頃から、マイケル・ジャクソンのファンだった。「フレディは、マイケルに対して畏敬の念を抱いていた」と、マーキュリーの付き人、ピーター・フリーストーンはブレークに話した。1982年に、マイケルが世界的大ヒット曲、『スリラー』で音楽的に、そして商業的に一段高いところへ登った時、キング・オブ・ポップと、クイーンの看板スターが共演するにふさわしい、完璧なタイミングであるかのように見えた。

マーキュリーは手始めに3つのデモ曲を制作するため、1983年春にカリフォルニアのエンシノにあるジャクソンの自宅スタジオを訪れた。『生命の証(There Must Be More To Life Than This)』は、そもそも1982年に発表されたクイーンのアルバム『ホット・スペース』の制作中に思い付いた曲だが歌詞が完成しておらず、マーキュリーがジャクソンにアドリブで考えるよう催促する場面も、セッションを記録したテープに残されている。『ステイト・オブ・ショック(State of Shock)』はジャクソンが大部分を書いているが、『ヴィクトリー(Victory)』はこの2人の合作である。

違法に録音されたデモ曲からは、大変な格闘があったことがわかる。しかし最終的にこの企画は日の目を見ないまま終わった。『生命の証』は作り変えられ、1985年のマーキュリーのソロアルバム『ミスター・バッド・ガイ(Mr. Bad Guy)』に収録された。また、『ステイト・オブ・ショック』は、ミック・ジャガーとのコラボレーションで、1984年にジャクソンズからシングル曲として発表されている。最後の『Victory』は、お蔵入りとなっている。

この組み合わせがなぜうまくいかなかったのか、マーキュリーは正確に説明しており、大人の対応をしたと考えられている。1987年にマーキュリーは「曲をきちんとと完成させるほど長く、同じ国に滞在することができなかったんだ」と述べている。しかし同時期の別のインタビューでは、キング・オブ・ポップに関して否定的な感想が伝えられた。「マイケルは自分の小さな世界に関わるだけの生活を送っている。一緒にナイトクラブに出掛けたりして、前はとても楽しかっんだけど、今は要塞に引き籠っているよ。悲しいね」。

クイーンのマネージャー、ジム・ビーチは、よく取りざたされていることではあるが、ジャクソンの特異性が、スタジオでマーキュリーを苛立たせたと話している。「フレディから突然電話が掛かってきて、『迎えに来てくれないか?スタジオから出して欲しい』って言うんだ。『どうしたの?』って尋ねたら、『ラマと一緒にレコーディングしてるんだ。マイケルがスタジオに毎日ペットのラマを連れてくるんだけど、自分はラマとレコーディングするのにまったく慣れないんだ。もうたくさんだよ、退散する』って言ったんだ」と、ビーチは『The Great Pretender』の中で語った。

一方でジャクソンも、マーキュリーの奇癖に困っていたようだ。英タブロイド紙ザ・サンにマーキュリーの付き人が語った話によると、マーキュリーが100ドル札を丸めて鼻からコカインを吸引するたびに、セッションが中止されたという。

いずれにせよ、マーキュリーは亡くなるまでこのコラボレーションの失敗を引きずった。「マイケルと共作した曲でジャクソンズが引き継いだものもあって、フレディは敗れたわけだから、やっぱりちょっと動揺していた」と、『Is This the Real Life』の中でメイは話している。デュエット版の『生命の証』は、プロデューサーのウィリアム・オービットによって生まれ変わり、2014年に発表された『クイーン・フォーエヴァー』に収録されている。他の2作品は未発表のままだ。

9.ツアー中も猫に電話、お気に入りのデライラには曲も

控えめに言っても、フレディ・マーキュリーは猫派だ。亡くなるまでずっと何匹ものフワフワした生き物と一緒に暮らしていた。そして離れて過ごすのはツライことだったようだ。クイーンとして世界ツアーに出ている間も、常習的に電話し、自宅に残した愛猫たちと話していた。

「ホテルに着くと電話をするんだけど、フレディは猫たちと話したがった。(親友の)メアリー(・オースティン)がトムとジェリーを抱え、代わる代わる受話器に近付けてフレディと話をさせていた。これは何年にもわたり、フレディの自宅に住んでいた猫科の同居人に対し続けられたことだ」と、ピーター・フリーストーンは回顧録『ミスター・マーキュリー(Mr. Mercury)』の中で語っている。

マーキュリーの最後の恋人、ジム・ハットンが優雅なガーデン・ロッジの邸宅に引っ越して来るまで、猫科の同居人は、オスカー、ティファニー、ゴリアテ、ミコ、ロミオ、デライラと、6匹まで増えていった。「フレディはまるで我が子のように猫を可愛がっていた。フレディは家を留守にしていても、猫たちのことをずっと気にしていた。フレディがいない時に猫たちに何かあったら、神様が助けてくれる。猫たちは日中、家の中や庭を走り回り、夕方になると捕まえに行って家の中に入れるんだ」と、著書『マーキュリーと私(Mercury and Me)』の中で、ハットンは述べている。

