
残暑を吹き飛ばす「心霊の謎」、読んでいきませんか?
「怪と幽」で絶賛連載中の、有栖川有栖さんによる「濱地健三郎シリーズ」。その最新刊の『濱地健三郎の呪える事件簿』から期間限定で「リモート怪異」「呪わしい波」の2話を配信いたします!

リモート怪異(中編)
「お久しぶり。元気そうじゃない、ユーリー」
パソコンの画面で、若生実貴子は軽く手を振った。相変わらず石原さとみを追っているんだな、というヘアスタイルである。得意の小顔メイクも怠っていない。
大学卒業後に一年ほど勤めた興信所で世話になった六つ年上の先輩である。後輩の面倒見がよく、在職中は手取り足取り親切に指導してくれた。退社した直後に、「こんな探偵事務所が人を募集しているらしいんだけど」と世にも珍しい今の仕事を紹介してくれた人物でもある。
ユーリーと呼ばれたのは約一年ぶりだ。実貴子には周囲の誰彼かまわず愛称をつける癖があり、変な呼び方をして同僚を怒らせることもあった。
「ご無沙汰しています。若生さんこそお元気そうですね」
ユリエの言葉に、うんうんと頷く。
「世間は大変だけど、くよくよしてばかりもいられないでしょう。家にいる時間が増えたのを利用して、手品かジャグリングの練習でもしようかと思ってる。将来、何かあった時に大道芸に活路を見出せるかもしれないから。ひっ」
鼻筋が通った美人なのに、引き攣った声で短く笑うのも彼女の妙な癖だった。
「ユーリー、きれいになったんじゃない? うちにいる時もきれいだったけどさ。彼氏ができたのかな?」
どこまで本気か判らないことを言われた。
「またまた。わたしなんか、若生さんの足元にも及びませんよ。以前よりは、のびのび働けているから肌の艶はいいかもしれません」
「よけいなことで苦労してたもんね、あなた。──まずは乾杯しよう、乾杯。用意してあるよね」
缶ビールをグラスに注ぎながら促すので、ユリエも「準備できていますよ」と応えて、発泡酒のプルタブを開けた。画面越しに乾杯を交わす。ひと口飲んでから、かつての先輩は申し訳なさそうに言った。
「昨日、急にメールしてごめんね。びっくりしたでしょう。今日は付き合ってくれてありがとうね。ユーリーがどうしているかなぁ、と思って」
「全然かまいませんよ、そんなの。若生さんがわたしのことを思い出してくれたのは、在宅時間が長くなって人恋しくなったせいですか?」
「それもあるかな。でも、こんなことにならなくてもユーリーのことが気になっていたのよ。濱地さんのところ、わたしが紹介したわけだから、うまくやっているかどうか」
と言って、グラスを傾ける。
「おかげさまで、なんとか馘首にならずにやっています」
「羽振りがよさそうね。すごい家に住んでいるじゃない」
こちらの背後を覗き込むふりをしておどける。ユリエはどうしても生活感がにじんでしまう部屋を見られたくないので、開いた窓から庭のプールが見える高級ヴィラの写真を壁紙に使っていた。もう午後九時を回っているのに壁紙は昼間の情景だから、リゾートホテルに宿泊中なのか、と勘違いをするはずもない。
「こんな家にリアルで住めたらいいんですけれどね。若生さんみたいなマンションに引っ越せたら万々歳です」
実貴子が暮らしているのは独りで住むには贅沢なほどゆったりとした3LDKのマンションで、少人数のタコ焼きパーティに招かれたことがあった。あのリビングの大きなソファに掛けて、パソコンに向かっているようだ。画面に映っていないテーブルの上には各種つまみが並べてあるらしく、飲んで話しながらピーナッツやサラミを口に運ぶ。
「築三十年のこの程度の部屋でいいの? 日当たりが悪くて安いのが取り柄。わたしの年収じゃ、これが限界ね。OGなんだからうちの待遇についてはよく知ってるでしょう」
「そっちはどうなんですか? 同業でも、うちは特殊すぎるので様子の見当がつきにくいんです」
「何とかやってるよ。新型コロナの影響で仕事がなくなっちゃうんじゃないか、と心配していたけれど、うちは週刊誌のスクープのお手伝いだとかも手掛けているし、新規の依頼もぽつぽつ入ってきているの。こういうご時世ならではの依頼もね。飲食店やコンビニのアルバイトがなくなってしまったので、こそこそ外出する娘がよからぬ小遣い稼ぎに手を出していないか調べてくれ、だとか」
「へえ、そんな依頼もあるんですか」
