作曲家、古関裕而が従軍した「インパール作戦」 牟田口中将が作戦決行に転じた理由

作曲家、古関裕而が従軍した「インパール作戦」 牟田口中将が作戦決行に転じた理由

  • 文春オンライン
  • 更新日:2020/11/20

第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」。NHK連続テレビ小説「エール」では、名作曲家・古関裕而をモデルにした主人公・古山裕一がインパール作戦に従事する様子が描かれ、話題となった。

インパール作戦惨敗の主因は、軍司令官の構想の愚劣と用兵の拙劣にあった。かつて陸軍航空本部映画報道班員として従軍したノンフィクション作家・高木俊朗氏は、戦争の実相を追求し、現代に多くのくみ取るべき教訓を与える執念のインパールシリーズを著した。シリーズ第2弾『抗命 インパール2 (文春文庫)』より、牟田口廉也中将が周囲の反対を押し切り、インパール作戦を決行する様子を描いた「インド進攻」を一部紹介する。(全6回の1回目。#2#3#4#5#6を読む)

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太平洋戦争史上の最大の悲劇

日華事変から太平洋戦争にかけて、牟田口廉也という指揮官の名が、戦史の上に、3度大きく登場している。

第1回は蘆溝橋の事件である。第2回はマレー半島上陸とシンガポール攻略の激戦である。マレー半島コタバルに敵前上陸したのは、牟田口中将の指揮する第18師団の先遣隊侘美(たくみ)支隊であった。この部隊が壮烈な戦闘をして上陸に成功したのが、昭和16年12月8日、開戦の日の午前1時30分であった。これが太平洋戦争の最初の戦闘である。牟田口指揮官の部隊は、日華事変と太平洋戦争のそれぞれの第1発を発射した。のちに牟田口中将が自分に戦争を終結させる責任があると宣言するようになったのも、こうしたことが一因となった。

しかし、第3回のインパール作戦の時に、一番大きな問題を残した。それは、この作戦を強行したのも、また、それが太平洋戦争史上の最大の悲劇に終ったのも、牟田口軍司令官の責任だとされているからである。しかし、これは牟田口軍司令官ひとりの責任ではないということも、多くの戦史とか、事情を知る人々が明らかにしている。牟田口中将自身も、はじめはビルマとインドの国境付近で作戦をすることはできないと考えていた。昭和17年のことである。そのころ牟田口中将は第18師団長であり、第15軍司令官飯田祥二郎中将の隷下(れいか)にあった。5月1日、第18師団はビルマの古都マンダレーを攻略した。ビルマにいた英国軍はインド領に、中国軍は自国領に退却した。第15軍のビルマ平定戦は成功のうちに終った。

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東部インド一帯を占領する21号作戦

まもなく、ビルマに雨季がきた。そのころ、第15軍司令部では、ビルマとインド、あるいはビルマと中国との国境方面は、地勢がけわしく、作戦は不可能と考えていた。牟田口師団長も、それに同意していた。

しかしまた、ビルマ平定の余勢をもって、一挙にインドに進入し、インドの支配権をにぎろうと計画するものがあった。その1つが南方軍総司令部である。これは南方派遣軍の総司令官、寺内寿一元帥の司令部である。普通には南方総軍、または単に総軍などと呼ばれていた。

総軍がインド進攻計画を決定したのは、昭和17年8月6日であった。それによれば、ビルマ・インド国境方面の連合軍兵力は弱く、防衛も手薄だから、この機に乗じて、東部インド一帯を占領するというのであった。この計画は21号作戦と呼ばれた。

牟田口師団長は、インド進攻案に反対

まもなく、大本営が同意して許可したので、総軍はビルマの第15軍に対して、21号作戦の準備を命じた。9月1日であった。飯田軍司令官はおどろいた。第15軍の兵力で、やりこなせる作戦ではなかった。

9月3日、飯田軍司令官はビルマ東部のシャン州タウンジーまで出向いて、牟田口師団長をたずねて、意見を求めた。牟田口師団長は作戦の実施は困難であると答えた。その理由は、国境の山地には道路がなく、大兵団を動かすのに困難であること、後方からの補給がつづかなくなることなどであった。

シンガポール攻略の時、ブキテマ高地の激闘で勇名をあげて、まだまもない牟田口師団長は、インド進攻案には反対であった。

ついで、飯田軍司令官は同じ隷下部隊の第33師団長桜井省三中将をシャン州カローに訪ねた。桜井師団長はさらに強く反対した。飯田軍司令官は、両師団長の意見に賛成して、総軍に再考をうながすことになった。

