
愛媛県松山市にある子規記念博物館(写真:Higashi2017/PIXTA)
俳人・歌人として知られる「正岡子規」は好き嫌いが激しい人でしたが、一時は共同生活をするほど親しく付き合っていたのが「夏目漱石」でした。2人はどういう関係だったのか。東洋経済オンラインで『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』を連載中の真山知幸氏が解説します。
※本稿は真山氏の新著『文豪が愛した文豪』から一部抜粋・再構成したものです。
真面目で成績優秀の夏目漱石とは対照的
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」(正岡子規『病牀六尺』)
不治の病とされた骨の結核「脊椎カリエス」を患った正岡子規。6尺、つまり、約1.8メートル四方の自室すらも広大に感じるほど、身動きするたびに激痛に襲われた。
壮絶な闘病生活を送った子規だが、病に倒れる前には周囲を圧倒するほど、精力的に活動していた。中学時代から漢詩に傾倒しつつ、自由民権運動の演説にも熱中。自らも学校の講堂で演説を行うアクティブさだ。
そんな子規は地元の松山にくすぶってはいられずに、16歳で上京。大学予備門に入学している。大学時代に出会ったのが、生涯の友となる夏目漱石である。2人とも落語が好きで意気投合するが、マジメで成績優秀だった漱石と子規では、ずいぶんとタイプが違った。漱石がこうあきれている。
正岡という男は一向学校へ出なかった男だ。それからノートを借りて写すような手数をする男でも無かった。そこで試験前になると僕に来て呉(く)れという。僕が行ってノートを大略話してやる。彼奴(あいつ)の事だからええ加減に聞いて、ろくに分っていない癖に、よしよし分ったなどと言って生呑込(なまのみこみ)にしてしまう(夏目漱石『正岡子規』)
またあるときは、突然手紙が来たかと思えば「大宮の公園の中の万松庵に居るからすぐ来い」という。
行ってみれば、奇麗な店で子規は奥座敷に座っていたという。ウズラを焼いたものなどを食しながら、漱石は子規のことを「金持ちなのだろう」と誤解したが、実際は単に金遣いが荒いだけだった。
豪快な子規は、漱石いわく人間関係においても「非常に好き嫌いのあった人」だったが、漱石とは妙に気が合ったらしい。
子規は漱石が抜群の英語力だけではなく、漢文の素養もあることに感心し「我が兄のごとき者は千万人に一人なり」と舌を巻いている。一方の漱石も、ただ子規の見識の広さに一目を置いた。
彼は僕などより早熟で、いやに哲学などを振り廻すものだから、僕などは恐れを為していた。僕はそういう方に少しも発達せず、まるでわからん処へ持って来て、彼はハルトマンの哲学書か何かを持ち込み、大分振り廻していた(夏目漱石『正岡子規』)
こやつ、なかなかやるな――。青春時代に人生が交差した2人は、互いに自分にはないものを認めてリスペクトしたのである。
期せずにして訪れた再会
子規が21歳で喀血(かっけつ)すると、心配した漱石が友人とともに駆けつけている。子規は喀血した夜に、一晩に50句も創作した。相変わらず無茶をする子規に、漱石としても気が気でなかったことだろう。
結核を発病後、子規は帝国大学文科大学国文科を中退し、新聞記者になる。子規の将来を案じた漱石は「まずは大学を卒業したほうがよい」と助言したが、言うことを聞く相手ではない。
一方の漱石は無事に大学を卒業。英語教師になっている。2人は別々の人生を歩み始めた……かに見えたが、思わぬ場所で再会を果たす。
漱石は子規の故郷である愛媛県松山市の中学に赴任する。一方の子規はと言えば、従軍記者として戦地である清に向かうが、途中で喀血。神戸の病院に入院することになった。それを知った漱石は子規に「保養がてら帰郷しないか」と手紙で勧めている。同情していると思われないためだろう。漱石は「俳句も教えてもらいたい」と書き添えている。
