「あの日、燃えながら流される家もありました」11年間で3度も襲った巨大地震...相馬市の旅館若旦那はなぜ“絶望”から立ち上がれたのか

「あの日、燃えながら流される家もありました」11年間で3度も襲った巨大地震...相馬市の旅館若旦那はなぜ“絶望”から立ち上がれたのか

  • 文春オンライン
  • 更新日:2023/03/19

「心が折れました。もうダメだと思った」

【画像】相馬市では東日本大震災で458人が犠牲になった。3月11日、多くの人が墓参していた

福島県相馬市の景勝地・松川浦。亀屋旅館を経営する久田浩之さん(41)は振り返る。

2022年3月16日に福島県沖地震が発生し、相馬市は震度6強の烈震に見舞われた。

亀屋旅館は2階建てで11室しかなく、家族経営のアットホームな宿だ。しかし、すぐには直せないほど大破した。前年にも震度6強の地震に襲われ、東日本大震災からわずか11年間で3度目の被災。前を向く力は残っていなかった。

あれから1年が過ぎた。

まだ、多くの旅館が休業を余儀なくされ、亀屋旅館も全てが直っているわけではない。だが、久田さんは営業を再開し、仲間と一緒に松川浦の起死回生策となるような取り組みを始めていた。

管野芳正さん(48)=ホテルみなとや、管野功さん(46)=旅館いさみや、管野雄三さん(29)=丸三旅館=と共に、若旦那4人で「松川浦ガイドの会」(会長は久田さん)を結成し、かつて行われていた「浜焼き」を復活させて、驚くほどの集客に結びつけていたのである。

「浜焼きがなかったら、再起できなかった」と話すメンバーがいるほどだ。(全2回の1回目/続きを読む

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明日を見る「松川浦ガイドの会」の若旦那4人衆。右から久田浩之さん、管野功さん、管野芳正さん、管野雄三さん(相馬市、浜の駅松川浦に設営された浜焼きテント)

どうして「浜焼き」は心の支えになったのだろうか

浜焼きはなぜ、それほどの支えになったのか。そもそも心が折れてしまうほどの地震とは、どんな被災が続いてきたのか。話は12年前にさかのぼる。

松川浦は、約6kmもの砂州で太平洋と隔てられた潟湖だ。小島が点在する景観が優美で、隣の宮城県にある日本三景の「松島」を彷彿とさせる。そのため「小松島」とも呼ばれてきた。古くは万葉集にうたわれ、江戸時代には領主の相馬藩主が行楽に訪れたという。

港は沿岸漁業の基地になっていて、潟湖では青ノリが養殖されている。福島県内では有数の漁師町でもある。

その松川浦が最初に壊滅的な打撃を受けたのは、2011年3月11日の東日本大震災だった。

久田さんは旅館にいた。「津波なんて来ないと、なめていました」と話す。

亀屋旅館は駐車場と県道を挟んだ向こう側に松川浦がある。「津波が来る前には海水が引く」と言われていたので、久田さんは親類と一緒に見に行った。

「驚きました。松川浦は潮が引いても、航路だけは海水がなくなることがありません。それなのに航路まで干上がっていたのです」

「やばいんじゃねえか」。通り掛かった消防団が「何をやっているんだ。早く逃げろ」と大声で叫ぶ。もうすぐそこまで津波が来ていたのである。

久田さんは慌てて旅館へ戻り、寝たきりになっていた祖父を1階から2階に上げようと脇を持ち上げた。その時、何mもの高さの黒い津波の壁が、松川浦沿いの県道を呑み込みながら市街地の方へ押し寄せていくのが見えた。

「あぁ、俺は死ぬんだな」

「ああ、俺は死ぬんだな」

そう思ったが、なかなか浸水してこない。

亀屋旅館は奇跡的に床下浸水で済んだ。県道から少し高い土地に建っていたのと、津波が市街地の方へ向かい、宿を直撃して来なかったからだと見られる。

「他の旅館のように県道に面していたら、確実に命を落としていました」としみじみ語る。

一緒にいた親類は車に飛び乗って逃げたので、津波に追いかけられながらもギリギリで助かったという。

では、県道に面した旅館はどうなったのか。

いさみやの管野功さんも、津波を軽く見ていた。

「揺れはこの世の終りかというぐらいでした。1度収まってから、また大きな横揺れが始まり、これがすごく長かったのです。私は厨房にいて、食器棚が倒れないように押さえていました」

