借金返済のためプロ野球に「転職」。酒豪打者・永淵洋三の数奇な人生

借金返済のためプロ野球に「転職」。酒豪打者・永淵洋三の数奇な人生

  • Sportiva
  • 更新日:2019/09/08

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第4回 永淵洋三・前編

平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。だが、その時代のプロ野球には魅力的な選手たちがたくさんいて、ファンを楽しませていた。

過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。漫画『あぶさん』のモデルのひとりであり、”酒豪打者”として知られる永淵洋三さんからは、今の常識では考えられないような驚くべきエピソードの数々が語られていた。

No image

1969年、ホームランを打つ永淵さん。小さな体を大きくひねる豪快なフォーム(写真=共同通信)

* * *

JR佐賀駅から乗ったタクシーの運転手は、「あぶさん」という店名も、永淵洋三さんのことも心得ていた。2013年9月、僕はその野球人の店を訪ねた。

永淵さんは1942年に佐賀に生まれ、佐賀高(現・佐賀西高)では左腕エース。卒業後は社会人の東芝で7年間プレーし、68年、ドラフト2位で近鉄に入団すると左の強打者として活躍。12年間で現役を退いたあと、地元で『やきとり あぶさん』を営んでいる(※2018年に閉店)。

5分も乗らないうちに車は店の前に横付けされ、約束の12時より15分も早く着いたが、店舗に隣接した家屋の前で永淵さんが出迎えてくれた。選手時代の写真で最も印象的な大きい目の鋭さは眼鏡にかくれ、強気で豪気だったという性格も想像がつかない。

「開幕の頃はしょっちゅう取材受けましたよ。大谷のことでね。いや、ここまでわざわざ来た人は1人、2人、ほとんど電話です。今でもたまにかかってきますよ」

細長いカウンターの店内の奥、座敷席に高い声が響いた。日本ハムの大谷翔平が〈二刀流ルーキー〉として話題になるなか、永淵さんの名前が新聞紙上にしばしば登場、記事にコメントが載るようになった。永淵さん自身、当時の近鉄監督だった三原脩の方針のもと、プロ1年目に投手と野手両方でプレーしているのだ。

僕はその詳細を把握せずにいたが、2013年3月29日、投手登録ながら、高校出1年目ながら、大谷が8番・ライトで先発デビューした西武との開幕戦。その姿を一塁側スタンドで目撃した者として、45年前の、元祖〈二刀流ルーキー〉の全貌を知りたくなった。イニング間のキャッチボールでライトからこちらに向かってくる大谷の投球に見とれ、「二刀流なら、この後の登板もあるか」と実感したことも、会いに行くきっかけになった。

「ノンプロで最後のとき、『ピッチャー足らん』ということでね。それまで僕は毎日、バッティングピッチャーやってたもんで、肩、強くなって体力もついてるから、ピッチャーとバッター、両方やってたんですよ」

社会人時代の最終年も「二刀流」だったという永淵さん。身長168センチでは対象にならないと、当初はプロを意識していなかったが、長嶋茂雄と王貞治を見て考えが変わった。

「会社の近くに川崎球場があって、ちょいちょい試合を見に行ってたとき、ちょうど長嶋さんと王さんが人気絶頂でね。プロでやりたいなっていう気になってきたんです」

さらに1963年、同じノンプロの黒江透修(くろえ ゆきのぶ)が永淵さんのモチベーションを上げる。ある試合で「打球が速い。この人はちょっと違う」と感じた黒江が、翌年、巨人に入団。自分と同じように小柄な選手(黒江は身長165センチ)がプロに入ったことで「俺もできるんじゃないか」という気になった。

