田中角栄の事件史外伝『人生の岐路――“角栄流”乗り切り方の極意』Part3~政治評論家・小林吉弥

田中角栄の事件史外伝『人生の岐路――“角栄流”乗り切り方の極意』Part3~政治評論家・小林吉弥

  • 週刊実話Web
  • 更新日:2021/09/15
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衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

「新潟と群馬の境にある三国峠を切り崩してしまえば、日本海の季節風は太平洋側に抜けて、越後に雪は降らなくなるッ。皆が大雪に苦しめられることは、なくなるのであります! ナニ、切り崩した土は日本海へ持っていく。埋め立てて、佐渡を陸続きにさせてしまえばいいのであります」

【関連】田中角栄の事件史外伝『人生の岐路――“角栄流”乗り切り方の極意』Part2~政治評論家・小林吉弥ほか

大ボラめいた演説で、戦後第1回目の衆院選を戦った田中角栄ではあったが、あえなく落選。しかし、これにめげることなく、次の選挙にチャレンジすることになった。

田中が落選してもなお次の選挙に執念を燃やせたのは、あえて順風満帆の事業家から、先の見えない政治の世界へ転身することの高い志、強い信念、そして揺るがぬ確信の3つがあったからであった。

これまでとは違った人生に舵を切る、すなわち「岐路」の選択には、どんな時代でも、この〝3点セット〟が不可欠であることは言うまでもない。新たな道というのは、まずはデコボコ道が必至であり、これを切り拓くことへの自信がない者は、あまり人生の冒険はしないほうが得策である。

こうしたことは、後年の田中もよく口にしていた。

「勉強、努力をしたうえで、誠心誠意、全力投球でぶち当たって、初めてトビラは開く。人生に降って湧いたような僥倖などはあり得ないと知るべきだ。運もまた、こうした奴についてくる」

その田中の「岐路」を曲がることへの自信とバックボーンには、幼少時代から青年期を通じ、常に胸に影を落としていた郷里・越後新潟という土地柄の貧困があった。これを、なんとかせねばならない。

やがては「日本列島改造論」として花開く

豪雪とまともな道路がないゆえに、太平洋側の地域とは比べものにならない不便と、経済の格差がある。この克服を俺の手でと、すさまじい情熱がたぎっていた。

そして、田中のこうした発想を支えた人物が、2人いた。

1人は15歳で上京、職を転々とする中で出会った理化学研究所(「理研」)グループの総帥・大河内正敏子爵(東京帝国大学教授、貴族院議員など歴任)で、同グループは陸海軍の飛行機エンジンのピストンリング製造などを手がけ、新興財閥として知られていた。

その大河内は、一方で国土再開発に熱心で、当時流行した海外移民に対して、「農村工業」という理想を掲げていた。これは不毛の地に、農村の余剰労働力による第2次産業を喚起しようとするもので、田中は事業家時代に、この大河内による「農村工業」論に触発され、国土再開発への夢を広げたものだった。

全国に鉄道、とりわけ新幹線網、高速道路網を張り巡らせ、農村地域に第2次産業を配置するとするこの構想は、やがては「日本列島改造論」として花開くことになる。

この大河内と並び、いやむしろ田中の「岐路」をより決定づけたと思われる人物がもう1人いた。

この人物は、すでに田中が事業家として成功したときには亡くなっていたが、子供の頃から「偉い人」としてその横顔が脳裏に刻まれていた。今の新潟県三条市の生まれで、新潟県議会議員を経て、明治23(1890)年の第1回帝国議会の衆議院議員選挙に出馬、当選を果たした西潟為蔵その人であった。のちに、西潟は『新潟日報』社の専務理事も務めている。

西潟は自由民権運動に力を入れる一方、新潟県民を経済格差という現実からどう救うべきかに、心血を注いだ人物でもあった。

行政の論理に屈服しない政治家としての発想

この西潟を研究している駒沢女子大学の弥久保宏教授は、田中が政治家として強く影響を受けた人物として、次のように言っている。

「『産業ノ発達ハ道路ノ如何ニアリ』『(道路の)興利事業ヲ無視スルコト能ハズ』と主張した西潟に対し、『道路は(僻地へ)産業と文化を運んでくる窓』『雪深い集落にとって道路は命をつなぐ道』と新潟の道路整備に力を注いだ田中が、西潟の思想・哲学を引き継いだと見ている。行政の論理に屈服しない政治家としての発想、知恵の共通点もあった=要約」(月刊『プレジデント』2020年12月4日号)

田中はのちに、この西潟の「行政の論理に屈服しない」才覚を見習うように、独自の法律解釈などで、新潟県内、とりわけ選挙区内の道路を次々と整備、拡張していき、住民の利便性に寄与していった。

例えば、田中は佐渡島の国道新設を目指したことがあったが、建設省(当時)が「離島のみの国道新設は無理」と突っぱねると、「それなら新潟市、上越市とそれぞれ結ばれている佐渡との航路も、国道ルートの一部と考えればいいじゃないか」として、建設省に道路法第5条を新解釈させ、佐渡に国道を造ってしまったこともあったのである。

かくて、2人の人生の大先輩から得た〝助言〟に、さらに〝3点セット〟の自負を強めた田中は、落選翌年の総選挙に再びチャレンジすることになった。

この2回目の選挙では戦術を一変、有権者との「握手戦術」なるものを展開した。現在も各種選挙で誰もがやっている握手戦術は、じつはいまから74年前、田中角栄が初めて使った手法であることはあまり知られていない。

(本文中敬称略/Part4に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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