堀江貴文・餃子屋事件の本質はSNS時代の新興宗教型ビジネスの弊害

堀江貴文・餃子屋事件の本質はSNS時代の新興宗教型ビジネスの弊害

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/10/18
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事件の顛末

先日、タレントの堀江貴文さんが広島の餃子店に立ち入ったところ、入店時にマスクをするように求められて、質問を繰り返して餃子店店主につまみ出されていました。

その後、ムカついた堀江さんが、店名が分かるようにネットに顛末を書き記し、それを読んだ人たちが餃子店に電凸などを繰り返して一時閉店に追い込むという事件がありました。

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photo by Gettyimages

「影響力のある人は、そのような煽動的で反社会的な言動を使って読者を悪しき行為に誘発するような振る舞いは慎んだほうがいい」という話なのですが、どうも餃子店の側も世論も冗談では済まされず、被害届が出るなどして面倒な事態になりそうです。どうせなので、最後までやってくれた方がいいんじゃないかとすら思います。

これ単体は「また堀江さんが知恵の足りないファンを煽って『自分の意見は正しい』と思わせたいのだな。被害に遭った店主も可哀想に」と感想を抱きますが、実際のところ、公共の利益、公衆衛生と社会の行動変容の間にどれだけの公益性があるのかよく考えるべき問題じゃないかとも思うのです。

トランプとその支持者たちの主張もまた

公共の利益、みんなの安全に繋がる行動を促すことがなかば強制ととらえられとき、結果としてそれが『個人の判断による行動の権利の侵害だ』とか『憲法で認められた国民の自由を脅かす』という議論になりやすいのも事実です。

コロナウイルス感染拡大初期は、とにかくこの感染症はなんなのか専門家ですらはっきりとは分からなかったために、感染拡大のペースから逆算すると大変な数の日本人が感染し、高齢者や糖尿病などの基礎疾患を持つ人たち、喫煙者などには大きなリスクがあるという以上のことは分かりませんでした。

感染を怖れる人々が病院に殺到したことで院内感染のリスクが高まり、人工呼吸器が不足し、PCR検査を求める声が高まったのは、未知の問題に対する不安を国民が強く抱き、それへの対策を政治に強く求める現象のひとつでもあります。

その後、緊急事態宣言による全国的な行動「自粛」を経て、コロナに対する不安を拭い去れない人たちと、コロナ感染症は風邪程度のものでインフルエンザほどの死者を出さないのだから、経済を止めるべきではないという人たちと、による、深刻な価値観の対立を社会に及ぼすことになりました。

とりわけ、経済を重視する人たちは、11月3日のアメリカ大統領選を控えるトランプ大統領のように「感染症よりも生活が大事なのだ」と主張し、アメリカではトランプ大統領を支える共和党支持者の多い州がコロナ感染者数の圧倒的上位を占めます。

決して「共和党支持者は馬鹿の集まりなのだ」と言いたいわけではなく、感染症のような公共の利益が色濃く出るような問題においてもなお、個人の判断、個人の行動に対する自由と権利を主張する人たちが少なくない、ということです。

当然、店側はリスクを危惧する

これは、たとえ日常的にマスクをしましょうという一般的な気遣いですらも、「マスクをすると呼吸がしづらいから」という理由で、万が一自分が感染していたら他人に伝染してしまうリスクが社会的な不利益になることを知りつつ、大衆の中でもマスクをしないという行動をとります。

同様に、確かにコロナウイルスの問題はあるけれど、自分自身はそんな感染症にはならないという心理的なバイアスが働いているのかもしれません。

堀江貴文さんの一件にしても、店の立場からしたら、マスクによる効果があるかないかにかかわらず、感染症に配慮していない店舗営業をしているという風評が出るのはマイナスだ、と考えればお客様に入店から着席、食事までの間はなるだけマスクをしていてほしいと思うでしょう。

