
西鉄ライオンズ時代の河合保彦選手
九州一の歓楽街として名高い博多・中洲の一角、飲食店が軒を連ねる人形小路に、老舗バー「ROKU」がある。一人で切り盛りするのは、河合磨知子さん(87)。1970(昭和45)年、プロ野球選手だった夫の保彦さんが店を始めて半世紀余り。コロナ禍で約1年半の休業を余儀なくされたが、常連客らの強い後押しもあって、今日も手料理や酒を振る舞っている。

河合保彦は1933(昭和8)年、各務原市那加生まれ。49年岐阜高校に進学し、硬式野球部に入部する。
今年創立150周年を迎える岐阜高校は、県内最古の歴史を有し、県内トップ、全国でも屈指の進学校として知られる。夏の全国大会予選には1915(大正4)年の第1回大会予選に、岐阜県勢としては斐太とともに初参加。その後、現在まで夏の予選に参加し続けている全国15校しかない皆勤校の1校。甲子園には春3回、夏3回出場している。
河合の入学した49年、連合国軍総司令部(GHQ)の強い指導で、通学校を地域区分で割り当てる小学区制が実施された。戦前から岐阜高とともに岐阜高校球界の両雄だった名門岐阜商は、新設された長良高の商業科となった。選手も含めた多くの生徒が地元の高校に転校を余儀なくされ、大混乱となった。
住所を移して岐阜高に通うことになった河合は、すぐに頭角を現し、1年生の夏の県大会では準決勝の多治見工戦から出場。決勝の宿敵・長良戦には7番レフトでスタメン出場した。長良はレギュラーのうち4人が岐阜高からの転校組だった。チームは7-5で勝利。当時行われていた三重県勢との三岐大会に進出し、四日市工を4-1で破って2年連続の甲子園切符を獲得した。河合は初回に2点タイムリーを放つ活躍を見せた。

甲子園大会ではエース花井悠投手(後に慶応大、西鉄)、森和彦中堅手(森昌彦=祇晶の実兄、元阪急)らとともに、帯広、柳井、倉敷工を破って決勝に進出。後に野球解説者となる佐々木信也左翼手を擁する湘南に3-5で敗れ、惜しくも初の優勝旗を逃した。
河合は捕手にコンバートされ4番に座ったが、2年生の夏は1回戦で長良、3年生の夏は大垣北に敗れ、甲子園出場はならなかった。
高校卒業後の1952年に名古屋(現中日)ドラゴンズに入団。1年目から1軍公式戦に出場した。エース杉下茂らとバッテリーを組み、54年には68試合に出場してリーグ初優勝に貢献。西鉄ライオンズとの日本シリーズでも3試合で先発マスクをかぶり、12打数3安打を記録。チームは初の日本一に輝いた。

〝魔球〟と言われた杉下のフォークボールを球種として完成させたのは、どう変化するか分からない投球練習にとことん付き合った女房役河合の手柄だった。マスクやプロテクターを着けていても、傷だらけになったという。
1959年、金銭トレードで西鉄ライオンズに移籍。当時の西鉄は三原監督のもと、鉄腕稲尾、怪童中西、豊田、高倉、仰木、玉造ら個性的なメンバーを擁した野武士軍団で、平和台球場を本拠地に数々の伝説をつくった。
56年からパ・リーグ3連覇、日本シリーズでも水原監督率いる巨人軍を破り3年連続日本一に輝き、黄金時代を築いた。特に58年には稲尾投手の大活躍で3連敗後に奇跡の4連勝を果たし、「神様・仏様・稲尾様」と、今も語り継がれている。

磨知子さんとはお見合い結婚。磨知子さんは女子美術大学短大部卒業まで東京を離れたことがなく、親戚知人のいない九州は不安で仕方なかった。岐阜で結婚式を挙げたのは59年シーズン後の10月。すぐに九州に来た。「周りがいい人ばかりで、やってこれた」と話す。
ドラゴンズ時代はほとんど酒を飲めなかった河合だが、ライオンズでは引っ越しを済ませて荷物をほどく間もなく、「おい、飲みに行くぞ」と中洲に連れ出された。すっかり酒の味を覚えた。歳も近く、豪快で時間を守らないような選手が多かった。長身でハンサムな河合は、女性ファンにもてたという。
店名「ROKU」の由来は、ドラゴンズ時代の背番号が「6」。ライオンズでは「26」。二軍コーチ時代は「63」で、6という数字に縁があった。性格は温厚で怒ったことがなく、いつしか「ロクさん」と呼ばれるようになった。70年に、自分でバーの経営者となったとき、ニックネームにちなんで店名にした。の店内には、63年、西鉄最後のリーグ優勝時に本拠地平和台球場で撮った集合写真が飾られている。
河合はあくまで経営者で、別に人を使っていた。磨知子さんも一切店に出なかった。2人の息子の子育てに専念していた。
ラジオの解説者もしていた河合だが、84年、突然病魔におかされる。肝臓に癌が見つかり、入院。磨知子さんは、病室に仲間たちが大勢集まり、一緒に見た花火大会が忘れられないという。わずか3か月後に急死。死の20分前まで話をしていた。50歳の若さだった。
途方に暮れた磨知子さんだったが、勧められて自分で店を続けることにした。最初は「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」の言い方さえ分からなかった。お客さんに恵まれ、どうにか今日まで続けられた。
今は廃刊となったフクニチ新聞の特集記事を、磨知子さんが保存していた。「〝仏のロクさん〟安らかに」「ライオンズ魂 博多に眠る」の大見出し。「その名が示す通り誰からも好かれた。これほど悪口のない人も珍しい」という。

プロ野球では通算16シーズン(中日7年、西鉄9年)で1071試合に出場。打数2396、安打507、本塁打58、盗塁28、四死球244、三振642、生涯打率2割1分2厘。
孫を見ないうちに亡くなった河合だが、岐阜市でイタリア料理店を営む次男・宏樹さんの長女は岐阜高校に進んだ。磨知子さんはその姿を見せたかったという。
父親について次男の宏樹さんは「ノーと言えない人でした。やってくれと言われると、どんなことでも応えてしまう人でした」と振り返る。
河合が野球に打ち込んだ岐阜高校は、今年創立150周年。5月21日には、これを記念した野球の試合が行われた。対戦相手は、岐阜高校と同じく夏の甲子園予選に第1回から出場している青山学院高等部。磨知子さんの母校でもある。

この試合を最も観戦したかったのは、岐阜高校からプロに進み、仏のロクさんと呼ばれた河合保彦だったのではないだろうか。河合の遺骨は各務原市の菩提寺と分骨し、博多に眠っている。