関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【後編】

関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【後編】

  • Japaaan
  • 更新日:2020/09/15
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関ヶ原の戦いに敗れ六条河原で斬首された「石田三成」には6人の子供がいた。今回は【前編】に引き続き、関ヶ原以降、三成の子供たちが歩んだ人生をご紹介する。

前回の記事

関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【前編】

三男 佐吉

6人兄弟の末っ子である「佐吉(佐吉は幼名)」は1594年頃に生まれたと考えられている。元服前のため、石田家が三男に用いた幼名だけが伝わっている。

関ヶ原の戦いの際は、祖父である石田正継と叔父である正澄と共に佐和山城にいたとされる。当初は徳川方との開城交渉によって正澄の命と引き換えに城内の人間の助命が叶うはずであったが、石田方から裏切り者が出たことによって佐和山城は落城。正継と正澄親子は自刃した。

佐吉の命も危ぶまれたが、交渉役の「津田 清幽(つだ きよふか/せいゆう)」の働きによって助命が認められる。その後は、父と縁のあった僧「木食応其(もくじきおうご)」の元で出家。

津田清幽から「清幽」という字をもらい、「深長坊清幽(しんちょうぼうせいゆう)」と名乗った。一説には1670年代まで生きたと伝わっている。

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滋賀県彦根市にある「佐和山城跡」Wikipediaより

長女 山田隼人正勝重の正室

名前・生年月日共に不明。父・三成の家臣であった「山田隼人正勝(やまだはやとのかみかつしげ)」と結婚。関ヶ原の戦いでは、夫の勝重、嫡男の宇吉郎と共に佐和山城を脱出した。

その後、勝重は父親「山田上野介」の妹が徳川家康の側室「茶阿局(ちゃあのつぼね)」であった関係から、彼女の息子で家康の六男である「松平忠輝」の家臣となり重臣に名を連ねた。勝重の隠遁後は江戸の地で暮らした。夫婦で余生を送ったという。

次女 小石殿

生年月日不明。陸奥会津藩、蒲生家の家臣「岡重政」の元に嫁ぐ。関ヶ原の前には婚姻関係にあったと考えられている。

重政が会津藩家中で起こった蒲生騒動によって死罪になると、小石殿は子供を連れて会津を離れ若狭国(福井県)へ移り住みその地で亡くなった。子供は複数いたとされ、そのうちの一人「岡吉右衛門」の娘は徳川家光の側室となった。

三女 辰姫

生まれは1598年頃と考えられている。1610年頃に弘前藩主・「津軽信枚(つがるのぶひら)」へ正室となる。詳しい経緯はわかっていないが、豊臣秀吉の正室であり辰姫の養母であった「北政所」の尽力があったと考えられている。

その後、徳川家から輿入れした満天姫によって側室に降格。上野国(群馬)大舘に移され「大舘御前(おおたちごぜん)」と名乗った。1623年に大舘で死去。信枚との関係は良好だったようで、1619年に生まれた長男平蔵は後に「津軽信義」として陸奥国弘前藩3代藩主となった。

敗戦の将としてのイメージが強い三成だが、正室との間に生まれた6子は子孫を繋ぎ現在でも血筋は続いている。また三成には側室との間にも子供がいたとされるが実証を証明できる資料はない。

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