『ガーリッシュナンバー』が描く汚い/純粋なコミュニケーション 渡航は幻想を信じない

『ガーリッシュナンバー』が描く汚い/純粋なコミュニケーション 渡航は幻想を信じない

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  • 更新日:2016/12/01

金、人気、顔のない無数の人々によって大量に消費されるアイコン。そういったものを全面に押し出したアイドル声優アニメ『ガーリッシュナンバー』が今期放映されている。

本作はおなじアニメ業界を題材にしたアニメ『SHIROBAKO』と比べられ「汚いSHIROBAKO」とネットで度々言及されている。

この「汚い」という形容は、『SHIROBAKO』がアニメ制作会社の業務に焦点をあて、「良いものをつくる」という道徳的なリアリズムに徹し、大団円を迎える作品であったのに対し、本作は作品のクオリティよりもいかに金を生み出すか、つまり「アニメ業界の金の流れ」や「いかに“商品”を効率的に大衆に消費させるか」に焦点があてられていることを指している。

ここでいう“商品”とは、アニメ作品であり、そして声優のことでもある。

リアリティのつくりかたは様々にある。『ガーリッシュナンバー』では、理想や耳触りのいい言葉だけではなく、ときどき黒い現実を見せつけることで世界の真実味を帯びさせるという手法が採用される。もちろん、こういった「邪道的な」やりかたは、なにもこの作品だけの特色ではない。

原作者の渡航は、コミュニケーションに現れる共感などの「表面的な心地よさ」に対して、徹底的に懐疑的な態度をとる。出世作となった『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』では、「共感なんて嘘くさい」というスタンスを主人公に取らせることで、一周回って多くの共感を得た。

『ガーリッシュナンバー』も一言でいえば「性格が悪い」主人公が活躍している作品なのだが、ここでは業界の消費構造がやや過剰に描かれながら、声優と大衆のコミュニケーションのありかたもまたあぶりだされているのが最大の特徴だ。

文:若布酒まちゃひこ

好意の裏側を読みすぎる渡航『俺ガイル』が希求するコミュニケーション

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渡航は、2013年にアニメ化され、「このライトノベルがすごい!」では2014年から2016年の三連覇を果たした作品『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』(以下『俺ガイル』)で人気作家となった。

『俺ガイル』は、とある千葉の進学校の奉仕部という、いわゆる「なんでも屋」を部活を舞台とした物語だ。ぼっちで若干人間不信の性悪説な主人公・比企谷八幡、そしてなにをやっても完璧なゆえに周囲に溶け込めない雪ノ下雪乃が、日常生活における「本音と建前」をあぶり出していく。

雪乃は問題の根本からの排除と王道的な完全解決を目指すが、八幡はそうではなく「問題の回避」という邪道的な手法を用いる。八幡が選択する手法の後味は悪い。しかし、その後味の悪さが、依頼者、ひいては奉仕部をとりまく人間関係の皮肉となっていることがこの作品の特色となっている。

不必要な衝突は避けたい。そのため空気を読み、じぶんが本当に思っていることを押し殺す。そういうことをグループの皆が行うことで、表面上は居心地のよい環境をとりあえずはつくり出すことができるけれども、それが長く続くことで居心地の良さは息苦しさに変わってしまう。

人の好意(行為)には裏がある。

物事の「偽善」に意識を張りすぎることで、幻想として安易に消費されるようなうすっぺらい関係性とは無縁になるけれども、『俺ガイル』の世界で描かれるのは悪意という幻想だ。

『俺ガイル』では、八幡は他人の行動の理由をかなり細かく観察し、分析する。そして性悪論者の彼にしてみれば、他人が自分ないしだれかに優しくするのは、なんらかの負い目があるからだと解釈している。このある種の偏執狂的な信念が、奉仕部内の人間関係をもこじらせてしまう。

