フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで、作家が向き合った「自然」の姿 『自然と人のダイアローグ』鑑賞レポート

フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで、作家が向き合った「自然」の姿 『自然と人のダイアローグ』鑑賞レポート

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  • 更新日:2022/06/23
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ああ長かった、1年半。リニューアルのための休館期間を経て、国立西洋美術館が帰ってきた!

『国立西洋美術館リニューアルオープン記念 自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで』は、同館の新たな門出を飾る、美術館とアートファンの双方にとって待望の展覧会である。会期は2022年9月11日(日)まで。見どころに溢れた展示の様子を、メディア内覧会の写真とともにお伝えする。

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前庭がスッキリして、63年前にル・コルビュジエが設計した当時の雰囲気に近づいた国立西洋美術館

日独コラボでお送りする知的なツアー

本展は、ドイツのフォルクヴァング美術館とのコラボレーション企画。ドイツからドイツ・ロマン主義〜現代に至るまでの名作が多数来日し、国立西洋美術館の誇る松方コレクションとともに、芸術家たちが自然といかに向き合ってきたか? という切り口でアートの流れを総覧する。自然とのダイアローグ(対話)ということは、風景画がメインか……と思うことなかれ。彼らが「自然=世界」を見つめる視線は、目の前の風景を捉えるだけではなく、人の精神の奥深くまで潜り、さらには無限の宇宙にまで広がっていく。ダイナミックな飛躍を孕んだ、意欲的な展覧会だというのが率直な感想である。

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グラデーションフィルムがあしらわれた会場入口。窓際を歩くと、光による風景の移ろいを実感できる設えだ

本展では、展示室内のレイアウトにもこれまでにない挑戦的な手法を取り入れているという。さっそく内容を見ていこう。

移ろう自然なら、印象派にお任せあれ

第1章では、印象派を中心とした作品が惜しげなく並べられている。画家が屋外で制作し、刻一刻と変化する光や風、湿度をキャンバスに写し取った作品たちである。

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展示風景

中には、モネがルーアン大聖堂を描いた連作のひとつも。淡く繊細な色の重なりを見ていると、やはり実物の絵画を鑑賞する意義は大きいなぁ、としみじみ思う。ぜひ作品タイトルを見る前に、描かれているのは何時ごろ、どんな天気の日のルーアン大聖堂なのか想像してみてほしい。

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左:ピエール=オーギュスト・ルノワール《オリーヴの園》1910年頃 フォルクヴァング美術館、右:ピエール=オーギュスト・ルノワール《風景の中の三人》1916年 国立西洋美術館

よく見ると、壁の所々に鑑賞のヒントとなるような画家や評論家の言葉が。これが作品との相乗効果を生んですごくいい! 例えば、ルノワールの作品の上にある文言はこうだ。

「海が、万年雪が、そして石さえもが花開く、開花しか知らないこの土地から、彼の花開く芸術も育ったのです。[……]彼の絵には、ただ幸福だけがあるのです。神的にあらゆるものに魂を吹き込まれた自然との一体化の幸福だけが。」

ちなみに、ルノワールについてこの言葉を残したのは、フォルクヴァング美術館の創設者カール・エルンスト・オストハウスその人。さすがの詩的感性である。

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左:クロード・モネ《舟遊び》1887年頃 国立西洋美術館 松方コレクション、右:ゲルハルト・リヒター《雲》1970年 フォルクヴァング美術館

モネの《舟遊び》とリヒターの《雲》が仲良く並んだ、特別な空間も。ちょうど、《舟遊び》をしていて、見上げた《雲》がそこにあるようだ。印象派×現代アートという異色の取り合わせだけれど、ふたつの作品は表現の根元で深く響き合っている。そこにあるのは、「この風景ってどんなにリアルであろうとも、主観がつくり出す仮象(かしょう)ではないか?」という画家からの問いかけだ。

また、白いキューブを斜めに入れ込んだような大胆な展示空間も面白い。まるで、美術館の中に外の世界が突っ込んできたようにも見えるのだ。もしかしたら、閉ざされた絵画の世界に “外” を持ち込む印象派が現れたとき、当時の人もこんなふうに驚いたのかもしれない。

