「もう無理かも」の弱気から甲子園出場へ。公立校・柴田が取り組んだ意識改革

「もう無理かも」の弱気から甲子園出場へ。公立校・柴田が取り組んだ意識改革

  • Sportiva
  • 更新日:2021/02/23

宮城の公立校・柴田が創部35年目にして、春夏通じて初の甲子園出場をつかんだ。93回を迎えるセンバツ大会の歴史で、宮城の公立校が一般枠で選出されたのは1967年の仙台商以来となる。仙台育英、東北の「東北2強」に阻まれてきた壁を打ち破った柴田。これまでの取り組みと平塚誠監督の軌跡、震災10年への思いに迫った。

「やったぜ!! 本当に夢が叶ったんだな」

【写真】2021年のドラフト候補たち(9枚)
誰も見ていなかったら、その場でガッツボーズをして叫んだかもしれない。

2021年1月29日、午後3時40分すぎ。春夏通じて初の甲子園出場が決まった。平塚監督は飛び上がりたいほどの興奮をグッと胸の中にしまい込んだが、「吉報」を待つ選手たちの顔を見た時は思わず涙がこぼれそうになった。「本当に選んでもらえるのか?」。不安な日々を過ごしながら、夢を信じて練習に取り組んできた33人だ。

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センバツ出場の吉報は1月29日に届いた photo by AFLO

まず、土生善弘校長が選手たちに向かって言った。

「『夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし。故に、夢なき者に成功なし』。ただ今、センバツ出場の連絡を受けました」

そして、三塁手の横山隼翔(2年)に視線を移しこう続けた。

「横山隼翔(はやと)。兄・航汰の分まで、甲子園の土に足跡を残してきなさい」

横山は姿勢を正し、真っすぐな目で「ハイッ!」と返事をした。横山の兄・航汰は1学年上の遊撃手で主将。新型コロナウイルス感染症拡大による夏の選手権大会中止を経験した世代の一人だ。このセンバツ出場には甲子園出場の夢を絶たれた3年生の思いも込められている。グラウンドは小雪が降る寒さだったが、一足先に訪れた「春」を全員がかみしめた。吉田松陰の名言の引用といい、ちょっと感動的なシーンだった。平塚監督は語る。

「校長先生は競泳の元選手。2年前に赴任され、部活動を頑張る生徒をいつも応援してくれていました。今回のセンバツ出場で野球部だけじゃなく、学校全体としての夢、目標を1つ達成できた。柴田町にとっても明るい話題が届けられました」

公立校を指導し続け、気づけば48歳になっていた。平塚監督は1972年、仙台市生まれ。仙台東では三塁手を務め、体育教師になるために仙台大学で野球を続ける。泉高、仙台向山での講師を経て、村田高で初めて野球部監督に就任。石巻高定時制では、全日制の監督を務めていた小原仁史氏(現・泉松陵監督で、2009年に利府の監督としてセンバツ4強)や、石巻地区のチームを強くした阿部輝昭氏(宮城水産監督から現・渡波小学校教諭)、菅野勇太郎氏(現・多賀城高教諭)に野球論を学ぶ機会に恵まれた。

その後、河南(現・石巻北)に赴任し、慢性的な部員不足に悩みながら「子どもの個性を伸ばす指導」に没頭した。時には人数合わせで自分が練習試合に出場することも。「弱かったけど、楽しかった。しっかり練習させたし、本気で怒ったし、甘やかすことは絶対にしなかった」と懐かしむ。

2010年4月に柴田の監督に就任。同校は利府とともに体育系の科を持つ県の「部活強化校」。素質のある選手に恵まれた。もう部員不足で悩むことはない――

しかし、当時の柴田は低迷期。県の1回戦で負けるなど、創部当初(1988年)に東北大会4強に進んだような勢いはなくなっていた。再建を任された平塚監督は選手たちの意識改革に着手。そこで生きたのが、弱い公立校で培った「モチベーションアップ大作戦」だ。

「高校生たちは、指導者が決めたルールや厳しい練習には背きたくなるもの。それでこそ高校生なんです。一方で、『チームの雰囲気は大事にしたい』という気持ちも必ずある。具体的に言うと、彼らは仲間と決めたルールは守るし、自分で決めた練習は一生懸命やるんですよ。だったら生徒たちに決めさせたらいいんじゃないかと」

受け身だった選手たちが主体的になり、柴田はすぐに勝ち出した。熊原健人(元楽天)が2年生だった2010年の春には、地区大会優勝、県大会で4強に進出。その後は安定して宮城の上位に勝ち進むようになった。2002年、2013年には夏の宮城大会決勝に進出。2015年には仙台大学に進んだ熊原が横浜DeNAベイスターズからドラフト2位指名を受けるなど、名実ともにチームは成長していく。