たとえば主軸となるエピソードに、八幡の高校入学当初の交通事故の話がある。犬を助けて車にひかれてしまった八幡は、ひょんなことからその犬の飼い主が同じ奉仕部の由比ヶ浜由依であることを知る。そのことによって、八幡は「由依が好意的に接してくれる理由は、事故に負い目を感じているからだ」と思いこみ、二人はすれちがってしまう。

由依はもともと人間関係のこじれを恐れ「必要以上に場の空気を読んでしまう」性格だったために、八幡は彼女の好意に裏があると思った。しかし、由依にしてみれば交通事故の埋め合わせなど考えもしていなかった。

このように、八幡は、日常で何気なくなされる「空気を読む」ことで得られる表面上の見せかけの居心地の良さを過剰に疑うあまり、そこにありもしない「幻想の悪意」を見てしまう。

自分が本当に思ったり感じたりしたことを押し殺し「空気を読んで」得られた環境も、「空気を読む」ことを前提にした思考で他人を疑うあまりありもしないものをねつ造して生じる気まずさも、どっちもホンモノなどではない。

「共感というものが嘘くさい」と作中で示すことで、単なるキャラへの共感以上の、ねじ曲がった共感を得ることができているのである。

『俺ガイル』という作品の優れたところは、このように見かけはほんのささいなことに対して幾層の視点を与え、複雑な人間模様を描いている点にある。

上述の交通事故を起点にして、話が進むにつれて奉仕部全体の人間関係がギクシャクするが、やがて八幡が「それでも俺は本物がほしい」という言葉を口にする。この「本物」、すなわち「探り合いや貸借りのない純粋なコミュニケーション」というシンプルな答えこそ、八幡、そしてこの物語自体が探しているものだった。

「アイドル」という存在の多重性/処世術としてのコミュニケーション

アイドルは絶対的にかわいい──アイドルはだれしもに平等な愛をふりまき、アイドルは特定のだれかに所有されることはなく、そしてアイドルはうんこしない。

しかし、そういった考えは、いまやもう時代遅れとなっている。

かつてこりん星からやってきたと自称していたアイドル・小倉優子は、後にそれが商業的な意図による設定だったと自白することで低迷していたメディア露出を増やし、自意識過剰ともとれる言動で注目を浴びた元モーニング娘。道重さゆみは「アイドルではない、“道重さゆみ”というアイドルを演じる“道重さゆみ”という個人」をファンに見せることで多くの共感を得た。

しかし、と筆者は思う。ぼくらはそもそもアイドルに対していつから「共感」なんてするようになったのだろうか。

我々はキャラクターを消費する。ある作品の特定の登場人物、特定のシーン、特定の企画のなかでの立ち居振る舞い……その時々で点として分散して存在するパーソナリティを脊髄反射的に消費するが、しかしそれは永続するものでなく、やはり瞬間的なものでしかない。

だからその点的なパーソナリティをひとりひとりが大なり小なりの想像力を駆使して線上につなぎ、物語をつくりあげる。ブログを読み、SNSをフォローし、いつしかアイドルを演じる「中のひと」まで丸ごと愛そうとし始めた。

ひとの前に出る仕事は、潜在的に「露出する顔」と「中のひと」といった二面的なパーソナリティを持つことになる。いや、もっといえば、「『アイドルとして振舞う一個人としてのわたし』を演じるわたし」の必要すら生まれ、マトリョーシカ的な複雑さを持っているのかもしれない。

「ガーリッシュナンバー」をはじめとする声優やアイドルを題材にした「中のひと」の物語にも、当然このような構造が不可避的に取り入れられていて、普通に物語るだけでも登場人物に多様な表情が表われ、それがリアリティを生み出す。そしてその具体性が視聴者の想像力を刺激する。

そもそも「中のひと」とは、なにも声優やアイドルに特化した人格ではない。そういう仕事をしていなくても、日常的に我々も多様な人格を状況によって使い分けていて、「八方美人」という言葉は、まさにこのことをいっている。