父親が「絶対に津波が来る」と言うので、家族と従業員はすぐに高台へ避難した。が、功さんは残った。

宿泊の予約が満室だったからだ。「1月から3月にかけては相馬沖で本ズワイガニが獲れます。刺身、しゃぶしゃぶ、鍋などのフルコース料理が人気で、昼食の予約も、夜の泊まりもいっぱいでした。物が散乱した部屋を見て回り、予約客から電話があるかもしれないと待機していました」。

テレビをつけると、既に津波が到達した地区の映像が流れていた。相馬にも大津波警報が出ていて、「そろそろ逃げないとヤバイかな」と思っていた時に、高台に住んでいた親類が心配して迎えに来た。

この段階で逃げればいいのに、2人で缶コーヒーを飲む。それからおもむろに軽トラックに乗った。松川浦沿いの県道を走り、すぐに右折して細い坂道を高台へ向かおうとしたが、ブロック塀が倒れていて通れなかった。次の坂道を右折すると、松川浦の方を見て「キャー」と悲鳴を上げている女性達がいた。後ろを見たら、今まさに曲がった県道を呑み込みながら、津波が市街地の方へ向かって行くのが見えた。「漁船がサーフィンのようにして流されていました」。

燃えながら流される家もあった。「松川浦は終わった、と思いました」

高台へ逃げ切って見下ろすと、「家から何からどんどん流されていました。燃えながら流される家もありました。松川浦は終わった、と思いました」。

旅館は床上1.3mほど浸水した。瓦礫が堆積し、泥も分厚く積もった県道は通れない。高台の細い道を伝って市中心部を目指し、中学校体育館に設けられた避難所へ入った。

それから1週間ほど家族で身を寄せたが、発災翌日の3月12日から約40km離れた東京電力福島第一原子力発電所で爆発・火災事故が続いた。政府は原発から半径20km圏に避難、30km圏に屋内退避の指示を出し、そのエリア内となった隣の南相馬市では全市が大混乱に陥る。

功さんは放射能という未知の脅威が怖かった。相馬市内でも放射線量が上がっていたので、体育館の外にはあまり出なかった。息が詰まり、気持ちが沈む。

市内ではなかなか給油ができなくなっていたガソリンを知人が分けてくれたので、一家で山形県へ逃げることにした。避難所は山形県庁で紹介してもらった。

「もう、帰りたくありませんでした。『現実』を見たくなかったのです」

だが、相馬市内に残っていた親類から「いつまで避難しているんだ。こちらでは復旧作業が始まっているぞ」と電話があり、山形県内には10日間いただけで戻った。

いさみやでは家具や備品が足の踏み場もないほど散乱し、1階広間のガラスを突き破って船が2隻入り込んでいた。玄関の外には流されて来た家の屋根や瓦礫がうず高く堆積し、そこが駐車スペースであることさえ分からなかった。

「屋内にぶ厚くたまった泥は油混じりだったせいか、すごい臭いがします。床下にもたまっていて、ボランティアに助けてもらいながら除去しました」

功さんは父親と一緒に壁のクロスなどを張り替え、中古の器材をかき集めて営業を再開した。被災から3カ月ほど後のことだ。

すぐに復旧工事の作業員で満室になった。それが次第に除染作業員に変わる。これらの宿泊が4~5年続き、経営的には助かった。だが、観光客は戻って来なかった。

松川浦では魚料理が自慢の宿が多かったのに、地物の魚介類を出すことさえままならなかった。漁師は原発事故のダメージを受け、満足に漁ができない状態に置かれていたからだ。漁の回数などを制限しながら出荷先での評価を調べる「試験操業」が続き、「本格操業への移行期間」となったのは2021年4月のことだ。現在もまだ「本格操業」ではない。