「うん。リモートワークで済む仕事をしているのに、『社判が要るから』と言って、しょっちゅう出社する夫の尾行調査なんかもある。皆さん、秘密を持ちたがるから興信所の仕事は尽きないね」
上司が鬱陶しく所内の人間関係にも嫌気が差して辞めたが、実貴子の他にも気の合う人がいた職場だ。窮状にないと知って安心した。
「あらためて訊くけれど、ユーリーは今の職場には満足しているのね?」
「待遇にも不満はないし、仕事も面白くてやりがいがあります」
「なら、よかった」
「気に懸けてくれていたんですね」
「そりゃ、ね。紹介しておいてなんだけど、何しろ心霊探偵だから。わたしだって、どんなところかよく知らなかった」
「紹介してくれた時、ちゃんと『自分もよく知らないんだけど』と言ってましたよ。わたしはそう聞いた上で採用面接を受けたんです。……実際のところ、若生さんは濱地先生についてどこまで知っていたんですか?」
「面識がある、という程度。一度会っただけ。話したでしょ?」
「はい。あれがすべてなんですね」
「そう。変な出会い方よね」
〈捜さないでください〉という置き手紙を遺して家を出た十九歳の娘を連れ戻して欲しい。そんな依頼人の求めに応じて調査を進めた若生実貴子は、十日目に居所を突き止めるのに成功する。都内某所のワンルームマンションに身を寄せていたのだ。部屋の所有者は海外に赴任中で空き部屋のはずなのに、何故かそこに居着いている。どうしたことかと事情を探っている最中に、濱地と鉢合わせした。
依頼人がふた股を掛けて他の探偵も雇っていたのかと思ったら、そうではない。彼は別の案件を調査しているうちに、その娘にたどり着いたのだと言う。そして、「手を出さないでいただけますか」と実貴子に頼んだ。はい、判りました、と承知できるわけがない。探偵同士で悶着が起きかけたのだが、ものの半日もしないうちにすべてが解決する。
「『あの娘さんに憑いていたものは落としました。連れて帰っていただいて結構です』なんて言うから、ぽかんとなった。くわしく説明してもらおうとしたら、『守秘義務に抵触するので、それはできかねます』よ。冗談ではなさそうだったので、怖い気もしたんだけれど、自分が知らない世界があるらしいことに、ちょっとわくわくした。そんな話をするのが見るからに胡散臭いおじさんだったら馬鹿らしいだけだったかもしれないけれど、濱地さんってダンディで、どこか謎めいているじゃない。ああいう人に言われたら、とんでもない話も信じてみたくなるでしょう。ある種のロマン」
濱地は、実貴子に強い印象を残したのだ。その娘を保護する段取りについて話しているうちに互いに気持ちが打ち解けたのか、彼はぽつりと洩らしたのだという。
「『人手が足りなくてね。何もかも独りで切り回しているのですが、もしもあなたのところに事務所を移りたがっている人がいたら、紹介してもらえるとありがたい』って言うの。その時は聞き流したわ。でも、ユーリーが辞めてからふと思い出してね。濱地さんは特異な事案ばかり扱うみたいだし、具体的にどんな調査を請け負っているのかも知らなかったけれど、紹介するのはアリだと思った。あなたは、うちの非紳士的な所長の傲慢さと不公平さ、それが原因の所内の澱んだ空気が嫌になって辞表を書いた。探偵の仕事が合わなかったわけじゃなく、むしろ未練があった。だったら、同業他社に転職して紳士的な上司に付けばいいんじゃないか、って」
質問されたわけではないのに、ユリエは「はい」と答える。実貴子は自分のことをよく理解してくれていた。
「今の事務所を紹介してくれたことを感謝しています。濱地先生は紳士ですよ。まだ一人前になっていないのに、待遇もいくらかよくなりました」
その代わり、他の探偵事務所では体験できない刺激的かつ冒険的な案件を扱うこともあります、ということは伏せた。
「上辺だけうまく取り繕う男もいるけど、あの人はそうじゃないと思った。ユーリーに教えず、わたしが転職すればよかったかなぁ。ひっひっ」
探偵として腕利きであるのみならず、実貴子は精神的にタフだ。職場内のごたごたについても、「人間喜劇だと思って観察してたらいいの。ここの人たちは拳銃をぶっ放したり刃物を振り回したりもせず、不仲な相手と嫌みを飛ばし合うだけだから可愛いものでしょ」と笑っていた。
実貴子は二本目のビールをグラスに注いでから、「それで」と言う。
「お宅の濱地健三郎先生は、実際のところ何歳?」
やはり年齢が気になっていたのか。
「永遠の謎に終わりそうです。そばにいても判りません」
