「大松監督は女性の敵」根性バレー大批判の中で生まれた東洋の魔女の代名詞“回転レシーブ”

「大松監督は女性の敵」根性バレー大批判の中で生まれた東洋の魔女の代名詞“回転レシーブ”

  • 文春オンライン
  • 更新日:2022/01/15

「バレーを続ける限り、人生の伴侶には巡り合えない」東洋の魔女は“ちょっと背の高い素人”の集まりだったから続く

2012年のロンドン五輪で銅メダルに輝いた女子バレーボール日本代表。その監督を務めた眞鍋政義氏(58)が、2016年以来、5年ぶりに日本代表監督に復帰することが決まった。2021年10月22日、眞鍋氏はオンライン会見でこう述べた。

【写真】練習は悲惨を極めた

「東京オリンピックで10位という成績にかなりの危機感を抱いている。もし(2024年の)パリ大会に出場できなかったら、バレーボールがマイナーなスポーツになる“緊急事態”であるということで手を挙げさせていただいた」

女子バレーは2021年の東京五輪で、“初の五輪女性監督”中田久美氏(56)が指揮を執ったが、結果は25年ぶりの予選ラウンド敗退。1勝4敗で全12チーム中、10位に終わった。

正式種目となった1964年の東京五輪で、記念すべき最初の金メダルに輝き、「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレー。だが、その道のりは平坦ではなかった。半世紀に及ぶ女子バレーの激闘の歴史を、歴代選手や監督の肉声をもとに描いたスポーツノンフィクション『日の丸女子バレー』(吉井妙子著・2013年刊)を順次公開する。(全48回の10回。肩書、年齢等は発売当時のまま)

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「私たちには秘密というものがなかった」

練習が休みになる日曜日の午後は、寮の河西の部屋に集まり、みんなで歌を歌った。藤山一郎の『青い山脈』が十八番で、ディック・ミネ、神戸一郎のヒット曲をハモった。まさに乙女たちの青春である。

宮本が続ける。

「だから私たちには秘密というものがなかった。隠し事をしようとしても出来ない。特に河西さんには皆バレバレ。河西さんは主将というより、6人姉妹の長女という感じだった。イソなんて貯金通帳も預けていたくらいでしたから」

戦争孤児だった磯辺は、中学卒業と同時に日紡に入社。高校進学を夢見ていた磯辺は、給料を河西に渡して貯金してもらい、そのお金で翌年、四天王寺高校に入学を果たす。

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当時を振り返る磯辺サタ氏 ©文藝春秋

河西は“妹たち”の私生活の面倒を見る一方、コートでは厳しかった。大松の仕事が終わるのは午後5時。選手らは3時に終業するため、大松がコートに来るまでの2時間は河西がコーチを兼任するのだ。この時間がきつかったと谷田が言う。

「私たちは毎日3枚の練習着を持って行くのですが、河西さんとの時間で一枚はもうびしょびしょ。大松先生が体育館に現れると、皆ほっとしたものです」

セッターの河西は、構えた手の中に1ミリも違えずレシーブで返すことを要求した。少しでも逸れると、無言でにらみ返す。その態度が他の選手にはきつかった。谷田が言葉を重ねる。

「先生にはどんなに怒られても、言い返したり反抗的な態度を取れるけど、河西さんは無言。だから精神的にきつかった。苦痛とは違うんですけどね」

谷田は、大松に選手の中では一番食ってかかった。ボールを投げられれば蹴り返し、歯向かい、仕舞には体育館の外に出て、「大松の馬鹿野郎ーっ!」とありったけの声を張り上げる。

そんな谷田でも、河西には反抗することが出来なかった。

5人はなぜ、河西が正確なレシーブを要求するか知っていた。たとえレシーブが乱れても、河西が正確なトスを上げる技術を持っているのは百も承知だった。だが、練習ではそれを一度たりともやろうとしない。河西は、自分の練習を犠牲にしてでも、仲間たちの技術を上げようとしていた。だからこそ、精神的にきつかったのだ。

そんな河西との練習のお陰でレシーブ力が上がった、と松村は言う。

「レシーブするときに、心の中で『河西さーん!』と念じる。そうすると正確なパスを出せるようになるんです。だから試合ではいつも念じていました」

驚くことに河西は、試合中にサインを出したことがないという。それでも今で言うクイックや移動攻撃など、複雑なコンビバレーを展開している。サインなしでコンビバレーが出来るのか。河西が手の内を明かす。

