能弁の渋沢栄一を丸め込む「大隈重信」驚く説得術

能弁の渋沢栄一を丸め込む「大隈重信」驚く説得術

  • 東洋経済オンライン
  • 更新日:2021/10/14
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早稲田大学の創設者でもある大隈重信とはどんな人物だったのでしょうか(写真:route134/PIXTA)

「青天を衝け」は、実業家・渋沢栄一を主人公にした大河ドラマであるが、物語は幕末から明治時代へと進み、新たな登場人物が現れる。その1人が、俳優の大倉孝二が演じる大隈重信である。

大隈は早稲田大学の創設者として有名であるが、その生涯は政治に捧げられたといっていい。外務大臣・内務大臣など要職を歴任したのみならず、総理大臣を2度務めたことからも、そのことがうかがえよう。何より、晩年の大隈自身が「その生涯はことごとく政治に捧げて来たのだ。(中略)極言すれば、政治はわが生命である」(『新日本』)と述べている。

明治政府への仕官を渋る渋沢を口説き落とす

さて、その大隈、前述のドラマにおいては、渋沢を凌ぐ多弁として描かれている。大声で「日本を創る場に立ってほしいのである」と、明治新政府への仕官を渋る渋沢を口説き落とす場面が印象的だ。

大正時代に録音された「憲政における世論の勢力」(大正4<1915>年)という大隈の演説が残っているが、その音声を聞いた限りでは、淡々としていて、それほど、能弁・多弁の印象は受けないが、同時代の人からは「冗舌」との評価を受けている。

ちなみに、先の演説においては、大隈は語尾に「あります」との言葉を多用している(大隈の口癖としては「あるんである」が有名である)。

それはさておき、明治2(1869)年、新政府に仕えよと命じられた渋沢だが、商法会所(静岡に設立された金融商社)の仕事がようやく緒につき、面白くなってきていた矢先であった。

しかも、新政府は、徳川の世を打倒した相手。最後の将軍・徳川慶喜に仕えていた渋沢としては「新政府など何だ」との想いもあったのであろう。仕官の話を拒絶しようと、東京に出向く。そして、大蔵省の次官ともいうべき大蔵大輔の立場にあった大隈に面会するのである。

大隈は当時、築地に住んでいた。12月18日に2人の会見が行われる。断固拒絶の立場の人間を説得するのは難しいものだが、最終的に渋沢は大隈に説得されてしまう。

渋沢いわく「大隈さんの為めに理の当然な急所を押さへられ、流石の私も辞退するの言葉に苦しんだやうな次第であった」(『青淵回顧録』)というほど、ある意味、追い込まれたのだ。渋沢は自ら「それ迄は大抵、私が半可通の知識を振り回して相手を説服したものであるが」(前掲書)というほど能弁であり、説得力に優れた人であったが、大隈はそれを上回るというのである。

聞く人の自尊心をくすぐる

まず、渋沢は「縁あって一橋家に拾われて一命を助けられ、徳川慶喜公の信頼を得て、民部公子(慶喜の弟・昭武)のフランス行に同行した以上、今後も一身を徳川家のために捧げたい。静岡で商法会所を創設したのもそのためです。よって、政府に仕えるつもりはありません」と大隈に出仕拒否の言葉をぶつける。

では、これに対し、大隈はどのように渋沢を説諭したのであろうか。

「君が仕官を拒んだら、慶喜公が人材を政府に出すのを惜しんでいる、政府への協力を拒否したと思われよう。これは誤解を招く」

要はちょっとした「脅迫」から話を始めている。血気盛んな性質の渋沢だ。もしかしたら、この時、ムッとしたかもしれない。ところが、その気持ちをねじ伏せるかのような大隈の言葉が続くのである。