「隠すってことは老けてるのかな。でも、動作は若々しかったし……うーん、変な人であることも確かだな。椅子から立ち上がる時に『よいしょ』と言ったりしないでしょう?」
「しませんね。わたしはよく言いますけれど」
「ひっひっ、わたしも言う」急に真顔になって「ところで、お宅はマジで幽霊だの呪いだのを扱っているの?」
「はい」と答えるしかない。実貴子は今さら驚いたりしなかった。
「ふぅん、この世知辛い世界にロマンはあったんだ。ロマンは大事」
「ロマンなんでしょうか? 人間のどろどろした面が凝縮されたものに直面することもありますよ」
「探偵だからね。そりゃ直面しまくるでしょう。だけど、きっとそれだけじゃない。これはわたしの想像にすぎないけれど、逆に……なんて言うか、人間への愛着が深まるとか。死生観が変わったりもしない?」
「若生さんだって探偵なんだから、人間のどろどろと向き合って、日々、感じることがありますよね。基本的に同じですよ。人間が憐れに思えることもあれば、可愛く思えることもあって、色々です。幽霊が視えるようになってから自分の死生観がどう変化したかっていうのか、まだうまく説明できません」
実貴子の動きが停まったので、ユリエは自分が口を滑らせたことに気づき、はっとなる。相手はゆっくり顔を突き出してくる。
「幽霊が、視えるように、なったの?」
ごく自然にしゃべってしまったので、冗談ですよ、と否定しづらい。曖昧な笑顔はイエスと答えたのも同然で、白状することにした。
「濱地先生と行動をともにするうちに……それらしいものが少し。以前は視えなかったものが視えるようになりました」
「つまりそれって幽霊のことよね。子供の頃からそんな素質があった?」
「全然。……いや、おかしな気配を感じることはあったかな。それが普通のことだったのかどうか、もう判らなくなりました」
実貴子はソファの背もたれに上体をぶつけ、反動でまた身を乗り出してきた。
「びっくりね。心霊探偵を手助けしているうちに、ユーリーがユーレーを視るようになったとは。これまでどんなものを視たのか教えて」
「業務上の秘密です」
「差し障りのない範囲で言えるでしょ。誰にも言わず、ここだけの話にするから」
亡くなった人の姿がぼんやりと視える、とだけ話した。
「解像度は? 顔立ちが判るぐらい?」
「判る場合もありますよ。その似顔絵を描くのも仕事です」
「ああ。あなた、大学時代に漫研だったって言ってたものね。そうか、幽霊の似顔絵を描いて濱地さんのお役に立っているんだ。幽霊を視る才能も開花させたし、いい人材を紹介したものね、わたし。──どんな案件を扱うのか聴きたいなぁ」
濱地探偵事務所を紹介してくれたことに恩義を感じているので、つれなくするのも気が引ける。守秘義務に留意し、潤色を施しながら二、三の例を話した。実貴子はそれで満足し、もっと話せ、と迫ってきたりはしない。
「興味深いな。そんなことって、あるんだね。正直言って、全部まるごとは信じられないけれど」
「半信半疑でかまいませんよ。立場が逆だったら、わたしでも鵜吞みにはしないでしょう」
「ところで、依頼人はどこでどうやって濱地さんのことを知るの? ウェブサイトもないし、駅に怪しげな看板を出しているわけでもないのに」
この疑問にもありのまま答えた。どういうわけだか、濱地の助けが必要になった人は、この事務所の電話番号を耳にするのだ、と。実貴子は笑っていた。
「神秘にもほどがあるわねぇ。もう一つ質問。ミステリアスな探偵は、どんなふうにして案件を解決させるの? 悪い幽霊の居場所を突き止めて、呪文を唱えたりするのかな」
「とても柔軟です。懇々と説得したり、相手の最後の希望をかなえてあげたりしてお引き取り願ったり、わたしには理解できない精神の働きで消してしまったり。──これ以上は企業秘密なので言えません」
「うーん、ついて行けなくなってきたかな。要するに、何でもアリなのね。何でもできるんだ」
「何でも、というわけではないと思いますけれど。いつも手際がいいですね。この前なんか、居もしないものを怖がっている人の不安をカウンセリングで取り除いてあげたりしていたようですよ」
口裂け女に怯えた依頼人にどう対処したのかを話すと、実貴子は「へえ」と感心していた。
「多芸なんだ。濱地さん、ますます面白い。身辺でお化けや幽霊絡みのトラブルが起きたらお願いするわ」
