90年代に「エア マックス」が爆発的に売れた理由

90年代に「エア マックス」が爆発的に売れた理由

  • 東洋経済オンライン
  • 更新日:2022/09/23
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あまりの人気で「エア マックス狩り」が起こった(写真:時事)

90年代に起きたスニーカーブーム。人気のスニーカーを履いた人を狙った襲撃事件が起こったことから「エア マックス狩り」という言葉が生まれるほど社会問題になった。そんなスニーカーブームの黎明期に脱サラして、並行輸入品を扱う「チャプター(CHAPTER)」を東京・原宿にオープンしたのが本明秀文氏だ。

家族から集めた300万円を元手に2.7坪のショップからスタートし、スニーカーショップ「atmos(アトモス)」を400億円企業に育て上げた本明氏の著書『SHOE LIFE「400億円」のスニーカーショップを作った男』から一部抜粋、90年代のスニーカーブームを振り返る。

マーケットを変えた「エア マックス 95」

チャプターをオープンしてから間もなく、転機はすぐに訪れた。その前年に発売されたナイキの「エア マックス 95」がじわじわと売れてきたのだ。「エア マックス 95」は名前のとおり、ナイキが1995年に発売したモデルで、「イエローグラデ」と呼ばれるカラーリングを中心に、大ブームを巻き起こした。

実際に二次市場で価格が高騰し始めたのは、僕が会社を辞めて、少し経ったころの1996年からだった。当時、若者から圧倒的な支持を得ていたキムタクことSMAPの木村拓哉がCDジャケットで履いたり、広末涼子がポケベルのCMで履いたりと、1997年にその人気はピークに達しようとしていた。

一方アメリカでは、日本のように盛り上がっていたわけではない。野暮ったいフォルムから「イエローワーム(黄色い虫の意)」と揶揄され、売れないからとセール品として定価以下でも手に入った。ただ、1ドル以下で買えた古着と違って、140ドルもするスニーカーを買うには、多額の資金が必要だ。

それに古着よりもかさばるから、でっかいカートンもすぐにいっぱいになる。荷物は空輸すると、重さか容積かのどちらかで計算され、高いほうの運賃を支払わなければならない。古着なら一人では持てないほどの重さまでギュウギュウに詰めれば何百着か入れられるけど、スニーカーは箱入りだとせいぜい20足が限度。容積を取るから、1足当たりの輸送コストが高くついたのだ。

古着よりも利益が出せるのか不安で、最初に買い付けた「イエローグラデ」はたった4足。だけど、それが日本では3万円ですぐに売れた。これは当時の為替レートで、1万5000~1万7000円で買い付け、輸送費などのコストを差し引いても1万円以上の利益が出たことになる。まとまった数量さえ仕入れられれば、数千円の利益が出る古着よりも、はるかに効率が良かった。僕は次の買い付けで、思い切って50足を買って帰った。

スニーカーのことは、すべて嫁さんに教えてもらった。嫁さんは今でも「究極のスニーカー好き」だと思う。中でも「エア マックス 1」のコレクションは学生時代から目を見張るものがあった。留学中にたまに2人で出かけたデートは、いつもスニーカーショップだった。貧乏学生だった僕は「エア フォース 1」を3年間で3足買うのが精一杯だったけど、裕福だった嫁さんは、当時から同じモデルを必ず2足以上買い、1足をコレクション用にとっておくほどだった。僕になかった才能が、商売のヒントをくれた。

独立当初は、買い付けにも同行してくれていて、女性向けスニーカー専門店のレディフットロッカーで、「これは日本未発売のモデルだから大きいサイズを買って帰ろうよ」などと、僕にアドバイスしてくれていた。僕はスニーカー屋だけど、決してコレクターではなく、むしろ教えてもらった側。「スニーカーはあくまでも商材の一つでしかない」と思うし、今でもなるべくお客さんの目線でマーケットを見ている。

例えば、「エア マックス 95」のブームを引きずり、後継モデルの「エア マックス 96」や「エア マックス 97」を仕入れすぎて在庫があふれた店も多かったと聞くけど、僕は、お客さんが今欲しいものだけを集めていたから、反動で在庫過多になることもなかった。商売がうまくいった秘訣は、スニーカーを「好き」ではなく「売れる」という目線で見る冷静さがあったからかもしれない。

