
いまや世界中のボクシングファン・関係者の注目を集めるWBC・WBO世界スーパーバンタム級統一王者の井上尚弥選手。だが、彼とて弱肉強食のボクシング界において、最初から「怪物」たりえたわけではなかった。井上選手がいかにして「本物の怪物」に進化していったのか。対戦相手たちの証言を元に、その強さの秘密、闘うことの意味について綴ったのが『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(森合正範著、講談社刊)だ。
「井上尚弥と闘ったことで自分は世界王者になれた」と公言する、井上の4戦目の対戦相手・田口良一の物語を特別公開する。

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とんでもない選手がいる
「本気で殺しにきている……」
多くの練習生が手を止め、一歩二歩とリングに歩み寄ってきた。腕を組んで見つめるトレーナーもいる。離れた場所から視線だけ向けているジム生もいた。
田口良一は開始のブザーが鳴る前、注目されているのを感じた。
二〇一二年五月二十二日、東京・五反田のワタナベジム。
これからスパーリングが始まろうとしていた。
約二ヵ月前の三月十二日、田口は初めて日本タイトルマッチに挑んだ。デビュー九連勝の後、初黒星を喫し、再び七連勝でようやく巡ってきたチャンス。ライトフライ級王者の黒田雅之と対戦し、惜しくも一―一のドロー。あと一歩で王座に届かなかった。引き分けは王座防衛でチャンピオンの勝ちに等しい。田口から見れば、負けも同然だ。以降、なかなか気持ちが入らない。これまで週六回通っていたジムにも、週三回ほどしか足が向かなくなっていた。
そんなとき、スパーリングのオファーがあり、トレーナーの石原雄太から相手を伝えられた。
「井上尚弥君だから」
その名前に聞き覚えがあった。
「アマチュアにとんでもない選手がいるらしい」
経験したことのない重さだった
噂は耳に入っていた。井上は高校を卒業し、十九歳になったばかりだという。
田口は日本タイトルマッチの後、これが初めてのスパーリング。だが、日本ランク一位の自負がある。プロ十八戦をこなし、六年目の二十五歳。過去には世界王者の井岡一翔、八重樫東ともスパーリングで拳を交えたことがある。

現役時代の田口さん。日本ボクシング史に名前を刻んだ一人だ(Gettyimages)
ウォーミングアップを終え、試合の八オンスよりも大きい十四オンスのグローブを着けた。久しぶりの感覚だ。ヘッドギアをかぶり、四ラウンドの約束で開始のブザーが鳴った。
対峙するや否や、井上が猛然と襲いかかってくる。
「うん!?」。一瞬の戸惑い。まるでダッシュをしてきたかのように距離を詰められた。ジャブから右ストレート、ボディーにもパンチが伸びてくる。相手の手が止まらない。その一発一発が経験したことのない重さだった。
「そう、いいよ!」
井上のコーナーから父・真吾の少し甲高い声が聞こえた。
田口は防戦一方になった。そして、ボクシングをやってきて初めて思った。
「俺のこと、本気で殺しにきている……」
殺気を感じた。
再びワンツー、左フック、またもワンツーを食らう。攻撃に間がない。まさに間髪を容れず、パンチが飛んでくる。浴びるままに崩れ落ち、田口は尻餅をつくようにリング上を転がった。
ダウン。
何事か。有望選手がアマチュア選手に倒された。ジム内はざわつき、視線が田口に集中する。
「おい、大丈夫か?」
コーナーにいた石原は歩み寄り、田口に声を掛けた。これまで試合はもちろん、スパーリングでもダウンを喫したことがなかった。初めての事態だ。
ダウンを奪った井上は特に驚く様子もなく、自身のコーナーに戻り、相手がダメージから回復するのを待っている。
田口は立ち上がると、少しリング上を歩き、両手でロープをつかんで背筋を伸ばした。距離を詰められ、戸惑っているうちに、三分間全力で殴られているような感覚に陥った。一瞬の隙もない。圧倒され、一ラウンドが終わった。
第二ラウンド。
試合以上と言ってもいい、激しい打ち合いになった。井上の左アッパー二連発で田口のガードはこじ開けられた。ワンツーから左フックをもらい、後ずさりする。その瞬間、すぐに距離を詰められ、連打を浴びた。もうガードで精いっぱいだ。
「ストップ、ストップ!」
石原が大きな声で叫んだ。
スタンディングダウン。
田口はコーナーに向かって歩き、ゆっくりと首を回した。
「やらせてください!」
第三ラウンドも同じような展開だった。ヘッドギアをしているとはいえ、田口のダメージは蓄積しているように見えた。
「田口、もうやめよう」
石原が言った。
「やります。やらせてください!」
田口の言葉に、石原は首を振った。
四ラウンドの予定が三ラウンドで打ち切られた。こんなにやられるとは想像さえしなかった。相手は六歳年下。プロデビュー前の選手に倒された。驚いた。悔しかった。しかも大勢のギャラリーが見ている。恥ずかしい……。
ヘッドギアとグローブを外すと、田口は石原にぼそりと言った。
「ちょっとトイレに行ってきます」
この場から一刻も早く去りたかった。練習場のフロアを出て、階段の踊り場へ。誰もいない。一人になれた。すると、涙が溢れてきた。
「俺はこんなにコテンパンにやられて、今後どうなってしまうんだろう。彼がプロに来たら、俺はもう上に行けないじゃないか。きっと無理だ。もう終わりだ。日本タイトルにも挑戦したばかりだし、もうチャンピオンになるのは無理だ……」
「絶望」の文字が浮かんでくる。未来は閉ざされた。
何分いただろうか。
しばらく踊り場で泣いていた。
(田口良一が井上戦をさらに振り返る後編に続く)
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