「若生さんのまわりでは、そういうことはあまり起きないように思いますけれどね」
「どうして?」
少し心外そうにする。
「いえ、その、変なものがまとわりつく隙がなさそうというか……」
「ロマンがない女に見えているのかな?」
「心霊現象は別にロマンでもありません。先生によると、ただの〈現象〉です」
実貴子は手にしていたグラスをカタンと置き、やにわに口調を改めた。声が低くなっている。
「わたし、怖い目に遭ったの。外出自粛が始まってから。あんな〈現象〉は聞いたこともなかった」
話の流れからすると、心霊現象に関係しているのだろうか。思い出しても恐ろしくて寒気がする、というように実貴子は腕を交差させて両肩を抱いた。
「夜も更けてきたところでする話じゃないかもしれないけれど、心霊探偵の助手で幽霊の似顔絵を描いているユーリーなら平気よね。聴いてもらうわ」
実貴子は真剣な表情になっており、嫌です、と拒めそうにない。聴かせてもらうことになった。
わたし、オンライン飲み会っていうのを企画したの。外で飲み歩けないとなると、無性に飲み会の雰囲気が恋しくなってさ。職場の人たちに声を掛けたら、三人が「参加する」と手を挙げてくれた。あんまり人数が多いのもやりにくそうじゃない。四人ぐらいがちょうどいいかな、と思って、やった。
五日前。金曜日の夜だった。
めいめいが食べるものとお酒を用意して、午後七時にスタート。リモートの飲み会は初めてだったけれど、違和感はなかった。どんな不便に耐えているか、コロナが終息したら何がしたいか、といった他愛もない話に花が咲いて、和やかな会になったのよ。
参加者の最年長は経理の高道さん。タカヴィッチのことはユーリーも知ってるよね。吞兵衛だから、ほいほい乗ってきてくれた。
わたしと同い年の伏見芳彰も知ってるか。フッシーが不動産会社の営業マンから転職してきたのは、あなたが辞めるひと月ぐらい前だったから。残る一人は半年前に入ったシエラちゃん。愛称じゃないよ。お母さんがフィリピン人で、香芝シエラっていうの。未経験者だけれど筋がよくて、いい探偵になりそう。この子は、ユーリーと同い年かな。
みんなご機嫌で楽しかった。フッシーがマイクを握るふりをしながら「ああ、このままカラオケに雪崩れ込みたいなぁ!」って叫びだすぐらい。ほんと、カラオケなんていつになったら行けるんだろう。
タカヴィッチは、最初から速いピッチで飲んでた。奥さんが三歳のお子さんを連れて実家に戻っているから、「せいぜい家の中で羽を伸ばすぞ」とか言って。奥さんが里帰りをしているのは、脚に怪我をしたお母さんの世話とお子さんの〈コロナ疎開〉を兼ねてのことなんですって。
シエラちゃんも意外と酒好きだった。パスタを食べながらワインをぐいぐい。いかにもおいしそうに飲むのが可愛かった。
タカヴィッチだけは「部屋が散らかってるんでね」と、SF映画の宇宙基地みたいな壁紙を使っていたけれど──和室で座椅子に座っていたらしい──、他の三人の背景はありのままの自宅。フッシーは「これが、おれという男です」と棚の美少女フィギュアを隠さないし、シエラちゃんの部屋はオリエンタルな装飾で統一されていてセンスがよかった。プライベートな空間を見せ合うと親密さが増すね。あ、ユーリーに皮肉を言ったつもりはないよ。壁紙だってネタになるから。
会社の愚痴だとか誰かの蔭口だとかは出なくて、みんなうまく話題を選んでた。好きな食べ物の話とかね。あれは罪がなくていいよ。料理や食べ歩きの参考になる情報が得られるし、好みの話にすぎないから話がどっちに転んでも誰も傷つけない。わたし、前からそう思っているんだ。
なんてことを言ったら、タカヴィッチが「誰も傷つけない話が他にもある」と言うんで、何なのか訊いたら「怪談だよ」。
そうかもね。お化けが出てきて怖かったとか、不思議なものを見たけれどあれは何だったのかとか、人畜無害とも言える。ま、中には人を不愉快にさせる怪談もあるかもしれないけれど。
「怖い話はやめましょう。今晩、寝られなくなります」とシエラちゃんが言ったら、タカヴィッチは「子供みたいだね」と笑う。でも、シエラちゃんは本気で言ったわけでもなくて、むしろ面白がっていたのが判った。フッシーが「高道さん、何か怖い話を知っているんですか?」と言ったので、短いのを披露してくれたわ。「あまり怖くないかもしれないけれど」と断わってから。