しかし、甲子園はまだ遠かった。「あと1勝」の壁が破れないのだ。山の頂上が見えてくると、目の前にはいつも佐々木順一朗監督(現学法石川監督)率いる仙台育英がいた。勝てない。勝ち切れない。「10年間で11敗はしたと思う」と平塚監督。「2度目の決勝で負けた夏は、さすがに堪(こた)えました」と振り返る。

主将・上林誠知(ソフトバンク)、熊谷敬宥(阪神)ら擁する仙台育英と対峙した、2013年夏の決勝戦。柴田は初回5点を先制するも、好投を続けていたエースが打たれ、最後は押し出しのサヨナラ四球で敗れた。「最後に勝ち切る難しさを知った」(平塚監督)。そこからしばらく、勝ち方がわからなくなった。2014~18年の5年間は、公立校に夏5連敗。「甲子園はもう無理なんじゃないかと、弱気になった」と吐露する。

「同じように練習しているのに勝てない。おそらく、日常生活の甘さや、練習が詰め切れていないことに起因していたのだと思いました」

原点を見失っているのではないか、と考えた。「生徒はどんな時にやる気になるのだろう?」をもう一度深く、考えた。

「どんなに厳しい練習であっても、その練習が自分の力になると直接的に感じられた時に生徒はやる気を出す。練習の意図を十分に理解させ、正しい方向で努力させることが第一である」

たどり着いた答えは、部員不足のチームを指導していたころのマインドだった。

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近隣の上野山(標高270m)をダッシュで駆け上がる名物の山道トレ photo by Yuki Kashimoto

たとえば、柴田の名物練習「山道トレ」。近隣の山道をかけ上る冬の基礎体力トレーニングだが、平塚監督は「何本走れ」ではなく「何本走るか自分たちで決めなさい」と言い方を変えた。選手は話し合って、少し上のレベルの本数を口にする。5本だった山道トレが10本になり、15本になり......。自分たちで目標を設定できる、いまのチームが出来上がっていた。

7年ぶりに出場した昨秋の東北大会では「一戦必勝」の目標を共有し、学法石川、八戸学院光星、東日本昌平、日大山形という強豪校に4連勝。エース谷木亮太(2年)の制球力と、機動力を絡めた打力、そして時間をかけて積み上げた守備力が1戦ごとに成長した。決勝で仙台育英に敗れたが、創部史上最高の東北大会準優勝につながった。5番村上太生輔(2年)は初戦から2試合安打が出ず苦しんだが「不調の原因はスイングではない。ボールを下から見ているから低めの見極めができていない。もっと上から見よう」と客観的に自分を分析し、快音を取り戻した。自分たちで考える力が、いい形で発揮された。「甲子園でもあの戦いができれば。勝機はある」と、平塚監督は兜の尾を引き締める。

◆東北大会で公立校が強豪を次々撃破

2011年の東日本大震災から10年。平塚監督の瞼の裏にも、さまざまな光景が焼きついている。仙台市の自宅は無事だったが200m手前まで押し寄せた津波に、死の恐怖を感じた。家を流された生徒がいた。家族を亡くした生徒もいた。そんな生徒たちの心のケアをしながら、片づけに追われ、野球どころではない数ヵ月を過ごした日々は忘れない。

「当たり前の生活が当たり前ではなかったという気持ちを、あの震災で初めて気づきました。水の大切さ、食事の有難さ、貴重なガソリン、野球をやれる喜び。生きていることに感謝して、謙虚に生きることを心に刻みました」

遠藤瑠祐玖(るうく)主将(2年)も言う。

「震災から10年の節目に選んでいただいたので、地域の人を勇気づけたい。正直、出場校の中でどのチームよりもレベルは低いので、自信にしている守備の練習からもう一度気持ちを入れてやっていきたい」。取材ではあえて言わないが、選手の間では「日本一を取ろう」と言い合っている。

遠藤、そして文頭の横山兄弟は津波被害が大きかった石巻市の出身だ。横山は小学校1年生のときに自宅も野球道具も流されたが、野球をやめず、甲子園の夢も一度もあきらめなかった。

「被災しながらも野球を続けてきた選手たちの姿を復興の象徴として、『宮城は元気です』というメッセージを全国の皆様に伝えたい」と平塚監督。夢なき者に成功なし。33人は、夢を決してあきらめない。

樫本ゆき●文 text by Yuki Kashimoto

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