
【前回の記事を読む】恐怖!何気なく参加した宗教合宿。仲間の精神が崩壊していき…
森有正――星と月と悲しみ
出会いは喜びだけど、怖さも伴う。
私の内部にそっと隠れていた裡なる影の部分がうごめいたような怖さを感じた。でも言葉の魔力にはかなわない。言葉が胸の奥で鳴り響いている。「人間とは悲しみなのだ」と。
それは偽りのない本当のことのように思われ、引き込まれている私がいる。
いや、そんなことではない。もうとりこになっていた。
その中の一つは、ライナー・マリア・リルケの存在が大きい気がした。
「人々は生きるためにこの都会へあつまってくるらしい。しかし、僕はむしろ、ここでみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」で始まる『マルテの手記』は、ドイツ文学者大山定一先生の訳である。いいようのないマルテの深い悲しみと森有正が重なった。
それにしても若き日、私はリルケの何に惹かれたのだろう。何も知り得ていなかった。そして今も。ただ寄りかかった樹木の内部からわずかに伝わる流れに心を奪われた流転の詩人の深い悲哀が感じられる詩集を読み、「何もわからなくていいんだよ。でも読んでごらん。いつか少しわかる時がくるかもしれないよ」といった声が聞えたような気がして、導かれるように全集を購入したのだった。
初秋の深夜は、厚着をして出たのに、寒くて体がガタガタと震えていた。
その時、はっと思った。急いで家に戻り、リルケの詩集を手にして、「鎮魂歌(レクイエム)」を読んだ。そして見つけた。
「ヴォルフ・フォン・カルクロイド伯爵のために」の中の五行を。
悲しみの流れに溶かされ心を奮われて、なかば無意識のまま遥かな星々をめぐる運動のなかにあの喜びを見いだすがいい あなたがこの地上からとりはらって自分の夢想していた死のなかに置きかえた喜びを。
深夜の空を眺めていると、「鎮魂歌」の五行から漂う一滴が、何だか体に溶け込んだ気がした。
その日長い時間、神秘な空の星々と、私の中に居場所を占めた、「人間とは悲しみなのだ」「悲しみの流れに溶かされ」の言葉を繰り返しながら、白い雲を通って現れる月の光と青の移行を眺め続けた。
当時の私は、鬱病が完治したばかりだった。
膠原病は一生治らないとしても、精神的病からの回復。特に神秘体験は特殊であり、プルースト的禅的体験。「永遠の今」の感覚。小鳥の鳴き声に救われた日々。ある意味、特殊な経験をした人間であり、なぜあのような経験が起ったのか不思議であった。
そんな矢先だった。森有正に出会ったのは。
早速、『森有正エッセー集成』五巻を購入した。『バビロンの流れのほとりにて』は、冒頭から私の心を鷲掴みにした。
「一つの生涯というものは、その過程を営む、生命の稚い日に、すでに、その本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか。僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信ぜざるをえない。(中略)そして人はその人自身の死を死ぬことができるだろう。またその時、人は死を恐れない」
「人間が虚しく、あるいは無心になって、それを透き通して自然が見えるようになる時、僕が感じる一つの感情DESOLATIOM(悲しみ)とCONSOLATION(慰め)とが一つのものとして感じられるあの感情、あるいは感覚、と言ったほうが適当なのかもしれないが、そういう感情のことで、それがあたり前のことであるだけに、実に貴いものに思われるのだ。そしてこの感覚は哲学とか宗教とか大袈裟なことである前に、人間の日常の一つ一つの態度の中に出てくるのだ」
心にじんわりと何かが入り込んだ気がした。
最も大切なことは日常であり、理念や知識ではないのだろう。飾らずに実人生を生きること。
知識は誇ったり、所有するものでないことを、私はエーリッヒ・フロムから学んだ。「孤独は孤独であるがゆえに貴いのではなく、運命によってそれが与えられた時に貴いのだ」この文章に出会った時、私はほとんど泣き出しそうになっていた。
その日一日中、この言葉から響いてくるもの、この人の宿命的なもの。ひどく悲しくてとても豊かなものにとらわれて、消え去ることはなかった。
そしてさすがリルケの『マルテの手記』を九年もかけて読んだ人だけが持つ、豊かな時間の流れを感じた。それにしても、あんな悲惨な手記を、九年もかけて読まなければいけなかった人を、哀れに思ったりもした。
そこにどんな悲しみに満ちた、苦闘の時間が存在したのだろうか。
森木 れい