「一言で言うなら絶対的な練習量の賜物だと思います。それにみんなとはいつも一緒だから、今何を考え、身体はどんな状態なのか、背中で判断できたし、彼女たちの息遣いや足音でどんな攻撃をしたいのかも分かった。今みたいに高度に複雑化したバレーだったらサインなしでは無理だけど、あの当時は気持ちで動かすことができた」

コート内の6人が同化していたといってもいい。まさに、小島が言う“芸術品”の域に達していたのだ。

「絶対にソ連に勝って世界一になろう」

60年にブラジルで開催された第3回世界選手権の代表は、日紡の選手を中心に選出された。監督は当然のごとく大松である。

初出場にもかかわらず、日本は銀メダルを獲得した。優勝は、第1回大会から世界選手権を連覇しているソ連。国内の大会ではことごとく勝っていた日紡貝塚に、初の国際大会とはいえ土がついたことに、大松、選手らは血が逆流するほどの悔しさを味わった。この大会を最後に引退を決めていた河西、宮本は、結婚願望を「打倒ソ連」に変える。

大松は選手の前で決死の宣言をした。

これがチームの合言葉になった日紡貝塚は、以前にも増して練習に取り組む。

しかし、アマチュアである以上、仕事が免除されるわけではない。明け方まで体育館に籠(こも)ることもあったと宮本が言う。

「体育館を出て寮に帰ると、早番の人が出勤する時刻。『お帰りなさい』『いってらっしゃい』。こんな挨拶を日常的に繰り返していた」

大松は、これまでと同じような練習をいくら重ねても、体格に勝るソ連を打ち破ることは出来ないと考えた。世界選手権で対峙した海外勢はどこの国も巨人と思えるほど身体に恵まれ、大人と子供ほどの差があることを見せ付けられた。加えて、小柄な日本人は手足が短いため、外国人選手に比べ身長以上のハンディを背負っている。

そんな弱点を補うためには、外国人選手の占める空間と同等の動きをする戦略が必要だった。
当時、大松はこう語っている。

「バレーは三次元スポーツ。1人ひとりが動ける立体的な空間を、背の高い海外の選手より多く占めることが出来なければ、そもそも勝負にならない」

そのためにはどうすればいいか。そのことだけに頭が占領されていたある日、大松は、ダルマが棚から転げ落ちても立っているのを目撃した。

これだ、と閃いた。

跳んだ瞬間にボールを受け、上げると同時にクルリと一回転して起き上がれば、より早く元の姿勢に戻れると考えたのだ。そうすれば、身体のハンディから来る空間の隙間も埋まる。

これが後に、東洋の魔女の代名詞にもなった“回転レシーブ”である。

だが練習は悲惨を極めた。身体のあちこちを床にぶつけるため、座布団やタオルを巻いて練習しても生傷が絶えない。打ち身、擦り傷、打撲、捻挫は当たり前。動きが止まれば大松から容赦なくボールが飛び、失敗すれば罵声が浴びせられた。

傷口は破れ、膿をはらんだ。それでも選手たちは練習をやめようとしない。大松の罵声はますます激しくなる。レシーブ練習は1人が1日3百本。全員がマスターするまで2年間以上続いた。

しごきにも似た大松の特訓に、会社内部や世間から批判も噴出する。特に労働組合や戦後急速に広がったフェミニズムの活動家たちから、大松は糾弾された。

「大松は女性の敵」
「非道は許せない」
「人権蹂躙もはなはだしい」

一方、肝心の選手たちは大松に向けられる批判が解せなかった。

いち早く回転レシーブを習得した松村が言う。

「うまくなりたいと思っているのは私たちで、先生は指導をしてくれていただけ。もし、先生が、黒板に絵を書いて練習方法を説明するような人だったら、私たちもやらなかった。回転レシーブも実際にやって見せてくれましたから」

河西は、大松の腕が左右大きく違っていたと証言する。

「先生は私たちの12倍身体を動かしていたんです。1人で、サブメンバーを含めた12人にスパイクを打っていましたから、腕の太さが違ってしまったんでしょうね。身体を1番酷使していたのは私たちではなく、先生なんです」

