
小久保新監督と王会長のサインボールを手にポーズをとる大阪桐蔭高の前田=10月26日
週に1度の「もっとホークス」。ホークスの将来を担うドラフト指名選手の歩みや横顔を紹介する「羽ばたけ!小久保1期生」がスタートします。第1回は1位の前田悠伍投手(18)=大阪桐蔭高=です。父が自宅で野球中継を見せなかった理由とは。サッカーに〝浮気〟した後、野球に戻るきっかけとなった出来事は。エース候補の期待がかかる高校ナンバーワン左腕は常に高みを見据える。(敬称略)
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前田は2人兄弟の次男として生まれた。4歳年上の兄詠仁(えいと)のあだ名は「ハチ」。両親は次男にも数字を入れたいと思い「伍」の文字を入れた。
高校まで野球をしていた父孝博の影響もあり、兄弟ともに野球を始めた。滋賀県長浜市の旧高月町にある実家は、周囲を田畑に囲まれていた。3人で野球をするとなれば、自宅の庭も加えて広大な〝グラウンド〟になる。ロングティーや、キャッチボールを親子でする日々だった。
前田は兄が通っていた高月野球スポーツ少年団に、小学2年で正式に加入した。左利きだったこともあり、最初のポジションは一塁手。4年生になると投手に転向した。
自宅のテレビでは、プロ野球中継はほとんど流れていなかった。まだ体ができていない中でプロのフォームをまねるのは良くないという父の方針からだった。変化球を初めて覚えたのも中学1年の時。現在も一番の武器と語る肩肘への負担が少ないチェンジアップだ。けが防止の観点から整骨院にも通い、体の使い方を教わるほど徹底して体をつくった。
次のページに一度だけあった〝危機〟
前田が野球をやめる〝危機〟が一度だけあった。小学3年時、幼稚園時代の友人がほとんどサッカーを始めた。前田も希望してサッカークラブに入団した。父は野球をさせたい気持ちをぐっと抑え、見守るしかなかった。
2、3カ月ほどたったある日、スポーツ用品店を訪れた際、父は前田を野球コーナーへ連れて行くと、黄色いグラブの前で〝自然に〟立ち止まった。約1万5千円。少年用としては安くはないが、前田の「かっこええ」の一言に、孝博は「ほな、それ買おうか」。そこから前田は完全に野球一直線となった。
湖北ボーイズに入団した中学1年時には、カル・リプケンU12(12歳以下)世界少年野球大会に、日本代表として参加して世界一に貢献した。初めての世界の舞台。球の質もメンタル面も、周囲が「米国から帰ってきて悠伍が変わった」と口々に語ったほど、成長の転機となった。
次のページに口癖は「上には上がいる」
前田が常に口にしてきたのは「上には上がいる」という言葉。滋賀で野球を始め、中学、高校でこれまで以上に高いレベルに触れてきた。全国屈指の強豪大阪桐蔭高では人生で初めて主将を経験。U―18日本代表では、再び世界一を経験した。高みを見据え続けてきた姿勢が、成長をどんどん促した。
ホークスでは将来のエース候補だ。前田は「それに見合ったような行動をしないといけない」と言い切る。常に上を見てきた最速148キロ左腕がついに、最高峰の舞台に飛び込む。(鬼塚淳乃介)
次のページに前田ってこんな人
◆前田悠伍(まえだ・ゆうご)2005年8月4日生まれ。滋賀県出身。小学2年で野球を始め、硬式の湖北ボーイズを経て、大阪桐蔭高へ。甲子園には3度出場し、2年春に優勝し、2年夏は8強、3年春は4強。3年時のU―18ワールドカップ(W杯)では決勝の台湾戦で1失点完投勝ちして日本の初優勝に貢献した。180センチ、80キロ。左投げ左打ち。
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