SNSで「うまく自己アピールできない自分」には、なにが欠けているのか?

SNSで「うまく自己アピールできない自分」には、なにが欠けているのか?

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/09/16
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「やりたくないこと」をやるのが苦手

高木です。前回、SNSとの距離感が掴めなくて宣伝がヘタクソなことを反省しました。その後、何でイマイチ馴染めないのか、よくよく考えると心当たりがあることに気づきました。

いわゆる集団が苦手な私は、人生の多くで「所属」を強く意識することなく今に至っています。学生時代は、いつもの仲間なんてほとんどいなくて、「クラスの全員と友達!」なコミュ力の高い人と話す程度でした。習い事もまったくしてこなかったし、部活も長続きしたためしがありません。

部活とか委員会とかのシステムも大嫌いで、「やりたいものを選べ」と言われてもやりたいことなんて一つもないからどれも選べません。でもどこかに必ず所属しないといけないので、判断基準は「余ったもの」か「ラクそうなもの」でした。

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体育は更に大嫌いで、「今日は好きな者同士でチームを組んでバスケしなさい」なんて言われた日には最悪です。私が入るのは、自分と同じような余り物の寄せ集めチーム。余り物だから会話はなく、寄せ集めだからチームワークは皆無でした。そういうときは心の中で「教師のくせに生徒に選択の幅を持たせるんじゃないよ!」と憤っていたものです。

友達もろくにいないので「○○くんと一緒ならどこでもいいや」というのもありませんでした。好き好んで選んだ場所じゃないので、当然そこに所属している意識もなく、「仕方ないからここにいるだけだ」といつもふてくされていました。

やりたいことは全然なくて、やりたくないことはほぼ全て。振り返ると、学校自体が「なんかルール上行くことになってるから行く」場所でした。

「やりたくないこと」をしているワケですから、当然、与えられたものの中から選び判断するというモチベーションも湧きません。でも、やらないと怒られる。「怒られること」は「やりたくないこと」なので避けたい。結果、やっているフリをすることが習慣となりました。

「フリ」はやりたくないってほどじゃないけど面倒だし、このままじゃ駄目だと積極性を持とうとした時期もありました。が、中学のあるとき。逆に私の「フリ人生」に拍車をかける出来事があったのです。

どうしたら「普通」になじめるのか?

美術の写生大会でのことです。数少ないクラスの友人が、漫画のカケアミみたいなのをいくつかチャチャッと描いただけのものを「壁」と言い張って提出したのです。「そんな手の抜き方があったのか…!」と目から鱗でした。

そこで私は彼を真似して、画用紙に縦線を二本引いただけのものを「電柱のアップ」と言って提出したのです。しかし「壁」はOKで「電柱」は認められず、描き直しを命じられました。

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そのしばらく後、今度は読書感想文の授業のときでした。「壁の絵」の彼は、先生に返された私の作文を覗いてこう言いました。「え、なんでお前のが良くて俺のが駄目なの? お前の真似したのに」——彼は手抜きだとして書き直しを命じられたそうです。

聞くに、彼は夏目漱石の「こころ」を読んで、自分で考えたKの名字を羅列したそうです。一方私は芥川龍之介の「河童」を読んで、自分で考えた河童語を羅列していました。たしかにぱっと見では違いがわかりません。

が、このとき私は、両者の明確な差に気づいたのです。私は今回、手抜きしようと思って「河童」を書いたわけではありません。一方彼も、かつて手抜きで「壁」を描いたわけではありません。しかし前回の私と今回の彼は、おのおの自分のやりたくないことを手抜きするために互いを模倣していたのでした。

私はこのとき、やりたくないことを前にしたら「なるべく楽できるように手を抜く」ではなく「やって苦じゃない程度にがんばる」という意識でいれば、意外とすんなり通ることを発見したのです。その意識を持って過ごすようになった結果、むしろ独創的と褒められたことさえあります。

学校のことでやりたいことなんて一つもないけど、そこに能動的とか受動的とかの判断を持たず、流れ作業としてこなす。これが一番「ちゃんとしている」と思ってもらえることに気づき、その誤解のままに、悪目立ちしないだけの無感情な少年となりました。

ウラを返せば何も判断しない人に「擬態」することで、いとも簡単に普通の人間としての扱いを受けることに成功したのです。

そんな「フリ人生」の裏でやっていたことといえば、漫画とか小説とか映画とか音楽とか、一人で楽しめるものばかりを漁って接種することでした。そして、友達がいないから誰かとそれらを共有することもなく、フリの自分とフリじゃない自分の差はどんどん大きくなっていきました。

新たな難問が勃発

時は流れて大人になり、作家になった私は当時の担当編集の「僕、webでの宣伝って苦手なんですよね」という一言がきっかけで、SNSのアカウントを作りました。でも作ったはいいものの、早速壁にぶち当たります。それは「宣伝」自体に対する苦手意識です。

過去を振り返ったとき、何かのCMを見て「これが欲しい」と思ったことが正直ほとんどありません。「好きな商品」はあっても、それはCMの存在やCMに対する好悪とは無関係です。一方、CMを見て「これは欲しくない」と思うことは多々あります。

一時期「好きなCM」の次に良いのは「嫌いなCM」だ、なんてことを言う人がいました。記憶に残れば勝ちであり、最大の敗北は無関心だ、みたいなアレです。

でも、お店に行って陳列棚を見たときに嫌いなCMの商品しかなかったら、「あのCMの実物はこれか」となるだけで、普通に買わないと思うんですよね。別の店に行くか、今回は買わなくていいやってなる。CMしか見ていない段階で既に悪印象なのですから、手に取ることすらしないでしょう。