自然に思いを託して

「なぜか分からないけれど、夕陽を見ていると泣ける」「精緻な自然の造形に触れると、万物の創造主の意志を感じる」そういうことはないだろうか? 第2章では、自然の中に人間の感情や神秘的なものを見出し、目に見えないものをキャンバス上にあぶり出す作品が並ぶ。ロマン主義、象徴主義と呼ばれる作品たちだ。

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左:カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《夕日の前に立つ女性》1818年頃 フォルクヴァング美術館、右:ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダール《ピルニッツ城の眺め》1823年 フォルクヴァング美術館

本展のチラシでも使用されている、フリードリヒの《夕日の前に立つ女性》は、第2章の冒頭に展示されている。きっと実物を見た人なら皆同じ感想を抱くと思うのだが、この作品はびっくりするほど小さい。スケール感と絵の大きさは比例しないのだと実感させてくれる一枚だ。ちなみに、この光が朝日なのか夕日なのかは諸説あるという。実際に見ると、女性の位置が画面のセンターから微妙にズレているのが気になる。ただ佇む姿ではなく、彼女がまさに動き出そうとした瞬間が描かれているのかも……。そう思うと、個人的には朝日に一票を入れたくなる。

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左:ギュスターヴ・クールベ《波》1870年 フォルクヴァング美術館、右:ギュスターヴ・クールベ《波》1870年頃 国立西洋美術館 松方コレクション

自然のありのままの姿を描く自然主義の画家、クールベの2点も見逃せない。画家個人の情緒やロマンのフィルターは不要とばかりに凄みある自然の姿を突きつけるクールベの絵画は、前に立つと波音や轟々と吹く風まで感じられそうだ。「目に見えるものしか描かない」と宣言していたクールベだが、これらの作品からはむしろ、彼自身の中にある(目に見えない)自然への畏怖の念が見てとれる。

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展示風景

第2章ではこのほか、モローやルドンといった象徴主義を代表する巨匠や、そして人の無意識下にあるものを描き出す、エルンストらシュルレアリスムの画家たちが登場する。これだけでひとつの展覧会になりそうな見応えだ。

ルールを紐解き、再構築する

世界の法則……というとちょっと大げさかもしれないが、万物すべてを貫く理(ことわり)というものは存在するかもしれない。その「真理」なるものを追求するのは古来より哲学者の仕事だが、画家もまた自分の描く世界の創造主ゆえ、世界を解釈するルールについて理論的に思考するタイプの巨匠たちがいる。第3章はそれぞれの理論で自然を読み解き、再構築した作品が並ぶセクションだ。

構築といえば、セザンヌ。独特の、微妙に色を変えながら小さいタッチをリズミカルに並行させる描き方は「構築的筆致」と呼ばれる。セザンヌが目指したのは風景の再現ではなく、風景を見たときの感覚の再現だ。作品の前に立つと、まるで脳が誤作動を起こしたように、実際その景色の中にいるかのような不思議な感覚が呼び起こされる。

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左:テオ・ファン・レイセルベルへ《ブローニュ=シュル=メールの月光》1900年 フォルクヴァング美術館、右:アクセリ・ガッレン=カッレラ《ケイテレ湖》1906年 国立西洋美術館

注目株は、国立西洋美術館が新規購入したというガッレン=カッレラの作品だ。この画家は19世紀末にフィンランドを中心に活躍し、作風としては象徴主義に分類される。《ケイテレ湖》は画面のほとんどを湖面に割り当て、さざなみをキャンバスを横断する銀の帯で表現した大胆な作品である。北欧らしい静けさをたたえた、現代的な感性に響く作品だと感じた。これからさらに人気が高まりそうだ。

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展示風景

そして、美術史上で体系立てられた理論といえば、点描技法を操る新印象派は外せない。本展では、シニャックが水辺の風景を描いた2作品を見ることができる。純粋な色の点をポチポチ並べて描き、パレットの上で色を混ぜるのではなく、見る人の網膜の上で色を混ぜるという驚きの発想である。

さらに奥には、カンディンスキー、ミロによる世界を濃縮還元したような抽象絵画が続く。特にミロの《絵画》は、記号化された太陽や星がキャンバス上を漂う大作。ちょうど腰掛けのある展示室なので、じっくり腰を落ち着けて、大きな広がりを味わうのがおすすめだ。

呼応するサイクル

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左:カミーユ・ピサロ《収穫》1882年 国立西洋美術館 松方幸次郎氏御遺族より寄贈;旧松方コレクション、右:フィンセント・ファン・ゴッホ《刈り入れ(刈り入れをする人のいるサン=ポール病院裏の麦畑)》1889年 フォルクヴァング美術館

