渋沢栄一、人生最大の黒歴史──大河ドラマが描かない「日本人女性を外国人に取られたくない!」のホンネ

渋沢栄一、人生最大の黒歴史──大河ドラマが描かない「日本人女性を外国人に取られたくない!」のホンネ

  • 日刊サイゾー
  • 更新日:2021/05/02
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

幕末日本を騒がせていた、尊王攘夷運動。“天皇を尊ぶ”という意味の「尊王」と、“外国人を国内から排斥する”という意味の「攘夷」はまったく別ものなのですが、2つがセットにされて日本中で流行しました。

大河ドラマ『青天を衝け』では、草彅剛さん演じる徳川慶喜が、「攘夷など詭弁だとなぜわからないのか」「ほんとうに攘夷などできると思っているのか」とクールに言い捨てていましたよね。恐らく、大半の視聴者はドラマの慶喜には共感できるけど、攘夷熱が上がる一方の主人公の渋沢栄一(吉沢亮さん)とその周辺には「ついていけない」と感じ始めているのではないか……、と思われます。

ただ我々の感覚とは裏腹に、渋沢栄一は、普通に考えれば人生の中で最大の黒歴史であろう横浜襲撃失敗についても、一切隠そうとしないのです。

彼が亡くなる直前、「(数えで)九十二歳の春を迎へ」た頃でも、それは同じでした。渋沢は、中里機庵という、ノンフィクション作家から、『幕末開港綿羊娘情史(ばくまつかいこう・らしゃめん・じょうし)』という本の序文を依頼されました。その中で、渋沢は横浜襲撃計画について語るとともに、彼らをテロにまで駆り立てた、意外な動機の一つを明かしているのです。

それは、日本人女性が、外国人相手の妾という“慰み者”になっている悲惨な現実を打破したい! という志(こころざし)に燃えていたからだ、というのですね。

実は、この中里機庵の『幕末~』という本は、幕末期に横浜にあった遊郭で、外国人客専用だった遊女たちについてまとめたノンフィクションなのでした。

渋沢は、その序文でこう語っています。

「わたくしの壮年時代、世に『らしゃめん』即ち洋妾と唱へ、外人の妾となるものが多かった。而して、心あるもの、一人として日本の国辱となし『らしゃめん』の厚顔無恥を怒罵せぬものはなかった」。

要約すれば「日本人女性が外国人の愛人にされていたという恥ずかしいことは、国辱と感じられた」と渋沢はいうわけです。「女性にそういうことをさせる世の中は間違っている!」という義憤があったそうな。

一方、日本に駐在する外国人の多くが暮らした横浜には、夜の社交場の開設を求める声が強くありました。これによって品川遊郭の経営者の一部が、現在の横浜スタジアムがある一画を整備、「港崎遊郭(みよざきゆうかく)」として開業したのが、1859年(安政6年)のこと。

港崎遊郭の中心は「岩亀楼(がんきろう)」という豪華な洋風建築で知られる高級店で、ここでは日本人向け=日本口(にっぽんぐち)と外国人向け=唐人口(とうじんぐち)に店内が分かれており、遊女も2つのグループに分かれて仕事していました。

また、「岩亀楼」の初期メンバーの遊女たち30人の出身地は、現在の埼玉県、もしくは多摩地方でした。渋沢たちの暮らす血洗村にも、「娘が異人に売られた」という噂は恐らく流れてきたでしょうから、渋沢の義憤もまったくのウソではなかったと思われます。

外国人向けの遊女の通称が「綿羊娘(らしゃめん)」で、彼女たちは非常に高給取りでした。毎月与えられる給料は最低でも10両(=100万円)。人気遊女はその2倍は軽く稼いでいました。ひっきりなしに客を取らされるというより、固定~半固定で裕福な外国人をおもてなしすることが業務の中心です。

しかし、彼女たちがこれほどまでに高額な給金を得れたのは、外国人の性の相手をしたという経験が“ケガレ”になると考えられていたことに起因します。それは、退店後もずっと差別の対象となり得ることも意味していたのでした。

「岩亀楼」の経営者も遊女たちも、「日本から異人に流出した金銀を、アイツらと寝ることでアタシたちが取り返してやってるのさ!」と攘夷の志士気取りでいたのですが、世間はとてもそういうふうには見てくれませんでした。

綿羊娘と外国人向けの遊女が呼ばれた理由は、日本人に比べると毛深い外国人の男性を羊にたとえ、その妾になる女性を辱める目的だったのでしょう。実際のところは、いくら差別されたところで、外国人男性相手の愛人業は儲かったので、貧しい日本の男性と結婚するよりも外国人の愛人となることを目指す素人女性もたくさんいたようですが。

しかし渋沢は「綿羊娘」について、こんなことを考えていたそうです。

当初、どこか遊郭に所属していた遊女、つまりプロの女性が外国人向けに商売替えしたのだろうと思っていたが、素人の女性までもが外国人に媚を売り、金をもらおうとしていると知って、“心胆を寒からしめた”……つまり、背筋が凍るような気持ちになった。

「外人の金権勢力が婦女子の心理をも浸蝕した事実に驚かざるを得なかった」とも、渋沢は序文内で言っています。

正直なところ、外国人に日本の女性が寝取られてしまう。日本の男には相手がいなくなるじゃないか、という危惧も入っていたと思いますよ。だから、そんな汚れた街・横浜なんて、燃やしてしまえ、というテロの発想につながってしまったのかもしれません。まぁ、「幸いにして」渋沢の計画は頓挫してくれたのですが。

ちなみに渋沢と横浜の港崎遊郭の接点は、これで終わりではありませんでした。後に渋沢は慶喜の弟に随行してフランスに渡っているのですが、横浜から船に乗った時、ほかならぬ「岩亀楼」の日本人向けの遊女・喜遊(きゆう)が「外国人を客に取れ」と言われ、自害したという噂を聞き、「これぞ日本の女のあるべき姿だ」と感激したそうなのです。

実際、喜遊は「攘夷女郎」などと呼ばれ、死んでいるぶん、理想化しやすかったこともあり、尊王攘夷派の心のアイドル的存在として祭り上げられていきます。

喜遊の辞世は「露をだにいとふ 倭(やまと)の女郎花(おみなえし) ふるあめりかに袖はぬらさじ」という歌で、「アメリカ人の相手をさせられるくらいなら、誇り高い日本人女性である私は死を選びます」と要約できます。

これに渋沢は感激してしまったというのですが、ここにもウラの事情がありました。

攘夷の志士たちにマークされた「岩亀楼」周辺は、外国人客が入れないくらいに治安が悪化しており、「岩亀楼」の経営も、大金をばらまいて稼がせてくれる外国人客が来ないのでやっていけなくなっていました。

困りきった経営者が、「それなら、ウチで喜遊という攘夷女郎が自害したというフェイクニュースを流せば、志士が来てくれるかもしれない」と一計を案じたというのです。

ですから、喜遊なんて遊女は最初から存在していたかどうかも怪しかったのですが、それにコロッと渋沢ふくむ志士たちはやられてしまったのでした。実に単純なものです。

渋沢の横浜焼き討ち計画自体は頓挫しましたが、港崎遊郭はその開業から10年もたたない1866年(慶応2年)11月26日、俗に「豚屋火事」と呼ばれる大火災によって焼失しました。火事は横浜の異人街にも飛び火し、大変な被害を出しています。

外国人が好むブタ料理店からの出火とされているものの、詳細は不明。おそらく、かつての渋沢と似たような思想の持ち主で、「憂国の士」を気取る連中の手による放火ではないかとも囁かれています。

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