レシーブ練習が1日1人300本とすると大松は1日に3006百本のスパイクを打っていたことになる。それが何年も続いたとなれば、腕の太さが大きく違って当然だった。

引退後、ママさんバレーの指導者になった半田は、教える立場になって初めて大松がいかに自分の身体を酷使していたか、よく分かったという。

「先生はよく『お前たちはいいよな、休む時間があって』と言っているのを聞き『何を言っているの、こんだけしんどいのに』と思っていたけど、指導者になって先生の言っていた意味がようやく理解できた。ママさんバレーでさえそうなんだから、世界一を目指していた私たちを指導するのは、男性であってもいかにきつかったか……」

この頃には、ドライブサーブで変化をつける日本オリジナルの必殺技「木の葉落とし」も完成させた。

「そんな甘い気持ちでやるならバレーなんて止めちまえ!」

大松は厳しいだけではなく、月に1度、補欠を含めた選手12人を連れて大阪の繁華街に繰り出し、映画を見てはその後にフルーツポンチやチョコレートパフェをご馳走した。それが選手たちの最大の楽しみだった。嬉しそうにパフェを頰張る選手らを眺め、大松は相好(そうごう)を崩す。そのときの父親のような穏やかな顔が忘れられないと谷田が言う。

谷田は、月一度の映画のリクエスト係だった。

「話題の映画を見つけ、先生にリクエストするんです。でも、映画館に入った途端、みな熟睡。その後にレストランに行くのが何よりの楽しみでした。でも今考えれば、先生は社員ですから給料が決まっている。その中でよく選手全員の映画館代、パフェ代を捻出していたなと思いますね。1日で給料の半分は飛んでいたんじゃないかな」

選手たちの大松に対する信頼を知った会社や世間は、振り上げていたこぶしを引っ込め、同時に大松礼賛の風潮に変わった。

大松は、チームの温度の変化に敏感だった。空気が緩んできたと感じると、ぷいと練習をやめることがしばしばあった。そんなときは河西の出番である。

仕事場に戻った大松に河西が練習を再開してほしいと願いに行く。当初、大松はむっつりしているものの、度重なる河西の懇願に大声を張り上げる。

「俺はこんなに一生懸命やっているのに、お前らは何だ。そんな甘い気持ちでやるならバレーなんて止めちまえ!」

すかさず河西が反論する。

「みんなは懸命にやっています。自分だけ帰るなんて卑怯です!」

そんな2人のやり取りを、他の選手らは窓の外から見ているのだ。宮本が含み笑いをする。

「2人の頃合いを見つつ、私たちが登場。先生に泣きながら『お願いします。練習をやってください』と懇願。別に泣きたくはないんだけど演技です。そうすると、『そこまで言うんだったら、やるか』となる。窓の外から、先生を怒鳴っている河西さんを見ている私たちは『どっちが指導者か分かんないね』とささやきあっていたものです」

河西がしみじみ言う。

「何度もいいますけど、世間ではスパルタとかしごきと言われ、私たちは大松先生の従順なる子羊のようにとらえられていましたけど、実際は私たちがやりたいからやっていたんです。みんなに共通の揺るぎ無い目標がありましたからね、世界一という」

当時はまだ高校生だった磯辺は、彼女たちを外から眩しく見ていた。

「6人姉妹が何か目的を1つにし、それに向かって頑張っていくという姿が羨ましく、私も早く、姉妹の絆の中に入りたいと憧れていました」

話は逸れるが、72年ミュンヘン五輪の男子バレーで金を獲得する選手たちが初招集されたとき、監督の松平康隆の依頼によって、当時東大の助手で運動生理学の研究をしていた豊田博(元日本バレーボール協会専務理事)が、練習メニューを作る前に、男子選手の全身反応時間を調べたことがあった。すると、東洋の魔女より男子選手の方がことごとく数値が低かったという。

根性バレーといわれていた大松の指導がいかに合理的な練習法だったか、数字が示していることに豊田は舌を巻いた。

「大松さんはもちろん自分でも勉強したのでしょうけど、多分、インパール作戦から生き延びた体験から、人間の潜在能力にいち早く気がつき、合理的に選手の能力を引き出す方法を知っていたのだと思います」

大松の根性バレーは、科学的にも証明されていたのだ。

(吉井 妙子/文藝春秋)

吉井 妙子

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