「それはそれとして、現在の政府は、すべてを新しく建て直しているのである。すべての先例を脱して、ことごとく新しく生み出さなければならぬ時代であるから、1人でも多くの人材を必要とするのである。君は大蔵省の仕事に対しては何らの経験もないと言うが、その点については、この大隈にしても全然無経験である、伊藤博文も同様である。今日の状態を例えて言えば、我が国の神代の時代に、八百万の神々が集まり、ご相談し、諸々を決めたのと同様で、衆知を集めて新しい政治を行うとする場合なのである」

つまり、何もかもが未知。これから創っていく。自分(大隈)も新たな仕事については未経験なのだと大隈は語っている。これは、説得する相手が新たな仕事に対して不安を持っていた場合は、それを和らげる効果があるだろう。そして「衆知を集めて新しい政治を行うとする場合なのである」との言葉からは、優秀な人材を集めたいとの意思が伝わり、聞く人の自尊心をくすぐるかもしれない。

さらに大隈は、渋沢を説得する言辞を繰り出す。それは慶喜というワードを出してくるのである。「静岡藩から役に立つ人間が中央政府に入ったということになれば、慶喜公も肩身が広い(中略)君が政府に仕える事は、慶喜公に対しても、忠義となるのである」と。

渋沢の心の中に、慶喜への忠誠心が強固にあることを見て取った大隈は、政府に仕官することは慶喜のためにもなるのだとの論法を展開したのだ。

大隈は、渋沢が実業の世界に関心があることを承知したうえで、「ぜひとも確立しなければならない諸制度がとても多い。これらの根本が確立しなければ、到底、実業の発達を期することはできないのである。政府に入って、これらの根本を確立することに努力するのは、君の主張する実業の進歩を計るうえからいってもむしろ急務ではないか」(以上の大隈の言葉は渋沢の回顧録『青淵回顧録』を参考に記述)と主張するのである。

今度は、主君のことではなく、政府に仕えることはあなた(渋沢)のためでもあるのですよとの誘いの文句。これで、渋沢はトドメを刺されたに違いない。渋沢も、会所経営をするうえで、財政などの法整備の必要を痛感していたからだ。

要は「新たなルールを共に創ろうではないか」と誘われたわけだから、魅力的な提案に違いない。「脅迫」的言辞とそれを補って余りあるほどの現実的・論理的な論法。そして、新たな仕組みを創るという理想。そうしたものが混じり合った大隈の言葉によって、渋沢は説得されたのだ。

渋沢は一晩考えて、辞令を受けることになった。そして、度量衡の制定や国立銀行条例の制定に携わることになるのである。大隈という人間がいかに頭の切れる人かが、この渋沢の説得シーンからもわかるのではないか。

襲撃によって右脚を切断しても動じない

筆者は、大隈は頭が切れるというだけでなく、胆力もあると思っている。それを実感するのが、明治22年(1889)10月18日の大隈遭難事件のときのことだ。当時、大隈は外務大臣で、外国人の任用を内容とする条約案を推進しようとしていた。それに反対していた国家主義組織・玄洋社の一員、来島恒喜が爆弾によって大隈を襲撃したのだ。

大隈は、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下3分の1で切断する重傷を負う。現代の政治家ならば、暗殺犯を非難するか、恐ろしくて政治家などやっていられないと辞職してしまうだろうが、大隈は違った。

「爆裂弾を放りつけた奴を、憎い奴とは寸毫も思わず」「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する」と、自分を殺そうとした暗殺者・来島についてこう話したのである。凄まじい胆力の持ち主というべきだろう。

実は、渋沢も明治になって、襲撃を受けたことがあるが、襲撃者のことを憎むのではなく、大丈夫かと心配している。出所後、犯人が困窮しているとの噂を聞いて、お金を送ったりしているのだ。こうしたことを考えたとき、渋沢と大隈、似た者同士ではないかと思うのである。渋沢が大隈の言葉に動かされたのも、前述したような論法もあるだろうが、大隈の気迫に押されたのかもしれないし、胆力を見て取ったのかもしれない。

(濱田 浩一郎:歴史学者、作家、評論家)

濱田 浩一郎

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