「エア マックス 95」が売れた理由

ところで、なぜ「エア マックス 95」は売れたのか。少し歴史をさかのぼって、1989年の「ベルリンの壁の崩壊」がひとつのきっかけだったと僕は考えている。それまでは、スニーカーといえば、アディダスやプーマを筆頭とするヨーロッパのスニーカーのことを指していた。それがベルリンの壁の崩壊を機に、自由主義の波が押し寄せた。

90年代に入り、その波は徐々に大きくなる。ソ連が崩壊し、アメリカの一強が鮮明となった。95年に発売された「マイクロソフト ウィンドウズ95」がそれを決定的にした。この年、「アメリカ製こそ最先端でいいものだ」という認識が確実なものになった。そのタイミングで売れ始めたのが「エア マックス 95」だ。「スニーカーは自由の象徴だ」と言わんばかりに、ナイキが頭角を現し始めた。

「エア マックス 95」の登場は、アパレル全体のマーケットそのものを変えてしまった。その結果、それまで、古着やヴィンテージばかり取り上げていたファッション誌の多くが、新作(新製品)を取り上げるスタイルに変化していったのだ。

その影響で、売れ線だったオリジナルの1985年製「エア ジョーダン 1」や「ターミネーター」「ダンク」、メイドインフランスのアディダスなどの古いスニーカーに代わって、新作スニーカーが注目を浴びていった。

このころを境にチャプターは、いわゆる「古着とヴィンテージスニーカーの販売」から「スニーカーの並行輸入」へと軸足を移していく。

武器になった商社時代の貿易スキル

「王道のものばかりじゃ売れない。効率ばかり優先すると『遊び』がなくなって売れない」ということは、フリーマーケットで3カ月くらいして覚えた。

古着を扱っていた当時、アメリカで65~95セントで買い付けたTシャツが、日本では2980円で売れた。だけど、売れて在庫が少なくなり、カラーバリエーションが欠けると、2980円では売れず、1980円に値下げしなければならなかった。ところが、買い足してまたカラーバリエーションが増えると、面白いことに、一度値下げしたはずの商品が2980円でもまた売れる。

本来は売れるものであっても、「売れ残り」に見えた途端に価値がなくなるのだ。だから、そうならないように、また買い付けを繰り返す。基本的には白や黒が売れやすいけど、売り場にも「差し色」がないといけない。古着のTシャツも白、黒、赤、青、黄などをセットで買い付けるようにしていた。

スニーカーもこれと同じだ。仕入れのときに横に並べてバランスを見て、色が欠けないように買い付けていた。「やればやるだけ発見がある」、そうやって商売にどっぷり浸っていった。

買い付けで最も重要なのが、いかに買い付け資金を用意するかだ。それには、カキウチ時代の知識がすごく役に立った。当時は、海外の銀行でパスポートを見せると、その銀行の口座や通帳がなくても、日本の銀行からお金をおろすことができたし、L/Cオープン(信用状取引)と組み合わせて、パスポートを見せることで代金の後払いをすることができた。

ほとんどのバイヤーがそんなことは知らず、トラベラーズチェックや現金を持参するのが一般的だった中で、僕はそういった〝合わせ技〟を駆使して、買い付け資金を用意し、いいものを見つけたら必ず手に入れていた。

関税に関しても、かなり抑えられていた。例えば、新品のスニーカーは、27%の関税が取られる。だけど、箱がなければ中古品として扱われ、7%で済む。それに、アメリカでは州によって州税も異なる。スニーカーや服をニューヨークから送ると8.75%の関税がかかるけど、ニュージャージー州やペンシルベニア州からであれば、関税はかからない。

それに、大都市のニューヨークにはコンペティター(競争相手)となる日本人バイヤーがたくさんいたから、僕はそれを避けて、土地勘のあるフィラデルフィアを拠点にしていた。年間8~10回買い付けに行く中で、いつも決まってルート95(最南のフロリダ州から最北のメイン州を南北に結ぶ東海岸のハイウェイ)を南下したり北上したりしていたのは、実は州税を調べて、そこから導き出したコースでもあった。