病院を退院した子規は、漱石のもとに身を寄せることになり、友情物語が再び幕を開けた。
2人の共同生活は、1895(明治28)年の8月27日からスタートし、療養した子規が東京に戻る10月17日までの52日間にもおよんだ。漱石としても慣れない土地で、友人と暮らせたのはうれしかったに違いない。
子規が松山に来たときのことを、漱石はこんなふうに書いている。
なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところに遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親類のうちへも行かず、此処に居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る(夏目漱石『正岡子規』)
これでは、まるで子規がいきなり漱石のもとへ押しかけたようだが、前述した経緯を踏まえれば、事実ではない。だが、そこには漱石がひかれた「子規らしさ」が込められているように思う。
高浜虚子が聞いた夏目漱石の愚痴
この同居時代について、2人を知る高浜虚子(たかはまきょし)は、漱石からこんな子規への愚痴を何度も耳にしたという。
子規という奴は乱暴な奴だ。僕ところに居る間毎日何を食うかというと鰻(うなぎ)を食おうという。それで殆んど毎日のように鰻を食ったのであるが、帰る時になって、万事頼むよ、とか何とか言った切りで発(た)ってしまった。その鰻代も僕に払わせて知らん顔をしていた(高浜虚子『漱石氏と私』)
もしかしたら、この逸話も漱石の誇張が多少は含まれているのかもしれない。「参ったよ」と言いながら、子規の無礼をどこかうれしそうに語る漱石の顔が思い浮かぶようだ。
学生時代から仲のいい2人。その関係性を示すユニークな手紙のやりとりを紹介したい。
1889(明治22)年、子規が自らを「妾」、漱石を「郎君」と呼び、手紙を出しているのだ。「妾」とは、女性が自分をへりくだって使うときの一人称のことで、「郎君」は、妻や情婦が夫や情夫のことを指していう語だ。子規はすっかり女性になりきって、漱石のことを「おまえさま」「あなた」と呼んで、漱石にじゃれているのだ。
そんな子規にあきれながらも、漱石もノリノリで応じている。『木屑録(ぼくせつろく)』という漢文の紀行集のなかに子規の手紙への返事がつづられており、現代語訳すると次のようになる。
無駄に年を重ねて二十三 はじめて美人に「あなた」と呼ばれた
まるで思い人同士のやりとりだ。そんな2人がともに暮らしたのだから、楽しくないわけがなかったのである。
いよいよ松山を去るときに、漱石は「御立(おた)ちやる可(か) 御立ちやれ 新酒菊(しんしゅきく)の花(はな)」と送別の句を送っている。それに対して子規は「行く我に とどまる汝に 秋二つ」と詠んだ。
「それぞれの秋を送るだろう」
重い病状を自覚して、永遠の別れを覚悟していたのだろう。子規の句は的中することになる。
病床で創作活動を続けた子規
漱石はその後、熊本での赴任を経てイギリスへ。子規は東京根岸の「六尺の病床」で、闘病生活を送る。

それでも子規の意欲は衰えることがない。俳句、短歌の革新運動を行うべく、病床で創作活動を続けた。
しかし、子規の病状は悪化の一途を辿る。背中や臀部に穴があいて、膿が流れ出るなかで、激痛に悶え苦しんだ。ロンドンにいる漱石に手紙を出して「僕ハモーダメニナッテシマッタ」と悩みを吐露したこともあった。そして1902(明治35)年、漱石の帰国を待つことなく、子規は34歳の生涯を閉じている。
漱石は子規のことを「二人で道を歩いていてもきっと自分の思う通りに僕をひっぱり廻したものだ」(夏目漱石『正岡子規』)とも書いた。おそらく漱石は叶わないとわかっていながらも、願っていたのだろう。子規には、いつも自分を引きずりまわす存在であってほしい、と。
(真山 知幸:著述家)
真山 知幸