「ノンプロですけど、成績は残してました。でも全然、プロから話は来ない。そこで入社5年目、どうしてもプロ野球でやりたくてね、テストを受けようと思ったんです」

球団は西鉄(現・西武)。永淵さんにとっては佐賀高の先輩、東芝入社時の監督だった伊丹安広が西鉄コーチの深見安博を知っていて、紹介状を書いてくれた。戦前、伊丹は早稲田大の名捕手で、のちに監督も務めた野球人。戦時下の学生野球存続に尽くした活動をはじめ、戦後も球界全体を発展させた多大な功績により、77年の逝去後に野球殿堂入りしている。

「紹介状を持って行きました。ところが当時、中西太監督。ベンチにいても僕の練習なんか見てないです。最初から獲る気ないの、わかりました。結局やっぱり、俺には無理だなと。ただ、それでも僕はプロでやりたかったから、不合格でショックじゃないけど、その後、毎晩のように酒を飲む生活になったんです」

酒といえば、73年から40年以上も連載が続いた野球漫画『あぶさん』の主人公、酒豪の強打者として描かれる景浦安武。作者の水島新司が主人公のキャラクターを設定するとき、モデルのひとりになったのが永淵さんで、その数々の酒豪伝説がヒントになったという。伝説の原点は、いわばヤケ酒だったわけだ。

「グラウンドから近い川崎の街にね、ちょっと、知り合いのスナックができてしまって、そこに、かわいこちゃんがおってね。その娘目当てに毎晩、通いましたよ」

照れを覆い隠すような大きな笑い声が座敷に響いた。月給3万円の生活でスナックに通い詰めれば、次第に金がなくなる。文献資料には〈行きつけの飲み屋のツケが30万円にもなった〉とあるのだが、真相は違うのだった。

No image

驚きの入団経緯を明かす、取材当時の永淵さん

厚生課という部署で「金を扱う仕事」をしていた永淵さん。ストックされた金を「ちょこちょこつまみ食いして」飲み代にしてしまっていた。本社への送金は1年に一度でよかったため、期限までは「自由になる金」があり、1年で30万円を「借金」してしまった。今の貨幣価値に換算すると、200万円は超えているかもしれない。まさに今だから言える話を明かしながら、今度は照れ笑いとも苦笑いとも違った笑い声が響いた。

「それでとうとう、あの娘とは何もなかった。今思えば馬鹿みたいだけど、借金、いつかはバレますからね、返さないといけない。でも、知り合いも誰も金貸してくれなかった。なんとかせんとならない、と思って、これはプロ野球に入るしかないと」

あくまでも借金のことは伏せて、先輩の伊丹にすがった。近鉄の球団社長、芥田(あくた)武夫が伊丹にとっては早稲田大の先輩だった関係がものを言って、契約金300万円、月給10万円で入団が決まった。

「契約金は東芝の給料の100倍でしたから、それで借金をすぐ返して、プロ野球へ入ったんです。一応、ドラフトで指名されてますが、伊丹さんの紹介でお願いして入ったようなもので……。そういった、人との出会いが人生を左右する、というのはありますね」

縁故採用的な入団とはいえ、小柄でも飛距離が出る打撃に加え俊足、さらには投手としても評価された。ノンプロ時代、のちに大洋(現・DeNA)でエースとなる日本石油の平松政次と投げ合い、強力打線相手に延長10回まで0点に抑えたときには、他球団も注目したという。

「そのなかで近鉄は左ピッチャーが鈴木啓示しかいないような状態。それですんなりと話が決まったみたいです。僕もね、それじゃあもう一度、ピッチャーやってみようかと」

ところが、明石キャンプでの紅白戦。新人の永淵投手にひとつの指示が出される。

「いきなり三原さんが、『永淵、ピンチヒッターいけ』って言う。でも僕は全然バッティングやってなかったから、何言ってんのかな、このおっさんは、と思ったけど、監督命令やから。それでバッターボックスに入って、たまたま1球目、センター前ヒットを打ったんです。これでやっぱり、僕の使われ方が変わって、人生も変わったんですね」