第4章ではゴッホの《刈り入れ》を中心に、繰り返す四季の巡りと生命のサイクルを重ね合わせた作品を見ることができる。植物が芽生えて枯れるように、人は生まれて死ぬ。春のような若さ溢れる時代から、老いと向き合う厳しい冬の時代へ至り、無に帰してまた春に次の命が生まれ出てくる。視野を広げて見れば、大地もこの宇宙も、同じ環(わ)の上に乗っていると言えないだろうか。

日本初公開となる《刈り入れ(刈り入れをする人のいるサン=ポール病院裏の麦畑)》は、ゴッホがゴーガンとの別離を経て入院していた時期に描かれた作品。刈り取る人の姿には死のイメージが託されており、ちょうど《種まく人》と対になるモチーフだ。死を描いているものの、意外にもゴッホは本作についてこんな言葉を残している。

「しかしこの死のなかには何ら悲哀はなく、それは純金の光を溢れさせる太陽とともに明るい光の中でおこなわれているのです」

確かに、実際に見てみると、なんとも伸び伸びした印象を受ける。画面をジグザグと横断していく線は軽くスイングして、ステップを踏んでいるようだ。生きとし生けるもの全てが、太陽(神)が見守る中で死と再生を繰り返すイメージは、ゴッホにとって大きな安らぎだったのかもしれない。

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エドヴァルド・ムンク《アルファとオメガ》1908年-1909年 国立西洋美術館

一方、ムンクの連作版画《アルファとオメガ》が描き出すのは、愛のサイクルだ。ムンク自身が療養の一環として創作した物語で、男と女、そして獣たちの愛憎劇が描かれている。叫ぶ男や、海に落ちる月影など、「これぞムンク!」な表現が散りばめられており、画家の危うい一面が怖いくらいに伝わってくる。ぜひ細部までじっくりと堪能を。

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左:クロード・モネ《睡蓮、柳の反映》1916年 国立西洋美術館 松方幸次郎氏御遺族より寄贈;旧松方コレクション、右:クロード・モネ《睡蓮》1916年 国立西洋美術館 松方コレクション

最後の展示室では、モネが睡蓮を描いた2点が待っている。横長の作品《睡蓮、柳の反映》は破損が激しく、画面のほぼ半分が失われている状態だが、この文脈で鑑賞するとそこがまた、絵画も同様に生み出されては消えていくものなのだと感じられてグッと来る。

睡蓮はモネ自身がつくり上げたジヴェルニーの庭園に咲いていたもの。晩年のモネは「睡蓮」や「庭」のモチーフに没頭したという。庭園は閉ざされた楽園であり、小さな宇宙とも解釈できる。そしてモネの《睡蓮》とちょうど向き合うように展示されているのは、ドイツの女性写真家エンネ・ビアマンの《睡蓮》だ。充実した写真コレクションを持つ、フォルクヴァング美術館とのコラボならではの粋な取り合わせである。

奥へ奥へ引き込むような雌しべが、生命の内面世界への広がりを感じさせる。遠大な宇宙への広がりと深淵なる内面への広がり、双方向に引っ張られて、最後の最後まで感性が大忙しの展覧会だった。

二人のコレクター、松方幸次郎とカール・エルンスト・オストハウス

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同時代を生きたふたりのコレクター、フォルクヴァング美術館のカール・エルンスト・オストハウスと、国立西洋美術館の松方幸次郎の両氏

ただ年代順に作品を並べるだけではきっと感じられなかった、芸術家たちそれぞれの「自然との対話」を追体験することができた。これは日独の貴重なコレクションが合わさることはもちろん、企画側の鑑賞者に対する巧みなエスコートがなければ叶わなかった体験だと思う。うーん、さすが美の番人、国立西洋美術館である。人が自然を見つめる目はこんなに柔軟になれるし、絵画を見る私たちの感性は、心の中までズームインしたり宇宙までズームアウトしたり、自分で思っている以上に伸び縮み自在なのだ。

『国立西洋美術館リニューアルオープン記念 自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで』は、2022年9月11日(日)まで。「キレイな絵がたくさん見れた!」以上の、大きな心の収穫があること間違いなしだ。ぜひ足を運んでみてほしい。

文・写真=小杉美香

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