またの名を銅閣寺。信長父子を供養する大雲院を京都祇園に訪ねる

またの名を銅閣寺。信長父子を供養する大雲院を京都祇園に訪ねる

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  • 更新日:2019/05/24
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北山文化の代表的遺産である華やかな金閣寺、そして東山文化の象徴として簡素ながら深みのあるただすまいが印象的な銀閣寺は世界的にも有名です。それではみなさん、京都・祇園の「銅閣寺」はご存知でしょうか。 今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者の英 学(はなぶさ がく)さんが、いかにして「銅閣寺」が作られたのかを紐解きながら、その歴史と魅力を紹介しています。

京都に銅閣寺があったの?

京都には金閣寺、銀閣寺の他に銅閣寺があるのをご存知でしょうか?実は昭和の初めに銅閣を造ってしまった人がいるのです。この銅閣寺は正式名称「大雲院」と言います。通常非公開なので一般にはあまり知られていませんが最近は夏に特別公開となり、中に入れるチャンスがあります。今回はそんな不思議な銅閣寺をご紹介します。

通称・銅閣寺(正式名称は龍池山 大雲院)は1587(天正15)年に織田信長、信忠親子の菩提を弔う為に正親町天皇の勅命により建てられたお寺です。寺の名前は信忠の戒名の院号・大雲院から取ってつけられました。創建当初の大雲院は御池御所(現在の烏丸二条)の位置にありましたが、豊臣秀吉が寺町四条に移転しています。そして昭和48年に現在の祇園・東山界隈の位置に移転しました。

大雲院が昭和になって移転してきたこの場所はもともと大倉喜八郎の別荘でした。大倉喜八郎は一代で巨万の富を築き、大成建設や鹿鳴館、帝国劇場、帝国ホテルの創始者でもある人物です。現在の大雲院はもともと大倉喜八郎氏の別邸・真葛荘(まくずそう)の一部だったのです。

大倉喜八郎氏は「金閣も銀閣もあるんだから、銅閣も作る!」と京都の名物にすることを考えて銅閣を建てたそうです。設計者は当時築地本願寺や平安神宮を設計した昭和初期の代表的な建築家・伊藤忠太です。伊東忠太は祇園祭の山鉾をモチーフにし、その形から「祇園閣」と命名されました。屋根は銅板葺きにされておりまさに銅閣が昭和3年に建てられました。

その後昭和48年にこの場所へ大雲院が移転してきたので、「祇園閣」は大雲院の所有となりました。銅閣を有するのは大雲院ということになり、大雲院=銅閣寺ということになったのです。これが銅閣寺の誕生秘話です。

入口に掲げられている「祇園閣」の文字は西園寺公望が書いたものだといわれています。祇園閣は高さが36mもあり楼上からの眺めは360度の絶景です。市内を見渡せる数少ない絶景ポイントです。

大雲院の境内には墓所があり、織田信長親子の墓もあります。京都には信長の墓は他にも大徳寺の総見院、本能寺、阿弥陀寺、妙心寺の玉鳳院にあります。また江戸時代の大泥棒で有名な石川五右衛門の墓も大雲院にあるのです。

祇園閣は八坂神社からほど近いねねの道の一番北側の端にあります。意外と知られていませんが信長の息子の墓所なのです。特別公開の時に是非、大雲院の祇園閣の最上階からの眺めを堪能してみて下さい。

image by:京都フリー写真素材

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