それでも、少しずつ雰囲気は変わった。

お客さんが来始めた。しかし……

2018年、震災から7年ぶりに「原釜尾浜海水浴場」で泳げるようになった。「ようやく一般のお客さんが来始めました」と功さんは語る。

いいことは続かない。2020年春から新型コロナウイルス感染症が流行して、客足はがっくり落ちた。

これに追い打ちをかけたのが、2021年2月13日に発生した福島県沖を震源とする地震だ。相馬市では震度6強を記録した。

いさみやでは壁にヒビが入り、ボイラーが使えなくなるなどしたが、また功さんと父親が力を合わせて自力で直した。功さんは震災で被災したボートを譲り受け、自分で修繕するほどの“技術”を持っている。このため2週間ほど休んだだけで営業は再開できた。

しかし、他の旅館は違った。長期休業して、大規模修繕を行わなければならない宿が多かった。

それがようやく直ってきた頃、また福島県沖を震源とする地震に見舞われた。

2022年3月16日午後11時34分に震度5弱、その2分後に震度6強。

亀屋旅館の久田さんは「沖からゴーッという地鳴りがして、激しく揺れました。ああ、これで終わったかと胸を撫で下ろしていたら、さらにゴーッと地鳴りがして……」と話す。功さんは「自分がこれまで経験した中では最も大きな揺れでした」と語る。

相馬市内では「東日本大震災より2021年2月の方が揺れが激しく、2022年3月はさらに凄かった」と多くの人が証言する。被害も深刻だった。

両旅館とも鍵を掛けていたサッシのガラス戸が飛ぶように外れ、屋外に落ちて割れるなどした。

「最初の揺れの後、父が『大丈夫ですか』と客室に声を掛けて回っていた時に2度目の地震が起きました。すぐそばで壁がバーンと倒壊し、間一髪で免れました。客室では金庫やテレビが吹き飛びました。お客さんも父もケガがなかったのが不思議なぐらいでした」と功さんは話す。

津波注意報が出たので、すぐに高台へ避難し、客にはマイクロバスで夜明かしをしてもらった。

借金はギリギリまで膨らんでいる、どうやったら営業を再開できるのか

いさみやは二つの建物の合築だ。双方で揺れが異なったせいか、20cmほど隙間ができて、屋外が丸見えになった。片方の木造2階建ては瓦が落ち、まるで屋外にいるかのごとくに雨漏りがした。

「もう一方の鉄筋3階建ては営業できるのではないか」。そう考えた功さんは父親と協力してひび割れた壁を直すなどして、2週間ほど営業した。

しかし、建築士に見てもらうと、「度重なる地震で基礎まで壊れている。次に被災したら客の安全は保障できない」と言われて、営業を取り止めた。以後、現在まで再開できないままだ。安心して客を迎えるには、解体して建て直さざるを得ない。これには巨額な資金が要る。補助金を申請しようと県とやりとりしているが、なかなか内容が決まらない。

松川浦では2021年の地震復旧工事が終わらないうちに被災した旅館もあった。

復旧工事が終わり、業者から引き渡しを受けて4日後に被災した旅館もある。修繕箇所がまた壊れただけでなく、4階建ての建物が傾いて、部屋にいたら気持ち悪くなってしまう状態だ。

洋式便所の便器が根元から破断して吹き飛んだ旅館では、4階の内壁が崩落した隙間からぐねぐねに曲がった鉄骨が丸見えになっていた。

「修繕しようにも、震災時に抱えた借金の支払いが終わっていない。それなのに2021年の地震でギリギリまで借金が膨らんでいる。どうやったら営業を再開できるのか」と頭を抱える旅館ばかりだった。

久田さんは「被災前は24軒の宿泊施設がありましたが、そのうち5軒が廃業しました。7軒が休業中。12軒が営業していることになっているのですけれど、旅館としてではなく、ノリの養殖しかしていないところもあって、実際には7~8軒しか再開できていません」と肩を落とす。

久田さん自身、冒頭で述べたように被災当初は「心が折れた」状態で、呆然としていた。「特に父母は廃業したがっていました。また地震が起きると言われていましたから」と話す。

ガイドの会のメンバー、管野芳正さん(ホテルみなとや)は、「2021年の地震で壊れた箇所を直したばかりだったのに、もっと酷く壊れてしまいました。震災で抱えた借金が、前年の地震でさらに膨らんでいて、これ以上の借金ができるのだろうかと、しばらくは何も考えられませんでした」と語る。

私は発災直後、そして1カ月後に松川浦を訪れたが、地域全体が暗く沈み、人々の目はうつろで、生気がなかった。

嬉しい想定外だったことは?