ハットンは、ゴリアテがいなくなってしまった時のことを「フレディは半狂乱になって、深い絶望に沈み、来客用の寝室の窓に向かって日本の火鉢を投げつけた」と、記している。マーキュリーは発見した人に1000ポンド(約14万円)の懸賞金を用意したが、幸いにも、それを支払う前にゴリアテは見つかった。

「フレディは大喜びで、5分間くらい抱きしめたり、撫でたり、ゴリアテに夢中だった。そして母親のように、ガーデン・ロッジから家出した小さなゴリアテに怒鳴ったり叫んだりして怒っていた。黒っぽい毛色のゴリアテは丸くなって座り、フレディの激高をおとなしく聞いていたが、喉をゴロゴロ鳴らしていた」と、ハットンは述べている。

マーキュリー家の「リトル・プリンセス」とハットンが呼んでいるデライラには特等席が用意されていた。「ガーデン・ロッジの猫の中で、デライラが一番のお気に入りで、特に可愛がっていたし、よく撫でていた。フレディが夜ベッドに連れて行くのはデライラだった。夜中、徘徊に出るまで、デライラは足元で寝ていた」と、記している。

マーキュリーは『デライラ』という曲で、そのサビ猫への愛を永遠に残る形にした。他のクイーンのメンバーはその曲に心を奪われることがなかったが、しぶしぶ同意した。メイは猫の声を出すため『トーク・ボックス』(トーキング・モジュレーター)を使うことに強く抵抗したが、結局使う羽目になった。「最終的に折れて、使うことになった」と、1991年にメイは、米雑誌「ギター・ワールド」に話している。「トーキング・モジュレーターを運び入れてきたから、僕は『ニャーっていう音を出すにはそれしかない』って言ったんだ」。この曲は、マーキュリーが亡くなる前にリリースしたクイーン最後のアルバム、『イニュエンドウ』に収録されている。この頃のマーキュリーの病状を考えると「泣きそうな時も君が笑顔にしてくれる/君が希望を運んでくれる、君が僕を笑わせてくれる―うれしいよ」という歌詞は、特に心に響く。

10.遺言で埋葬地を秘密にするよう言い残し、今も公表されていない

1987年の春、マーキュリーはエイズと診断され、近親者に対し、徐々に病状を打ち明け始めた。テイラーは、「ミーティングをやると言って自宅に呼ばれ、その事実を打ち明けられた。うっすらと気が付いてはいたんだけど」と、フレディ・マーキュリーのドキュメンタリー『アントールド・ストーリー(The Untold Story)』の中で語っている。マーキュリーが日に日に弱り、痩せ衰えていく姿は、何か恐ろしいことが、頑強そうなクイーンの大看板に起きているのではないかというマスコミの憶測を呼ぶことになる。しかしマーキュリー側はマスコミが押し寄せても一切受け付けず、これを強く否定。「何もかも隠した。嘘をついたと思う。彼を守るためさ」と、『Days of Our Lives』の中でメイは話した。

1990年の年末までにクイーンは静かで悲しい曲調のバラード、『輝ける日々(These Are The Days Of Our Lives)』を含むアルバム、『イニュエンドウ』の収録を終えた。直接的にフレディの体調悪化に触れることはなかったが、クイーンの若かりし日を思い出す切ない視線を描いた曲だ。1991年5月30日に収録されたこの曲のPVは、マーキュリーの急激な体調悪化をさらに印象付けた。マーキュリーを蝕むエイズの進行を少しでも隠すため、撮影はモノクロで行われた。2011年にメイは、「自分が納得するまでメイクを何時間でもやらせていた。このビデオの中で、事実上、彼は別れの挨拶をしているんだ」と、英インディペンデント紙に話している。着用している特注のベストには、最愛の猫たちが描かれており、「I still love you」と顔をゆがめて微笑みながら、うつむき加減でつぶやくマーキュリーが、このビデオの最後に映し出されている。これがマーキュリー最後の映像となる。

このビデオが撮影される数週間前、マーキュリーはスイスのモントルーに行っている。悪化する病と闘いながら、力の限り多く曲を残したかったからだ。この収録は、マーキュリーが望む日常を取り戻すために必要だった。「あの時、フレディは言ったんだ『曲を書いてくれ。もう長くない。歌詞を書き続けてくれ。僕に与え続けてくれ。僕は歌う。その後は好きなようにしていい。曲を仕上げてくれ』って」と、メイは『Days of Our Lives』の中で語った。

