
「誰もが内心で疑問に思っていながら、誰も表立って口に出すことをためらっている」と説いた故・小田嶋隆さんが斬り込んだ学歴論から日本社会の構造が見えてくる(写真:jessie/PIXTA)
日本を支配する階級制度、学歴の謎を解く!
2022年6月に他界したコラムニストの小田嶋隆氏が、自ら代表作と明言していた小田嶋隆クラシックス3部作、第1弾『小田嶋隆の学歴論』から一部抜粋、再構成してお届けします。
<※本書は2000年にメディアワークス(現KADOKAWA)から刊行され、2005年に光文社知恵の森文庫として刊行された『人はなぜ学歴にこだわるのか。』を底本としています>
小田嶋隆が自ら語る学歴の話
学歴という微妙な問題に触れる以上、自分のプライバシーを語らないのは卑怯だと思う。
でなくても、私は、個人的な事情を度外視したところで語られる学歴論にはあまり意味がないと考えている。
一般論で語っている限り、学歴は、決して正体を現さない。
というのは、ひとつひとつの学歴には、その学歴に属する人間一人一人の思いと経験がこもっており、そして、それらのひとつひとつの学歴への思いや経験は、その学歴の持ち主にとって、のっぴきならない、どうにも客体化できない個人史であるからだ。
そういうふうに、ごく個人的な事情(たとえて言うなら、寝室の趣味みたいな公表をはばかる性質のもの)を背景に抱えていながら、同時に公的な情報として世間に流通しているところに、学歴のやっかいさがある。
逆に言うなら、学歴は、一方においてパブリックな肩書きとして機能していながら、その裏に、とても公明正大とは言えない、ドロドロしたプライバシーを内包しているものなのだ。
ということで、あえて禁を犯して、個人的な話をする。
三年前に死んだ私の父親は、自慢話が嫌いだった。
この傾向は、父の個人的な性癖というよりは、彼が育った東京の下町に特有な風土のようなもの、ないしは、大正生まれの世代的な特徴であったかもしれない。
ともかく、父は自慢話を好まなかった。自分が自慢をしないことはもちろん、他人の自慢話も嫌う。時には、聞こえないふりをしたものだった。
であるから、父が身内の話をする際には、過剰と思えるほどに露悪的な表現が飛び出す。たとえば、私は「箸にも棒にもかからないグズの怠け者」だし、兄は「頑固で話にならない総領の甚六」ということになる。母親はたった一言「お調子者」であり、妹にだけはちょっと甘いが、それでも「何を考えているのかわからない娘」という程度の者には成り下がる。
父自身はどうかって?
もちろん、「しがない中卒の職人」である。
「高等小学校卒ってヤツですよ。アタシは」
イヤな言い方だと、私は、子供の頃から、ずっとそう思っていた。
そんなふうに自分で卑下してみせるような学歴なら、いちいち会う人会う人に強調しなくても良さそうなものじゃないか。
そんな父が、一度だけ、かなり自慢たらしい話をしたことがある。
で、それが私の学歴だというわけだ。
イヤな話だ。
父は、その時、酔っ払って誰かに電話をしていた。
「いやあ、下の息子が、ワセダになんか入りやがって」
と父は言った。
私は、穴があったら入りたかった。その、不器用な話題の切り出し方もさることながら、だらしなく上ずった声のトーンがたまらなかった。普段、自慢をしない人が自慢をすると、こういうことになる。さりげなく自慢をするということができないのだ。
聞かされた相手はどう思っただろう。
「いやあ、あの野郎、いつの間に勉強してやがったんだか」
と父がこたえていたところをみると、先方は、通り一遍のお世辞(そりゃあ、すごいや。ワセダっていえば難関じゃないか、とかなんとか)を返してくれていたのであろうが、内心では、臆面もない自慢話に辟易(へきえき)していたかもしれない。
父は黙っていられなかった
私は、辟易していた。
そんなこと、こっちから言うことじゃないだろ? 黙ってればいいじゃないか。