2022年の地震による死者は3人(相馬市内は1人)と比較的少なく、被害の大きかったエリアも狭かったからだろうか。局所的な被害が深刻な割に報道は少なく、「すぐに報じられなくなってしまいました」と久田さんは語る。このため「世の中に見放された」と話す人もいた。そうした「見捨てられた」感が、人々の心を余計に沈鬱にさせていたのではあるまいか。

そのような中、久田さんは「ガイドの会」で浜焼きをやろうと考えた。

浜焼きはかつて松川浦の旅館などが軒先で行っていた名物だ。地物の海産物などを炭火で焼き、原釜尾浜海水浴場へ歩いていく客らに販売していた。福島県内では「松川浦」と言えば浜焼きを思い浮かべる人が多い。だが、次第に行う旅館が減り、最後まで焼いていたいさみやも震災でやめていた。これを震災から10年という節目に、「ガイドの会」で復活させていたのである。福島県沖地震で被災する前のことだ。

浜焼き台は、津波に呑まれながらも、いさみやで奇跡的に生き延びたのが1台あった。経験者の功さんが、まるで泳いでいるかのように焼き上がる方法を伝授し、久田さんらも習熟してきたところだった。

「まだ旅館が営業できない状態だったので、皆やることがありません。でも、何かやらないと、私達も生きていけない。気持ちが落ち込んでいて、本当はやりたくなかったのですが……」と久田さんは話す。

被災から1カ月半後のゴールデンウィーク。「10日ぶっ通しでやってみよう」と、いさみやの前に浜焼き台を据えた。意気消沈しながらも、これだけのことができたのは若さだろうか。

大勢の人が訪れた。これは若旦那達にとって想定外だった。

「イカだけで800杯も売れた日がありました。用意した材料はすぐになくなり、何度も何度も追加注文しました」

10日間続けると、さすがに若旦那達もヘトヘトになった。が、心地よい充実感があり、腹の底から力がわいてくるのが実感できた。

11年で3度もの被災。しかし諦めてはいない

「地震の被害は深刻でも、やればなんとかなると分かったのです」と久田さんは語る。

みなとやの管野芳正さんは、「ゴールデンウィークの浜焼きに参加するまでは、瓦礫拾い程度しか行っていなかったので、暗い気持ちでした。でも、いっぱいお客さんが来て、1時間半並んでも途中で帰りません。逆に『頑張ってね』と声を掛けられて、勇気づけられました」と話す。

この賑わいが契機となり、「ガイドの会」は各地のイベントに招かれるようになる。

芳正さんは「辛かった時にいろんな人とつながることができ、また頑張ろうと考えられるようになりました」と話す。「見捨てられた」感を拭い去ることができたのだろう。人は追い詰められた時、人とつながり合うことでこそ、次へ踏み出す力が得られるのかもしれない。

相馬地方では毎年7月後半、1000年以上の歴史を持つ伝統行事・相馬野馬追(そうまのうまおい)がある。みなとやにはこれを見るために泊まりたいという団体から連絡があった。まだ、修繕には手を付けていなかったが、浜焼きを契機に前を向き始めていた芳正さんは申し込みを受けた。そして6月から突貫工事をして泊まれるように間に合わせた。

「まだ、風呂も半分しか直せない状態だったのに、お泊まりいただきました。浜焼きで力をもらっていなかったら、相馬野馬追に間に合わせて修繕しようなどとは考えもしなかったでしょう。旅館を再建できたのは、浜焼きがあったからです」と言い切る。

11年間で3度もの被災。

傷つき、くじけ、諦めかけていた人々に、浜焼きは力を与えたのである。(#2に続く)

3度の巨大地震を経て改めて気づいた相馬市の魅力。しかし立ち直りつつあった今、市民を不安にさせる新たな“風評被害”が…へ続く

(葉上 太郎)

葉上 太郎

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