それは処世術としての技術であり、技術であるからこそ時には「コミュニケーション」という場においては「汚い」と感じられてしまうのかもしれない。

『ガーリッシュナンバー』千歳のカニバリズムコミュニケーションの行方

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アニメ『ガーリッシュナンバー』に話を戻そう。

本作ではアニメ業界を舞台に複数の声優が登場する。そしてある程度キャリアを積んだ声優たちが、自らのありかたについての考え方が所々で垣間見られる。

たとえば人気声優の羽柴万葉は「求められているものを提供する」というプロ意識が強い。イベントの仕事でも求められれば笑顔をつくり、歌を歌えと言われれば歌う。しかし、本来の彼女は同業者に「役者病」と陰で揶揄されるほど演技に対するこだわりが強く、「いかにもアニメらしい」演技について、「つまらない」という言葉を漏らしている。

ただ、それを表に出すことはない。自分がプロの声優としてスタッフや大衆の要望にこたえることで、彼らとのコミュニケーションを円滑にし、つまり望む望まざるに関わらず「上手く消費される」ことでアニメ業界で生きていけていて、そして本人も不本意に思いながらもそのことを自覚している。彼女がなんとなく抱えている嫌悪感は、この「処世術としてのコミュニケーション」だ。

対して、主人公の新人声優・烏丸千歳は万葉とは違う。独善的で自分勝手な、このヒロインの性格の悪さも「汚い」と言われる原因になっているが、ひとことで言うならば、千歳は「大衆を消費して生きようとしている」のだ。

『SHIROBAKO』のように「良い作品」をつくりたいだなんて千歳はおもわない。それどころか、アニメにも芝居にも一切興味がなく、あくまでも自分の人気とギャラにしか注意を払わない。演技も歌も必要に迫られ、自分の欲望を満たすために練習をするにはする、といったスタンスである。

この設定によって、本作でも渡航らしいねじれた物語構造が生み出されている。

千歳はアイドル声優として、大衆に消費されるという仕事をしているが、千歳は向けられる視線を大衆に投げ返す。大衆の欲望にさらされながらも、千歳は注目を浴びることによって自身の自意識を満たす。つまり大衆は千歳を、千歳は大衆をといった具合に、相互の消費関係がこの作品の中では形成されつつある。

弱肉強食とよくいわれる芸能の世界。やはり「生き残る」ための戦略や力量についての話が随所にあらわれる。同期や先輩声優の仕事観には目もくれず、あくまで大衆を消費することにこだわる千歳の「食欲」は決して激しいものではないけれど、しかし他の登場人物たちとは明らかに一線を画している。

千歳と大衆は、「アイドル声優」という虚像と「メディア」というフィルターを通した人工的な幻想の中でしか出会わない。そしてその幻想の中で互いの欲望を満たし、しかしだれもがそれが幻想であると気づいている。

純粋なコミュニケーションを求めんがために偽善を嫌った『俺ガイル』の八幡とは一見真逆に、『ガーリッシュナンバー』にはお互いの自覚的な欲望を織り込んではじめて奇跡的に成り立つコミュニケーションの形が浮かび上がっている。

しかし、それは『俺ガイル』で描かれたコミュニケーションと相反するものではない。どちらも、それが「当人たちにとって本当かどうか」を主題にした作品だからだ。

千歳には裏表がない。声優と大衆の欲望に支えられた世界さえも、千歳にとっては「幻想」ではなく「リアル」として存在している。

テレビ画面の中、スポットライトを浴びるステージの上。そこに築かれるカニバリズム的な生態系を象徴するように、アニメ『ガーリッシュナンバー』の第1話の幕は上がった。

顔のない無数の視線はマイクを持つ声優へと集中し、舞台裏ではスタッフがあわただしく走り回る。初めての舞台挨拶。新人の烏丸千歳は舞台上で頭を下げると、大衆の視線から逃れた表情には下卑た笑顔が浮かぶ。

舞台、あるいはテレビ画面の向こう側とこちら側。

超えることのできない距離を隔て声優と大衆が相互に消費するようなコミュニケーションが描かれるアニメ『ガーリッシュナンバー』の世界を野性的に生き抜こうとする千歳から目が離せない。

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