沖縄出身者「自分のアイデンティティーを誇れる時代になった」 先人達の苦労の結晶がつくった未来

沖縄出身者「自分のアイデンティティーを誇れる時代になった」 先人達の苦労の結晶がつくった未来

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  • 更新日:2022/05/14
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横浜市鶴見区など各地にある「沖縄タウン」。沖縄から働き口を求めて移り住んだ人たちが差別に耐えながら身を寄せ合うようにコミュニティーができた(撮影/写真映像部・東川哲也)

全国各地にある沖縄タウン。働き口を求めて移住した沖縄出身者が助け合って生きてきた。街を歩くと、沖縄の差別の歴史や経済事情も見えてくる。AERA 2022年5月16日号の記事を紹介する。

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バスを降りた瞬間、潮の匂いがした。水平にのびる舗装道路の向こうに、巨大なガントリークレーンが陽炎のように並び立つ。高度経済成長を支えた京浜工業地帯のど真ん中、横浜市鶴見区の一角にある「沖縄タウン」。ここは4月に始まったNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」の舞台の一つでもある。

メインストリートの仲通商店街を歩くと、軽やかな三線の音が耳に飛び込んできた。沖縄民謡が流れる「おきなわ物産センター」の店内は沖縄一色。泡盛、島らっきょう、ゴーヤー……。約千点の商品のほとんどを沖縄から仕入れている。高校卒業まで那覇市で過ごした下里優太社長(41)はこう振り返った。

「子どもの頃は、沖縄は日本の枠の外みたいなイメージがあったので、早く沖縄を出たい、と思っていました。でも、私が内地に来た2000年頃は安室奈美恵さんらが活躍していて、沖縄出身でよかったと思えるようになりました」

鶴見区には大正前期から昭和初期にかけて、多くの沖縄出身者が仕事を求めて集まり、戦後間もなく「横浜・鶴見沖縄県人会」が発足した。3階建ての県人会館の1階テナントに入居する同店は1986年、沖縄でスーパーを経営していた下里さんの父が鶴見に移住して創業。2016年に経営を継いだ下里さんは鶴見の魅力をこう語る。

「私たちのように沖縄から来たよそ者や、南米出身の人たちも受け入れてくれる度量と人情味のある街です」

■支え合って生きてきた

このエリアは90年代以降、「南米沖縄タウン」と呼ばれるほど、多くの南米出身者が暮らしている。下里さんが事務局長を務める県人会青年部も約60人のメンバーの8割が南米系。ほとんどが戦前に沖縄から南米に移住した祖先を持つウチナーンチュだ。

沖縄では今も県外に出て短期の仕事を請け負う「キセツ」という働き方がある。沖縄の不安定な雇用や給与水準の低さも背景にはあるが、下里さんは「キセツ」で働く今の若者たちと、鶴見に根を下ろしたかつての沖縄出身者の違いをこう指摘する。

「かつては二度と戻れない覚悟で沖縄を離れ、みんなで支え合って生きてきた、と聞いています。すぐに沖縄に戻るのが前提の現在の『キセツ』とは別次元のように感じます」

先人たちの苦労の結晶が県人会館だ。戦後の混乱期に取得した土地の権利や会館建設をめぐって、多くの沖縄出身者が協力を惜しまなかった。県人会館を運営する一般財団法人の理事長で、県人会長も兼務する金城京一さん(73)は沖縄本島北部の今帰仁村の古宇利島出身だ。

「島で食べるのはイモばかり。幼少時代は腹をすかしていた思い出しかありません」

金城さんは大学進学を志し、20歳で米軍統治下の沖縄を離れた。いとこが経営する神奈川県川崎市内の会社で仕事に追われ、結局進学を断念。沖縄が日本に復帰したときの記憶もほとんどない。

「無一文で出てきて、生活するのは大変でした。こっちでおいしいものを食べると、両親やきょうだいはどんな食事をしているだろうか、といつも頭をよぎっていました」(金城さん)

復帰前後の頃はアパートを借りる際、「沖縄の人には貸したくない」と言われたことも。当時は生活困窮や習慣の違いから生じるストレスもあり、沖縄出身者が集まって深夜まで騒ぐことも多かった。だから、貸主の反応も仕方がないと思った、と金城さんは言う。

■客のほぼ全員沖縄出身

30代半ばで独立。鶴見区内で配管設備会社を約40年間経営し、昨年廃業した。沖縄の日本復帰からの歳月は、がむしゃらに働いてきた金城さんの本土での暮らしの50年と重なる。

「復帰前の米軍統治下に比べると沖縄は経済的によくなりましたが、基地の弊害はまだまだ残っています。沖縄の人たちが声を上げても国と国との話だから、と聞き入れてもらえない。でも、宙(ちゅう)ぶらりんでいるよりは復帰してよかったと思っています」

昼どきの商店街で行列を目撃した。1955年創業の沖縄そば店「ヤージ小」の客だ。慌ただしく働く社長の雪山秀人さん(59)は「おばあちゃんから引き継いだ店です」と明かした。

創業者は沖縄市泡瀬出身で06年生まれの祖母、屋宜ナベさん。夫を亡くし、幼い娘2人とともに沖縄を離れたナベさんは兵庫県尼崎市で終戦を迎え、戦後の混乱期に鶴見に移った。「ヤージ小(グヮー)」は旧姓の「屋宜」が由来。「グヮー」は沖縄の言葉で、「~ちゃん」といった愛称のニュアンスがある。雪山さんはこの店名を大事に守り続けている。

ナベさんは93歳で他界。小学生の頃から店を手伝っていた雪山さんは、ナベさんの記憶を濃厚に焼き付けている。

「とにかく豪快な人。男とか女とかを超越していましたね」

当時は客のほぼ全員が沖縄出身者。泡盛を飲んで盛り上がり、三線を手に沖縄民謡を歌い始めると、ナベさんも上機嫌になった。苦労した分、普段はお金に厳しいナベさんが「お代はいらないよ」と大盤振る舞い。そんなナベさんの気性に惚(ほ)れこむ常連客が絶えなかった。

店の運転資金は仲間どうしで融通する「模合(もあい)」で調達していた。銀行からお金を借りることはなく、預金通帳の名もなぜか、「キヨ」だった。読み書きができなかったナベさんの胸中を、雪山さんはこう推し量る。

「もとの名は正確には、『ナビー』だったはずですが、『ー』の部分を口でどう伝えていいのかわからず、『ナベイ』や『ナベ』と名乗るようになったのだと思います。銀行の窓口で名前を伝えて怪訝(けげん)に思われるのも面倒だから、とっさに『キヨ』と名乗ったんじゃないですかね」

店を継いで30年超。コロナ禍もリピート客が絶えず、売り上げは落ちなかった。雪山さんは「店の行列をおばあちゃんに見せてあげたい」と話す。

「沖縄の人が自分のアイデンティティーを誇れる時代になったよ。隠すことは何もないよ。世の中はこんなに変わったんだよって言ってあげたい」

(編集部・渡辺豪)

※AERA 2022年5月16日号より抜粋

渡辺豪

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