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周囲にその店しかないとか、今すぐこの品物が欲しいというような切羽詰まった状況であればやむを得ないとは思いますが、買う人に「嫌いだけど背に腹は替えられぬ……」とか思わせてまで商品を買わせるなんて、普通に考えれば悪魔の所業です。

そもそもCMって、商品を良いイメージと共に認知させるためのものですよね。あるいはそれが存在する日常を想像させる。海辺で飲んだら美味しいビール、息子の部活のユニフォームをキレイにする洗剤、家族で出かけるのにうってつけの大きな車……。なるほど、どれも生活を豊かにしてくれそうです。

でも自分の場合、「このCMの商品が存在する日常を想像してください」が「このCMを見た以上、この存在に合わせてお前の日常を変えていけ」と言われているような気分になるのです。

所属するという感覚がわからない

「このビールは海で飲むと最高に美味い!」と言われたら、「海辺で飲むなら何でも美味いよ」と考えてからの「でもそう言い切るためには比較検討しなくてはならないよな」「じゃあ、次に海に行くとき買ってみる必要があるな」「でもその時に売ってなかったらどうしよう」と思考が続きます。

「そもそも、海に行くにしても友達と予定を合わせるのって結構大変だよな」「一人で海行ってビール飲んでもつまらないしな」となって、最終的に「海に行くのめんどくさいな」「海、行くのやめよ」と、海に対するネガティブイメージだけが心に残る結果となります。もともと海に行く予定もなかったのに。

まるで選択を強要されているような気持ちになり、十代の頃の「選びたくないものの中から選び」かつ「その中から楽しみを見つける」という学生時代の課外活動に感じていた苦手意識が思い出されます。それをまるまる放棄してきた自分は、一方的に提示された情報を目にすると一気にめんどくさくなるのです。

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これが冒頭で書いた「所属意識の欠如」に繋がっています。所属意識を持つということは、自分で好きな物事を判断するということです。判断するということは、成長の機会を持つということです。自分はそれを通過していないために、周囲と自身の内面とを照らし合わせる習慣を身につけなかった。言い換えると、好きな物事についての意識を他者と共有する機会を得ぬまま大人になった。

自分の「好き」はあくまで自分が勝手に好きなだけであって、その「好き」の観点・角度・拡張性が他人と同じかどうかは「好き」である事実とは無関係。好きっぷりについて周りと足並みを揃える必要はない。長らくそれが自分の常識でした。

好きな映画やバンドや漫画について、それぞれ好きな理由が自分の中には存在します。でも、それを人に理解してもらえる形で言葉にすることが非常に苦手です。たとえば砂の出てくる映画がすごく好きなのですが、「何で?」と問われても相手に納得してもらえる言葉が思いつきません。

自分の中では「ひょっとして前世がサワガニだったかもしれなくて、それでかな?」と思っているのですが、今こうして文字にしても誰かに伝わる気が全くしません。これは他者と「心の中のこういう場所にある『好き』はだいたいこういう理由に起因する」という定石を共有出来ていないからでしょう。

このままでもいいじゃないか

ネットでは、みんな日々SNSでそれぞれの「こういうのが好き」を発表して楽しんでいます。好きなものは、誰かと共有することでもう一つ先の「好き」へ進めるのだと知りました。しかし自分はそれと無縁です。

自分の好きな漫画や映画が十数年の時を経てSNSでにわかに小ブームを巻き起こすのを目にすることもあります。それで「おおっ」と思っても、情報を追っていくと大体の場合「これは『好き』を共有している人同士の会話だ」と感じ、妙に居心地の悪い気持ちになります。

「自分は、自分の好きなものと同じものを好きな人たちと、同じ場所に所属している」という意識の持ち方がわからないので、そこに混ざってはいけない気持ちになるのです。乾燥機の中身のように渦を巻いて拡散・攪拌されている情報を、透明な蓋の外から眺めているような感覚です。

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自分の書いたものについても同様で、自分は面白いものを書けたと思っていても、それを人に勧める上でうまく伝わる言葉が思いつきません。それどころか、無理やりひねり出した宣伝文句を見せたらかえって興味を削いでしまうのではないか? という懸念の方が強いです。

だって自分の本が好きだと言ってくださる方って、たぶん自分と同じような人間だから、ポジティブな文句で生活に取り入ろうとしてもきっと距離を置かれるでしょう。

「置いてあるところがあるってさえ知らせてくれたら、あとはこっちで勝手に探して取りに行くから」と自分なら思うし、宣伝なんてしたら押しつけになってかえって迷惑かもな。迷惑だよな。迷惑に違いない。よし、やめとこう。ってなります。

わかってはいるんです。面倒ごとを避けてきた結果、自分がいちばんめんどくさくなっているってことは。でも、古い寓話の登場人物みたいだと落胆するばかり。自分にとって、自分の振る舞いはずっと「ちゃんと普通の人だって思ってもらえる」ための擬態だったので、今になって自己アピールというやつの大切さを痛感しております。

という流れで、じゃあこれからの目標は擬態からの脱却だな、いつか自身の良さを堂々と伝えられる人間になれたらいいな、という方向でまとめようと思いましたが、なんか白々しいなと思っちゃう自分がいまして、どうもまだ先は長そうです。

さしあたり、砂映画の良さを上手く伝えられるように妻相手に練習してみようかと思います。それではまた。

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