大本営としても、準備を命じたものの、確信があってのことではなかった。総理大臣と陸軍大臣を兼任していた東条英機大将も、自信はもっていなかった。そのうち、太平洋南東方面のガダルカナル島の戦況が悪化してきた。大本営はその方面の処置に追われた。また、ビルマ方面では、英軍がベンガル湾ぞいのアキャブ方面から、ビルマに反攻する兆候があらわれたので、21号作戦の準備は中止になった。しかし、作戦そのものの研究は認められていた。

第15軍としても、国境外に敗走した英国軍や中国軍が、すぐに反撃してくることは考えていなかった。ビルマを平定したあとは気をゆるして、部隊の訓練と体力の増強をはかることにした。このために第18師団や第33師団などの主力部隊を、シャン州の高原地帯の避暑静養の地に集めていた。

英軍の有力な部隊がビルマに侵入

2月16日、有力な英軍部隊がチンドウィン河を渡って、北ビルマ方面に向ったという、ビルマ人の情報がはいった。19日夜には、第33師団の1個大隊が行軍中に、突然、英軍の大部隊と行きあって交戦した。このために大隊長は戦死し、多くの損害をだした。相手は英軍のなかでも、豪勇をもって知られたグルカ兵部隊であった。ビルマの日本軍占領地域のなかに、意外な事態がおこった。英軍の有力な部隊が潜入して活躍をはじめた兆候があらわれた。

やがて、北ビルマの要地ミッチナ付近の鉄道や道路が、数カ所破壊された。侵入部隊は無線連絡によって、飛行機から補給をうけながら前進していることがわかった。

牟田口中将の第18師団の一部が侵入部隊を攻撃に向ったが、捕えることはできなかった。そのうち、侵入部隊はイラワジ河を渡ってビルマの中央部にあらわれた。この河を突破されることは、ビルマ防衛に危険をもたらすと見られていた。侵入部隊の行動は、第15軍にとって、予断を許さないものとなった。

インパール作戦を失敗させる一因となった挺進隊

この部隊が、英軍のウィンゲート准将のひきいる挺進隊であった。特別の訓練と準備をした約3000人の部隊であった。ビルマに侵入した目的は、1つは日本軍の防衛態勢を破壊することであった。もう1つは、連合軍が将来、ビルマ奪回作戦を本格的におこなう時のための試験と偵察をすることであった。

4月になると、ウィンゲート隊は分散し、反転し、やがて国境の外に去って行った。

この挺進隊の基地はインド東北部マニプール州の州都インパールであった。出発したのは昭和18年2月8日であるという。それから国境の約100キロにわたる山岳地帯を越えて、ビルマに潜入した。この行動は、英国人が冒険心と勇気に富むことを示した。

この時から、ちょうど1年後、インパール作戦の開始される3日前、ウィンゲート挺進隊が北ビルマにグライダーで降下した。前の年に潜入偵察した地域であった。この空輸挺進隊の降下は、日本軍の後方、補給をおびやかし、インパール作戦を失敗させる一因となった。

ウィンゲート挺進隊に刺激された牟田口中将

ウィンゲート挺進隊の第1回の侵入で、最も大きな衝撃を心にうけたのは、牟田口中将であった。もし、このような挺進作戦をくり返されると、ビルマの防衛は危険になると考えた。それよりも、重大なことがあった。英国兵の捕虜の自白で、国境方面に自動車道路が建設されていることが明らかになった。連合軍はビルマ奪回作戦のために、進撃道を作っているのだ。今では国境方面は、大部隊の作戦が困難でなくなってきたと思われた。こうしたことが、牟田口中将の考えに大きな変化を与えた。当時、牟田口中将の側近にいて、インパール作戦計画を最も強く推進させた情報主任参謀の藤原岩市少佐は、次のように見ている。

《牟田口中将の地形認識の一変と、その感受性の強い性格とあいまって、攻勢主義に一転した》

ウィンゲート挺進隊が北ビルマに出没隠顕している時、牟田口中将の心境ばかりでなく、身辺にも変化が起った。

連合軍の反攻にそなえ、ビルマの防衛を強化するために、新たにビルマ方面軍が編成された。司令官には河辺正三中将が任命された。また第15軍は純然とした野戦軍として、ビルマの中部と北部方面の防衛を受けもつことになった。この改編を機会に、飯田軍司令官は転出し、後任に迎えられたのが牟田口中将であった。この異動の行われたのは、昭和18年3月27日であった。

ウィンゲート挺進隊の行動に刺激されて、牟田口中将の考えが、インド進攻案に変っていた時である。軍司令官に栄転すれば、着任の抱負を明らかにし、新たな方針を与えなければならない。それには、最も時宜を得たものとして考えられたのが、インド進攻計画であった。

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“武力占領は無理でも、インドに革命をおこさせたい” 牟田口軍司令官が体現した、日本軍“失敗の本質”へ続く

(高木 俊朗/文春文庫)

高木 俊朗

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