また、お店から感染症が出た、クラスターになった、という話がひとたびでれば、一次営業停止では済まないレベルで大変な騒動になってしまいます。

お店の側もお客さまも、感染症対策にマスクをすることがどれだけ必要かという科学的根拠はそこまではっきりしていないけど、社会的コンセンサスとしてマスクをするのが当然だ、と判断するのは致し方ないことなのではないかと思うのです。

これは社会からの抑圧ではない

さて、そのような気づかいをしたり、他人に求めることは果たして「同調圧力」なのだと言えるのでしょうか。

この社会で感染症対策をするために一人ひとりができることは、せいぜい手をこまめに洗うことと、マスクをきちんとすること、他の人との距離を取り、大声で喋らないことぐらいです。これらの「感染症になりにくい生活を送るための知恵」を自身や隣人、社会全体に対して行き届かせることは、本当に個人の自由や権利を制限するものなのでしょうか。

私たちが社会生活を送るうえで「これを守っているから安心なのだ」と考えて行動することは社会からの抑圧なのでしょうか。

これらの「マスクは要らない」「コロナは風邪だ」という言説は、公衆衛生がどうだとか、医療の臨床の現場ななんだという話とは別に、個人主義を掲げて社会の抑圧、束縛からの開放というテーマを人々に投げかけて支持を得ようとしています。

単純な話、常識を疑え、権威を否定しろ、と言っている人が、コロナの脅威を軽く判断し感染症対策を進めて、不幸にしてウイルスをもらってしまう人たちを減らす社会的活動を阻害している面は強くあります。

蓋を開けてみると、まともな社会人や知識人は相応にコロナウイルス感染拡大のリスクと向き合う必要から「感染症対策をしながら経済をきちんと回していく必要性」を説いています。

感染症を根絶することは困難だし、リスクは決してゼロにはならないのだから、不必要に感染拡大しないような配慮をしつつ、その中で最大限の経済活動をしていくにはどうするかを考えるのが、本来の社会の知恵であり、保守主義的な思考でしょう。

「過激で扇動的な個人主義」を売り物に

しかしながら、マスク着用の是非について餃子店の店主にまでクレームを入れ、過激な煽動をしながら個人主義を掲げて商売にし、自らの本を売りサロンをやっている人たちの中には、同じように「大学など学歴は不要」「スキを仕事にしろ」「会社員で我慢する必要はない」「まだ東京で消耗しているの」など、人々の日常的な不安や不満を社会的な抑圧に結びつけ、精神の開放に導くような無責任な言動を繰り返します。

文字通り「ハーメルンの笛吹き」であって、誰しもが生きていくうえで抱える孤独や不安、人間関係の悩みなどに対して、断定的な口調で開放できると説いているのは不毛です。

信仰なき現代が価値観を見失って、経済成長が終わって日本人が不安でいっぱいなところへ新たな新興宗教でも立ち上げているかのような振る舞いであって、過激な言動でかき集めた不安を持つ信者に、粗雑な教典を高値で売りつけるビジネスをやっているにすぎないのではないかと思います。

さらには、最近ではこの手の新興宗教じみたビジネスをSNSなどで批判をすると、それが権利侵害だと言って、程度の低い弁護士が訴訟を乱発して、酷評を封じようとする事例まで発生しています。

どうも、消費者金融業者に対する過払い金返還訴訟や、個人による東京電力原発賠償訴訟のような儲けのネタだと思い込んでいるようですが、不安を抱える人の無知につけこむ悪質な情報商材ビジネスまがいでも、平然とできてしまう当たり屋のような行為には、戦慄を覚えます。

マスク着用や手洗いの励行のような、感染症対策のためのコンセンサスでさえ、彼らからしてみれば、信者にアピールするためのクレームのネタになってしまっている現状は憂慮するほかありません。

エチケットやマナーのようなものにまで、権利や自由を援用しようとするのはみっともない話ですし、自分1人が病気になるものではなく、他人を確実に巻き込む感染症のような問題で、レベルの低い老害2.0じみたマスク論争をするのは、控えたほうが良いのではないかと思います。

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