元長崎エース有光亮太、記録以上に記憶に残る男【独占インタビュー】

元長崎エース有光亮太、記録以上に記憶に残る男【独占インタビュー】

  • Football Tribe Japan
  • 更新日:2021/11/25
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有光亮太氏

2003年に当時J2のアビスパ福岡でJリーガーとなった有光亮太。2004年には福岡を柏レイソルとのJ1・J2入れ替え戦進出に導く。その後、当時九州リーグに所属していたV・ファーレン長崎でプレー。エースストライカーとして活躍した。間違いなく長崎Jリーグ参入の立役者の1人だ。

現在は長崎県佐世保市で指導者として後進の育成に尽力している有光氏に、プレーヤー時代から現在までのサッカー人生について話を伺った。

強豪校で腕を磨き単身イタリアへ

ーまず、サッカーを始めたきっかけは何だったのでしょうか?

「当時は野球のほうが流行っていたので野球をやりたかったんですが、理由は分からないんですけれど父親にダメと言われて。少し経って、サッカーチームの監督さんが熱心に誘ってくれたのでサッカーをやりたいと言ったところOKが出て、小学3年生に上がる頃にサッカーを始めました」

高校は東海大学第五高等学校(略称は東海大五)を選択。全国高校サッカー選手権への出場は叶わなかったが、現在は東海大学付属福岡高等学校と名前を変えた福岡県の強豪校で自分を磨いた有光。卒業後は単身イタリアへ渡った。

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ロベルト・バッジョ 写真提供:Gettyimages

ーイタリアへと向かった経緯を教えてください。

「当時ACミラン(イタリア)から、元選手で指導者をやられていたリカルド・トゥミアッティという方が東海大五のコーチとして1年間来ていたんです。その関係で高校3年生になる前の春休みに、イタリアのミランとブレシアとキエーヴォ・ヴェローナのプリマヴェーラ(U-19の下部組織)のトレーニングに参加をし、その時に卒業したら海外に行こうと決めていました。ヴィッセル神戸さんだとかからオファーはいただいたんですけれど、日本でそのままプロになるよりも海外でチャレンジしたいという気持ちが強かったのでお断りをして。

それで、ちょうどロベルト・バッジョが加入した2000年に、ブレシアの入団テストを受けにイタリアに渡りました。テストの1週間前にイタリアに着き、その1週間セミプロのチームの練習に参加させてもらって、その時に試合にも出させてもらったんです。

そうしたらそこの会長さんに気に入られてぜひ入団してくれという事だったので、元々の目的のブレシアの入団テストも受けず、セリエDのレアルチェザーテに入団したという形です。そこで1シーズンを過ごしました。プロクラブではなく仕事しながらじゃないと労働ビザが出ないので、トラックの運転手をやりながらサッカーをしていて。翌年もイタリアかなと思っていたんですけれど、レアルチェザーテ自体が隣町のクラブと合併してなくなることになり、日本に帰ってきました」

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アビスパ福岡のゴール裏 写真提供:Gettyimages

アビスパ福岡で初のJリーグの舞台に

ーそこからアビスパ福岡に入団するまで、2年弱空白の期間がありますが…。

「帰ってきたのが2001年の5月位だったんですけれど、日本は1月ぐらいからシーズンが始まるじゃないですか。シーズンの時期が違うので帰国後すぐの途中加入が難しくて、夏の入団を目指して京都サンガさんとかヴィッセル神戸さんとかいくつかJ1のクラブのテストを受けたんですけれどダメで。その時期、確か今井雅隆さんが監督の時にアビスパ福岡のテストも受けたんですけれどダメでした。そのままどこにも入れず、翌年になると再びJリーグのシーズンが始まって。

当時ニューウェーブ北九州(ギラヴァンツ北九州の旧名)が九州リーグにいて声を掛けていただいたんですけれど、どうしてもプロでやりたかったのでお断りをしていて。母校の東海大五で練習しながら1年間過ごしたんですけれど、モチベーションの維持が難しくなってきてしまいました。それでサッカーをやめようかなと思い、東海大五の恩師でもある平清孝先生のところに行って就職先を紹介してくださいと言ったんです。

平先生からは、最後にもう1回アビスパのテストを受けてみろと言われて。2002年のシーズンが終わってちょうど松田浩監督に変わる時に受けました。すると当時の管理強化部長である中村重和さんに、3ヶ月の練習生だったらいいよと言ってもらえて。練習生として入団させてもらったというのがスタートです」

ー初のJリーグの舞台はどうでしたか?

