防衛隊、平和願う手記 日窒水俣工場の葛原中隊長 「子から孫へ語り継いで」

防衛隊、平和願う手記 日窒水俣工場の葛原中隊長 「子から孫へ語り継いで」

  • 西日本新聞
  • 更新日:2017/08/13
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高射機関砲を操作する葛原中隊の隊員たち

第2次世界大戦末期、米軍との圧倒的な兵力差を感じながら、熊本県水俣市で重要軍需拠点の日窒(現チッソ)水俣工場などの防備に当たった旧日本陸軍の部隊があった。福岡県福智町出身の葛原忠彦中隊長(1920~85)が率いた機関砲部隊だ。戦後72年、生き残った隊員も鬼籍に入り、当時を知る住民も少ない。「子から孫へと長く語り継がれることを念願する」。亡き者を悼み、平和を願い、葛原さんは手記にこう書き残していた。

市史によると、最大330人の葛原中隊は1945年5月、八幡製鉄所(北九州市)を守る陣地から水俣へ移された。日窒水俣工場は当時、火薬や航空機のガラスの原料を製造。爆撃から守るため、陣地は同市の丸山に置かれた。「朝夕、兵隊に敬礼し見送った」。近くの福浦寛さん(77)は軍刀を提げた葛原中隊長ら士官の姿を覚えているという。

手記によると、中隊は45年7月末、最大の危機を迎えた。米軍24機による爆撃や銃撃が行われ、瞬く間に工場は煙に覆われた。陣地にも機銃弾が激しく打ち込まれ、土煙が上がった。「いさぎよく死のう。部下に、みんなに笑われぬよう」。葛原さんは壕(ごう)を飛び出して指揮を執った。喉がからからになり、感覚がないような状態になったと記す。交戦は短時間だったが、上等兵1人が犠牲になった。

葛原さんは戦後、故郷の福岡県方城村(現在の福智町)の役場に入り、その後の方城町で4期助役を務める傍ら、戦時中の手記は大切に自宅に保管していた。75年10月に催された慰霊祭には元隊員約40人が30年ぶりに集い、葛原さんも参加。「生きていて本当に良かった。感激の極み」と元部下たちの肩を抱いた。

65歳で亡くなるまで、水俣葛原隊戦友会の集まり全5回に出席。「どんなに多忙でも戦友会を大事にしていた。水俣のことは特に気に掛け、家族で40年ほど前に旅行した」と長女藤井和子さん(70)=福智町=は明かす。戦時の話はせず、酔ったときだけ「我(われ)らは砲兵 皇(み)国の護(まも)り」と軍歌を口ずさんだ。「部下を亡くし生き残った心苦しさもあったのでしょう」

葛原さんが大切にしていた戦友名簿や手記を見せてもらった。最も若い人が24(大正13)年生まれ。役員に電話をかけたが、皆亡くなっていた。しかし-。元隊員の総意は、82年の会誌の後書きに記されていた。「いつまでも愚かな戦争のない、平和な世の中であってもらいたい」

=2017/08/13付 西日本新聞朝刊=

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