プロデューサーのデイヴ・リチャーズは、この収録の緊迫感について言及している。楽器のチューニングに何時間も悩むような猶予は、最早なかった。「収録する間も、刻々と死に近づいていた。『これを仕上げるまで待てないから歌わせてくれ。ドラムマシンがリズムをくれれば、すぐに終わらせられる』と言ったんだ。もうすぐ死ぬと彼はわかっていた」。

メイがマーキュリーのために書いた、スローテンポながら激しい、壮大な曲『マザー・ラヴ(Mother Love)』を、マーキュリーは普段通りたくましい声で歌い上げた。英テレグラフ紙に対し、メイは「どこからそんなパワーが湧いてきたのかわからない。たぶんウォッカだったと思う。気分が乗ってきて、軽くウォームアップをすると、『一杯くれ』って氷のように冷たいウォッカを一気に飲んでた。銘柄はストリチナヤだったよ。そして言うんだ、『よし、録ろう』って」と話した。立ち姿勢を維持することができず、杖をついて歩きながら、コントロール室で『マザー・ラヴ』の録音を行った。

「最後から2番目のパートまで漕ぎ着けた時に、フレディが言ったんだ。『ちょっと体調が良くない。今日はもうこれで終わりにしたい。次の収録の時に、この曲を仕上げる』って。でももちろん、その後彼がスタジオに戻ることはなかった」。収録されているこの曲の最後のパートは、メイが歌っている。

その後、マーキュリーはガーデン・ロッジに戻り、ジム・ハットンとメアリー・オースティンがマーキュリーを看病する。かつて恋人だったオースティンとは、1970年に出会っている。2人は7年同棲していたが、その後は住居を別に持ちながら、暮らしを支えあっていた。マーキュリーはインタビューの中で、たびたびオースティンのことを親友と述べており、ジャーナリストのデヴィッド・ウィグは、マーキュリーが、『全財産をメアリーと猫たちに譲る』と遺言していたことを明らかにしている。クイーン初期の優美な代表曲『ラヴ・オブ・マイ・ライフ(Love Of My Life)』は、オースティンへの思いを歌ったものだ。

オースティンは、自らのソウルメイトの炎が消えていくのを見守った。「限界に達したんでしょう。レコーディングできなくなったら、それが生きる力の尽きた時。もう終わりだと思った」と、オースティンは『The Great Pretender』の中で話している。「彼の人生と喜びは音楽を作ることだったから。音楽が作れないのなら、自分の状況に向き合うだけの強さが、彼にはもう残っていないと思った」と、語った。

そしてその時は来た。マーキュリーは急いで死ぬ準備をした。「日曜日の昼食後、突然『君が僕をどこに埋葬すべきか、きちんと決めてあるんだ。でも君だけにしか言えない。誰にも掘り起こされたくない。静かに休みたいんだ』と、フレディは私に言ったの」。

エイズ合併症による気管支肺炎で、1991年11月24日、マーキュリーは亡くなった。ロンドン西部のケンサル・グリーン墓地で火葬された。遺灰は骨壺に入れられ、オースティンは寝室に2年間預かっていたが、マーキュリーが希望した場所にそれを移した。「普段からしていること以外の行動をして、誰かに疑われたくなかったの。エステに行くと言ったわ。そう信じさせなくてはならなかった。そのタイミングを見つけるのがとても難しかった」と、オースティンは2013年に英デイリー・メール紙に語った。「骨壺を持って、家をコッソリと出たの。何もない、誰からも怪しまれないような日を狙ったわ。内部通報が怖かったから。スタッフが裏切るなんてありえないけど、フレディの遺言なんだから。彼が埋葬される場所は、誰にも知られてはいけないの」。

どうもマーキュリーの両親でさえ、その場所を知らないようだが、墓参りをしたいファンを止めることはできない。マーキュリーの生まれ故郷、ザンジバルに埋葬されていると憶測する者もあれば、マーキュリーの自宅庭の桜の木の下に埋められていると考える者もいる。

2013年、この謎が解明されたように思われた。マーキュリーの本名と誕生日が刻まれた墓碑がケンサル・グリーン墓地で発見されたのだ。『ファルーク・バルサラを偲ぶ/1946年9月5日-1991年11月24日』と書かれており、さらにフランス語で『Pour Etre Toujours Pres De Toi Avec Tout Mon Amour – M(私のすべての愛と共に、いつでもあなたのそばに-M)」と記されている。Mというのは、メアリー・オースティンのことではないかと、巷では言われた。

オースティンは「フレディは、本当にあの墓地にはいません」と、この説を否定している。発見された墓誌は撤去されてしまった。今も、マーキュリーの埋葬地はわかっていない。

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