「最初は苦労しました。要は本格的なサッカーから2年位離れていたので、コンディション作りや身体作りという体力を戻すところから始まって、1年目は試合に絡めませんでした。それでも契約更新をしてもらい、2年目の2004年から身体もコンディションもフィットし、松田監督のサッカーも理解したタイミングで天皇杯位から使ってもらえるようになりました。ピッチの外から見ている分には絶対やれるという気持ちはずっとあったんですけれどね」

アビスパはこのシーズン、最後の8試合で8連勝。最終的に昇格は逃したもののJ2で3位に入り、J1柏との入れ替え戦まで持ち込んだ。その中心にいたのは間違いなく、8連勝中に5得点を決めた有光だった。翌2005シーズンも28試合出場5得点でチームのJ1昇格に貢献。2006シーズンには初のJ1で11試合に出場した。ただこのシーズンでアビスパを退団となり、次に有光が選んだ所属先は九州リーグに所属していたV・ファーレン長崎だった。

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V・ファーレン長崎のゴール裏 写真提供:Gettyimages

V・ファーレン長崎のエースとして

ー2007シーズンから、V・ファーレン長崎に移籍した経緯を教えてください。

「他のJ2のチームだとかからもオファーをいただいたんですけれど、九州から離れた場所で。母が病気だったので、お断りさせてもらいました。九州内のクラブで探していたところ、Jリーグを目指していたV・ファーレン長崎があって。当時アビスパから福島洋、立石飛鳥、大塚和征だったりとか仲の良い選手がたくさん行っていたので、チームの状況もわかっていました。原田武男さんもいましたし。誘ってもらった時にビジョンを聞くと、九州リーグからJリーグ入りを目指すということでした。そこで、ここでもう一回再起を図って頑張ろうかなという気持ちで、V・ファーレン長崎入りを決めました」

有光は九州リーグで得点を量産。2年目、2008年にJFL昇格に導くと、JFLでもエースとして活躍。2011年にはJFLのベスト11にも選出されている。だが、その裏では難しい日々を過ごしてもいたようだ。

「長崎での2年目ぐらいまではまだライセンス制度があまり整っていなくて、Jリーグに入るためには将来スタジアムを改装すればいいよという感じで。JFLで優勝すればJリーグにいけるという話だったからモチベーションが高かったですね。ただそこから厳しくなり、様変わりした感じがします。クオリティーの高い選手が集まってくるんですけれど、スタジアムがJリーグの条件を満たしていなかったのでJFLで優勝してもJリーグに参入できない。いつになったら条件を満たせるのかという状況で、長崎で行われた第69回国民体育大会と2013シーズンに合わせてようやく改修されました。要は自分たちの力じゃどうしようもないところだったので、そこまでの3年間はその日を目指して日々頑張っていたみたいな感じでした」

2012年、条件付きながらついにV・ファーレン長崎J2ライセンスが交付され、チームがJFLで優勝したことで2013シーズンからのJ2参入が決定。迎えたJリーグ1年目のシーズン、有光は3試合に出場し、そのシーズン限りでの引退を発表した。

「2013年に古巣のアビスパと博多の森(現在の呼称はベスト電器スタジアム)で対戦させてもらった時に、長崎をこういう舞台まで連れて来れたという満足感があり、自分の中で糸が切れた感じでした。若い頃は自分のステップアップに焦点が当たっていたんですけれど、Jリーグに上がれなかった時期が長かった間に自分のステップアップよりもとにかくこのチームをJリーグに上げるというモチベーションにシフトしていて。だからJリーグに上がって1年過ごさせてもらった時に、もう来年はいいかなと思ったんです」

有光は引退後、長崎県佐世保市にクラブチーム「CA CELESTE(セレスト)」を創設。後進の指導を始めた。

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写真提供:有光亮太氏

後進の指導で重視すること

ー有光さんは福岡の出身ですが、長崎にゆかりがあるんですか?

「ないです(笑)V・ファーレンにいたというだけで、佐世保も別にゆかりがあるわけじゃなくて。ただ、スタジアムが国体のために改修される1年間、JFLの試合を佐世保のグラウンドで戦っていたので佐世保に来ることがあって。米軍基地があることですごく特殊な雰囲気がある街で、県北らしいカラーのチームを作るにはいいんじゃないかと思っていて。ハーフだとかの子が多くて、うちのクラブにも何人かいるんですけれど、フィジカル的にもポテンシャルが高いですし。佐世保からは今まで1人もJリーガ―が出たことがなくて、初のそういう選手を育成していきたいというのもありました。住んでみて思ったんですけれど、佐賀にも福岡にも行きやすい地域なのでそこも良かったかなと思います」

ー指導者の道へ進まれましたが、元々指導者をしたいと考えていたのでしょうか?

「現役の時にB級ライセンスまで取っていました。引退した後、次のチャレンジをという時に持っている物を見直したら指導者のライセンスがあり、なおかつ将来Jリーグクラブで指揮をするとかいう夢もありませんでした。Jリーグのクラブという組織に入って自分の思ったようにはやれないよりも、自分の力でやれるところまでやろうというところでセレストを創設して指導者になりました」

セレストは2019年、全労済カップ九州少年県大会で初の県大会優勝。その後も素晴らしい戦績を残している。

ーセレストで指導するうえで重視していることはどういったことでしょうか?