「負けないコスト体質」を確立

100ドルで買い付けても、10%の税金がかかると110ドル。ただし税金がかからなければ、それだけで10ドルも利益が出る。そういった知識を活かして、「負けないコスト体質」を早くに確立したのも、並行輸入店が建ち並ぶ原宿で、チャプターが最後まで生き残った理由の一つだと思う。「たとえ他店と同じ価格で値付けしても、異常に利益率が高いのだから絶対に負けない」と、僕は自負していた。

ちなみに、ニューヨークでも当時のハーレムでは、税金を払う習慣がなかった。店はキャッシュが欲しいからまとめ買いの交渉に応じてくれやすい。

スパイク・リー監督の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』には、そんなニューヨークの一角で韓国人が経営するスニーカーショップが出てくる。黒人が店主に「まけろよ」と言うシーンがあり、僕もそれを真似して強気に値段交渉していた。

基本的にブラックカルチャーと結び付きが強いスニーカーは、治安の悪いエリアほど、価格も安く珍しいものが残っている。だけど、車の窓ガラスを割られて、荷物を全部盗られるなんてこともあり得るし、最悪、命の危険だって伴う。

アメリカでレンタカーを借りたら、車内が見えないように、まず窓ガラスを黒いビニールで覆うのは鉄則だった。バイヤーだとわかると買い付けのための大金を持っていると勘付かれるから、服装も至極シンプル。チャンピオンのスウェットかTシャツにリーバイスの「501」、そして「エア フォース 1」を履くだけ。他の日本人バイヤーとは違い、オシャレとは程遠い格好だった。

電話帳と睨めっこしながら、そこに書いてあるスニーカーショップをしらみつぶしに回った。電話してもまず、僕たちが「〝古いスニーカー〟に興味がある」なんて理解してくれない。店の人にとっては価値のないものだし、そもそもスニーカーの在庫があるなんて恥ずかしくて言いたくないから、「Whatʼs!?」と気分を害されて、電話を切られるのがオチだ。だから一軒一軒回って、「地下の倉庫を見せてくれ」と交渉するしかない。

そして歴史を知らなければ、バイヤーは務まらない。例えば、ペンシルベニア州のピッツバーグは鉄鋼の街として栄えたけど、1970年になると鉄鋼業が衰退に転じ、工場が相次いで閉鎖された。そういった栄枯盛衰を経た街には、古い店が多く、掘り出し物が必ずと言っていいほど見つかった。

「幻のサンプル」を手に入れるまで

何軒もスニーカーショップを回っていると、セールスレップ(営業代理人)と出会う機会も多かった。アメリカは広すぎて、メーカーの営業マンだけだとカバーしきれない。だから当時は、各地の個人事業主のセールスマンがメーカーと契約し、卸先に対して営業や販売を行っていたのだ。

わざわざ卸先用のカタログを用意しているところも少なく、彼らは1セットずつ現物のサンプルを持って営業している。サンプルは自腹でメーカーから買っていて、そのシーズンの営業が終わったら役目を終える。だから、メーカーは禁じているけど、隠れて売りに出すやつが多かった。それを手に入れるためには、彼らにまず、信用されることが大切だ。

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こちらから話しかける場合もあれば、日本人の並行輸入業者だとわかると「サンプルを持っているんだけど、買ってくれないか?」と、あちらから交渉してくる場合もあった。最初はしばらく、お互いに身構えて様子をうかがっているけど、「コーヒーでも飲もう」とダンキンドーナツへ行き、だんだん打ち解けてくると本音での会話が始まるのだ。

「このモデルが欲しいんだけど、持っている?」
「売ってやってもいいけど、代わりにこっちのモデルのサンプルも買ってくれ」

そんな塩梅で、人脈を作っては、どこにもないスニーカーを手に入れていた。サンプルのサイズは27センチしかなく、数も限られているけど、ドロップする(製品化に至らない)こともあるので、そういったモデルが市場に流れると、〝幻のサンプル〟として値段も高くなっていった。

しかも、世の中にないものはいくら高くてもすぐに売れてしまう。だから本当に希少なスニーカーは、自分用に売らずにとっておくこともあった。特にナイキの「バンダルシュプリーム」と「ブレーザー」が、僕のお気に入りだった。

(本明 秀文:フットロッカー アトモス ジャパンCEO兼チーフ クリエイティブオフィサー)

本明 秀文

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