三原はのちに永淵さんの打撃を、「ピンチヒッターでいって、1球目を振って、芯に当てる。これはいいものを持ってる」と評した。同年の近鉄は左投手が4人と少なかった上に、左打者にしても全野手のうちわずか3人。投打とも左不足というチームの台所事情が、永淵さんを投手専任にしておく手はない、という発想につながった。

「三原さんは前の年に大洋の監督を辞められて、近鉄に来られた。僕と入団がおんなじ。これもひとつの縁だったと思います」

巨人、西鉄を優勝に導き、60年には6年連続最下位の大洋を日本一へ引き上げた監督。球団創立以来、18年連続Bクラスと低迷し、「万年最下位」とも言われていた近鉄とすれば、大洋と同様の成果を期待したのだろう。

三原は先入観にとらわれず選手の個性を重んじ、能力を最大限に発揮できるよう適材適所で起用し、戦う集団に仕上げていく。特に大洋では、埋もれていた選手に光を当て、継投から代打・代走まで含めた巧みな起用を見せた。

その上で最高の結果を出したことから「魔術師」と呼ばれたが、まさに永淵さんは三原野球に見合った選手と思える。実際、永淵さんの入団発表のとき、球団部長が記者団に向かって「ショート・リリーフ、代打、代走。いろんな場面に使える三原監督好みの選手」と紹介したという。紅白戦での代打起用も、あらかじめ構想にあったのかもしれない。

「とにかく眼力というんですか、三原さんはチームを作るためにはいろいろ、選手の技術とか、人間性とか、見る目がすごかった。しかも全然、我々とは頭の細胞が違う。何を考えてるかわからんから、あのおっさん、怖かったですよ。選手と三原さんと、個人ではまず話すことはなかったしね」

それでも「滅多にやらない」ミーティングでの三原はいたって話がうまく、1時間であれば1時間があっという間に終わるぐらい、内容に惹きこまれたという。

「もう40年以上も昔なので、細かい話の内容は忘れました。でも、話すことで人を惹きつける魅力があって、聞いてハッと思ったり、こっちのやる気が起きたりした、ということは今でもはっきり憶えてますよ」

おのずと、異例の起用法にも納得してプレーしていた姿が想像される。

「納得も何も、僕の場合、選手はどういう形であれ試合に出ないとしょうがない、と思ってましたから。確かに、二刀流でちょっとだけやりましたけど、とにかく、試合に出られるならピンチヒッターでも、ワンポイントでも、なんでもよかったわけですから」

68年4月6日、平和台球場での対西鉄開幕戦。永淵さんは代打でプロ初出場を果たして結果は三振。翌日のダブルヘッダー第1戦では途中出場でレフトを守り、第2戦では7回にプロ初登板を果たすと三者凡退に抑えて交代。あえて1試合ごとに役割を変え、着々と「二刀流」の準備をしているように受け取れる。

続いて永淵さんは4月12日の阪急(現・オリックス)戦、三番手で3イニング登板。降板後にはライトを守り、打っては3打数2安打だったが、初の「二刀流」も負け試合のため目立たなかった。

むしろ「高校野球じゃあるまいし」と、あざ笑う声もあったそうだが、評価が変わったのは14日の阪急戦に登板したあと。迎えた16日、日生球場で行なわれた東映(現・日本ハム)戦。「二刀流」というよりも「一人三役」をこなしての大活躍だった。

(後編につづく)

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

プロ野球カテゴリの人気記事

グノシーで話題の記事を読もう!
巨人Vにeプロ板東も歓喜「93年世代」活躍刺激に
西武ニールに「多くのMLB球団が興味」 米記者が伝える「ネクスト・マイコラス」
鳥谷缶バッチに長蛇の列「異例中の異例」後日販売へ
M3の西武が待望の先制点! 4回に主砲山川が2点適時打、鷹も5点リード
フジ・久慈暁子アナは究極のサゲマン? 同棲報道後に成績急落したヤクルト原樹理の惨状
  • このエントリーをはてなブックマークに追加