「サッカーっていろんなスタイルがあると思うんですが、どこにいてもどんな場所でも使われる選手。どんな環境にも対応できる選手の育成、ということには重きを置いています。サッカーをするうえではこうじゃないといけない、こういうサッカーじゃないと俺はやらないよとか、こういう監督とは合わないとか、言ってられません。

でも育成の現場では、うちはこういうスタイルだからとか言う指導者は結構多くて。それに感化され、そういう場所じゃないと活躍できなかったり他のサッカーを否定したりするような選手は育てたくありません。将来、サッカーで全員がプロになれるわけじゃないので、どんな環境に身を置いても自分の力を発揮していけるベースというのを、サッカーを通じて培ってもらえたらいいなと思って指導しています。

サッカーには流行がありますが、それがどんな風にくるかは誰も読めないと思うんです。ですので、必要なスキルや基礎技術を高いレベルで習得させるという所と、どこに行っても輝けるメンタルの部分を育てて行けたらなと思います」

ーセレストの目標を教えてください。

「新たに社会人のトップチームを作ったんです。県北からJリーグをというのを掲げているので、クラブ自体の目標としてはJリーグ参入です。先にトップチームがあってそこにユースやジュニアユースという下部組織を付けてきたクラブじゃないので、育成年代からチームに入って最終的に育った街でプレーしてほしいという気持ちがあります。

それにプロクラブがあると、街にもっとに賑わいが生まれ、子供たちの目標にもなります。ですので今の1番の目標はJリーグに、少しでも上のカテゴリーにトップチームを持っていくという事で、それに加えてどこでも対応できるような選手の育成です」

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写真提供:有光亮太氏

高校サッカー部監督としても

他方で有光は、新たに佐世保市にある九州文化学園高等学校サッカー部の監督に、令和元年の創部と同時に就任。同じ法人の、長崎国際大学サッカー部のヘッドコーチをも務めている。

ー高校のサッカー部の監督をしようと思われた経緯を教えてください。

「単純にジュニアユース(中学生年代)まではチームを持っていて、一方で九州学園さんには高校・大学という組織があるので、選手たちを一貫して育てられる環境を作りたかったというのが1番です。プロクラブは高校生年代までのユースチームを自前で持たなきゃいけないという決まりがあります。でもやっぱり学校側との協力も絶対に必要だし、クラブチームと部活と2つの選択肢がある中で学校と良好な関係を築けているというのはすごくプラスだと思います。

高校を卒業してすぐプロの世界に入っていける選手というのはなかなかいないので、高校・大学という年代の育成を自分たちのクラブが関わりながらやっていけるということも魅力的です。僕らがそこに関わることで安心してジュニアの時からお子さんを任せていただける環境も作れますし。

来年からは大学のサッカー部のほうも強化指定部になり、人工芝の一面のグランドが作られる予定なので環境面でもかなり改善されます。業務委託と言う形で高校・大学のサッカー部を全部任せてもらえているので、そういう環境を作ることでセカンドキャリアの場所を生み出すというのも1つのテーマです。

セカンドキャリアを構築していくという部分では僕以外にも、山内祐一というV・ファーレンで一緒だった元選手と、矢野大輔というロアッソ熊本等でプレーした元選手もいます。プロでやっていた選手がもっと育成の現場に入って来やすくなる、佐世保に帰って来やすくなるという環境作りもそうですし、最初から指導者を目指している選手もいるので、そういう選手が仕事として関わりやすくなるような環境作りにもすごく役立つと考えています」

ー最後に、プロと指導者の両方を経験された有光さんから、プロサッカー選手を目指す方にアドバイスをお願いします。

「方法や手段というのはいろいろあるのでそっちのほうに目を向けずに、最初はプロになるんだということをしっかり芯に置いて決めるということ。プロになると決めた自分を最後まで信じるということと、あとは最後まで信じられる位のことをやり続けるというだけかなと。いろんな情報が多い時代でこうなったらとかああなったらとかいう話はたくさんあると思うんですけれど、そういうのに振り回されずに最終的にそこに辿り着くんだと決めること。

結局方法なんてどこを辿ろうが、プロになることができればいいわけです。だから夢にたどり着くためには、自分の中で絶対プロになると決めることと決めた自分を信じるということ。自分を信じてやるべきことを日々積み重ねていくこと。そして最終的には一生懸命やるだけだと思います」

有光亮太プロフィール

有光亮太(ありみつ・りょうた)1981年4月21日生まれ(40歳)。福岡県飯塚市出身。高校卒業後イタリアに渡り、1年間プレーしたのち帰国。テスト生を経て2003年にアビスパ福岡に入団すると、2004年には最終盤の8連勝、2005年にはJ1昇格に貢献した。2007年、九州リーグ所属のV・ファーレン長崎に入団。エースとしてJFL昇格、J2昇格に大きく関わった。2013年にJ2でプレーしたのち、現役を引退。現在は長崎県佐世保市でCA CELESTE(セレスト)の代表、九州文化学園高等学校サッカー部監督、長崎国際大学サッカー部のヘッドコーチを務めている。

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