しかし、父は黙っていられなかったのだ。
まったく。
私にはわかっていた。父は、くやしかったのだ。父は、長い間、自分が高等小学校卒であることについて、いつもいつも、釈然としない思いを抱いてきたに違いないのだ。
父が子供だった時代、学歴は、何より、その家の経済事情に依存していた。
貧しい筆職人の家に生まれ、幼くして母親を亡くした次男坊である父にとって、高校はもとより、大学に進むことなど、はなっから望むべくもない別世界の出来事だった。
であるから、自分よりデキの悪い同級生が、高校や大学に進むのを横目で見ながら、15歳で小僧に出された時以来、父の中で、学歴に対する気持ちは、どこかしら鬱屈(うっくつ)を含んだものになっていったのだと思う。
だからこそ、息子が一流大学に合格した時には、五十年の禁を破って、自慢たらたらの電話をかけずにはおれなかったのだ。
……ここまでで終われば、あるいは、これは「いい話」ということになるかもしれない。事情はどうあれ父は喜んだわけなのだし、私は私で親孝行をしたことにはなるわけなのだから。事実、私は、自慢話をする父の様子を見ながら、肩の荷が降りたような感じを抱いていた。
問題は、この、肩の荷だ。
これが、イヤな話なのだ。
つまり怨念は、相続されるのである。
学歴という、ちょっとした家庭の事情や、国語算数の出来不出来や、あるいは試験当日の体調の良し悪しやら出題傾向の気まぐれで決定してしまうこのちっぽけな履歴が、一人の人間の一生を生涯にわたって支配し、のみならず、その学歴にまつわる怨念が、世代をまたがって息子にまで引き継がれていたりするわけなんだから。
父の怨念は、根の深いものだった。
それは、息子たる私が、引き継がざるを得ない、イヤな圧力で、家の中の空気を息苦しいものにしていた。言葉に出しては言わないものの、父は私に期待していた。大学に行ってほしいと思っていた。
おかしな話だが、私は、父が決して面と向かって「勉強しろ」と言わないところに、なんとも言えない圧力を感じていた。
深読みと言ってしまえばそれまでだが、私は、父が、その無頓着を装った態度の裏で、息を殺して息子の成績を見つめていることを知っていたのだ。
私たち親子は学問とはほど遠い人間であった
わが受験時代。暗い怨念の相克——イヤな話だ。
受験時代は受験時代として、ともかく、ワセダ大学に入るなり、私は、いきなり気落ちしてしまった。父の一生を台無しにし、幼い私にイヤな重苦しさを感じさせつづけていた「最高学府」の、思いのほかの空虚さに、気勢をそがれてしまったのだ。
いや、おそらく、空虚だったのは、大学よりも、むしろ私の方なのだろう。
怨念なんかで勉強したところで、何が生まれるはずもないのだから。
そういう意味では、父も私も、間違っていたのだ。
学問の府であるべき場所に、不純な憧憬や敵意や呪詛(じゅそ)を抱いていた私たち親子は、学問とはほど遠い人間であった。
そのことは認めよう。
学問を志して大学に入った人間は、あるいは自分の求めていたものを手に入れることができたかもしれない。
しかし、いったい大学にやってくる人間の何人が学問なんかをしにやってくるというのだろう。
私は、見たことがない。
いまでも折りに触れて思い出すのは、ワセダに入ってから知り合った、学歴に怨念を持たない人々の得意満面な姿だ。
私は、自分が彼らの仲間だとは到底思えなかった。

私は父の劣等感を相続していたのだろうか。
それとも、彼らの方が、どこからか人を人とも思わぬ気質を相続してきたのか?
いずれにしても、なんということもなく勉強して、何の疑問もなく優秀な成績で大学に入って、自分がエリートであることについていささかの疑念も抱いていない人々と、私は、どうしても打ち解けることができなかった。
この話は、稿を改めて書くことにしよう。
イヤな話になるだろう。
だって、イヤな連中の話なんだから。
(小田嶋 隆:コラムニスト)
小田嶋 隆