体が10m吹き飛びガラス破片が右半身に...青森市・田中さん(95)、核兵器廃絶願い被爆体験語り継ぐ

体が10m吹き飛びガラス破片が右半身に...青森市・田中さん(95)、核兵器廃絶願い被爆体験語り継ぐ

  • Web東奥|東奥日報社
  • 更新日:2022/08/06
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原爆関連の資料を見ながら、被爆体験を語る田中さん=7月27日

街はきのこ雲に覆われ、一瞬で姿を消した。1945年8月6日、田中正司さん(95)=青森市在住=は、米軍が原爆を投下した広島市にいた。命を失っていく人々の姿や焼け跡の光景は、77年たった今も鮮明に思い出せる。古里で長年にわたって被爆体験の語り部を務め、核兵器廃絶を呼びかける活動に携わってきた。「私たちの運動が、核兵器を使わせないという抑止力になっている」。そう信じ、被爆者の思いが若者たち、さらにその先へとつながっていくよう願う。

田中さんは青森市出身。無線電信講習所(東京、電気通信大学の前身)に通っていた頃、陸軍の召集を受け、45年4月に広島へ赴いた。8月5日は部隊がある比治山で夜通し防空壕(ごう)を掘った。6日朝、比治山にほど近い皆実町の兵舎に戻り仮眠を取っていた。

ドーン。

爆音とともに、田中さんの体は10メートルほど吹き飛んだ。右半身に、ガラスの破片が突き刺さっていた。

「何事だ」。朝のはずなのに暗くなり、見通しがきかない。崩れた梁(はり)の下で助けを求める仲間をようやく救い出し、兵舎の外へ。山並みが眼前に開けた。きのうまで視界に入っていたはずの建物は、なくなっていた。暗かったのは、きのこ雲が日光を遮っていたかららしいと、後から知った。

比治山への道すがら、真っ黒になり倒れた若い兵士を見た。皮膚や唇が焼けただれ苦しむ人がいた。「水を飲ませて」「熱いよ、熱いよ」とすがる声を聞いた。田中さんたちは、さらに南東にある仁保町の兵舎へと歩いた。何が起きたのかも、誰が思い立ったのかも分からなかったが、偶然にも爆心地から遠ざかっていた。

仁保町の兵舎には、やけどやけがを負った被爆者が次々と運ばれてきた。夏の盛りに、手当てを十分に受けられないまま、一人、また一人と亡くなった。校庭が火葬場となり、来る日も来る日も火葬は続いた。

「今でも、遺体が焼けるあのひどい臭いを思い出す」と田中さん。「本当に、地獄のさまだった」

復員後、田中さんは電電公社に勤め、1982年に定年を迎えた。県原爆被害者の会から声がかかったのは、ちょうどその頃。以来およそ40年間、会の活動に参加し、会長も務めた。原爆関連の写真展で自らの体験を語り、学校や他団体からの講演依頼にも応じた。

原爆投下から77年後の今、ロシアがウクライナに侵攻し、核兵器の使用もちらつかせている。「隣の国を核で脅す行為は、本当に卑劣だ」。田中さんは顔をしかめる。核兵器がある限り、指導者がボタンを押す脅威は残る。「青い地球を守るため、子どもたちのため、絶対になくさなければ」との思いを強くする。

希望はある。核廃絶を求める2016~20年の国際署名キャンペーンでは、県内で11万筆を超える署名が集まった。キャンペーンを通じ、県内の協力団体とつながりができた。国際的にも核兵器禁止条約が発効し、条約不参加ながらも協調姿勢を示す欧州諸国も現れ始めた。

田中さんは「被爆者が77年積み重ねた運動が、少しずつでも世界に浸透してきた」と確信し、理念や活動の継承に期待を込める。「あの戦争から得た教訓と命を子孫につないでいくのが、私たちの使命です」

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