五年ほど前。まだお子さんがいなかった頃の話なんだって。お彼岸過ぎの気持ちが晴れ晴れするような秋の日に、奥さんと高尾山方面に出掛けて、麓の町をぶらぶら散策していた時のこと。小ぢんまりとした墓地のそばを無言で通り過ぎてから、奥さんが眉を顰めて「お墓で何を騒いでいたのかしらね」と不愉快そうに言う。わけが判らず「何のこと?」と尋ねたら、「さっきの墓地で大勢の声がしていたじゃない。酒盛りでもするみたいに、わあわあと。なんて非常識なのかしら。聞こえていたでしょう?」。タカヴィッチは、びっくりした。静かで心が落ち着く、と思っていたから。そう言ったら、「噓っ! あれが聞こえなかったはずがない」「鳥が啼いているだけで静かなものだった。ふざけているのか?」って口論になっちゃったそうよ。
「それだけのこと。別に恐ろしくはなかっただろう? 妻があんまり強く言い張るので、ぼくは頭から冷たい水を浴びたように、ぞーっとしたけれどね」と淡々と話す語り口がリアリティを感じさせて、ちょっと怖かった。
そこから怪談話で盛り上がったかというと、そうじゃない。タカヴィッチの期待に反して他の三人に怖い話の持ちネタがなかったから。
怪談に話題を引き寄せられなくて、彼、がっかりしたわけでもないだろうけど、そのうち首が前に折れて、居眠りを始めたの。ほら、ユーリーも知っているでしょう。タカヴィッチって、日本酒をぐいぐい飲んでいるうちに、すーっと寝てしまう癖があるのを。
呼びかけても目を開けない。オンライン飲み会だから、肩を揺すって起こすことも毛布を掛けてあげることもできない。あー、寝ちゃったね、そのうち目を覚ますだろう、って三人でおしゃべりを続けた。旅先での失敗談やら、話がぐるっと回って新型コロナへの不安やらを、だらだらと。フッシーが派手なくしゃみをして、「失礼。オンラインじゃなかったら唾の飛沫が飛んで、みんなの顰蹙を買いまくっただろうね」とかやってた。
そうしたらさ。
そうしたら──。
ウイルスとは何か、みたいなことを今さらのようにフッシーが解説して、説明がまずいところをシエラちゃんが鋭く突っ込むという掛け合いを聞いているうちに、おかしなものに目が留まったの。
フッシーは青っぽい布張りのソファに座っていたんだけど、その背もたれに人間の指みたいなものが視えた。ソファの後ろに誰かしゃがんでいて、背もたれに指を掛けているようだった。
いつからあったのか? 知らない。話に夢中になっていたら、背景にちょろっと入り込んだものなんて気がつかないじゃない。指の先だけが背もたれに掛かっているんだし。
何かと見間違えているのかと思って目を凝らすと、微かに動いていた。虫みたいに蠢くの。もぞもぞと。
「若生さん、どうかしましたか?」
シエラちゃんに訊かれた。わたしの様子が見るからに変だったのね。フッシーの背後におかしなものが映っていることを言おうとしたら、なくなっていた。
目の錯覚だったのかな、と思ったわ。人間の指先にしては妙に小さかったしね。でも、指でなければ何だったんだろう、と怪訝に思っていたら、フッシーが「いいかな?」とウイルスについての話を再開する。
そうしたらね──。
指みたいなものが、また視えたの。ううん、みたいなものじゃなくて、確かに指。
さっきはフッシーに向かって左側に現われたけれど今度は右側で、第一関節が曲がって爪があるのも判った。小さくて、子供の指に視えた。
「フッシー、後ろに誰かいる?」
わたしは、彼の話を遮って尋ねた。ぽかんとされたわ。
(つづく)
ここから読んでも楽しめるシリーズ最新刊! 過去最大のピンチで謎解きをする『濱地健三郎の呪える事件簿』、ぜひお手に取ってみてください!
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作品紹介

濱地健三郎の呪える事件簿
著者 :有栖川有栖
発売日:2022年09月30日
江神二郎、火村英生に続く、異才の探偵。大人気心霊探偵シリーズ最新刊!
探偵・濱地健三郎には鋭い推理力だけでなく、幽霊を視る能力がある。彼の事務所には、奇妙な現象に悩む依頼人のみならず、警視庁捜査一課の刑事も秘かに足を運ぶほどだ。リモート飲み会で現れた、他の人には視えない「小さな手」の正体。廃屋で手招きする「頭と手首のない霊」に隠された真実。歴史家志望の美男子を襲った心霊は、古い邸宅のどこに巣食っていたのか。濱地と助手のコンビが、6つの驚くべき謎を解き明かしていく――。
カドブン編集部