「井上尚弥選手のパンチは経験したことのない重みだった...」元世界王者・田口良一が振り返る怪物の殺気

「井上尚弥選手のパンチは経験したことのない重みだった...」元世界王者・田口良一が振り返る怪物の殺気

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2023/11/21
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いまや世界中のボクシングファン・関係者の注目を集めるWBC・WBO世界スーパーバンタム級統一王者の井上尚弥選手。だが、彼とて弱肉強食のボクシング界において、最初から「怪物」たりえたわけではなかった。井上選手がいかにして「本物の怪物」に進化していったのか。対戦相手たちの証言を元に、その強さの秘密、闘うことの意味について綴ったのが『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(森合正範著、講談社刊)だ。

「井上尚弥と闘ったことで自分は世界王者になれた」と公言する、井上の4戦目の対戦相手・田口良一の物語を特別公開する。

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とんでもない選手がいる

「本気で殺しにきている……」

多くの練習生が手を止め、一歩二歩とリングに歩み寄ってきた。腕を組んで見つめるトレーナーもいる。離れた場所から視線だけ向けているジム生もいた。

田口良一は開始のブザーが鳴る前、注目されているのを感じた。

二〇一二年五月二十二日、東京・五反田のワタナベジム。

これからスパーリングが始まろうとしていた。

約二ヵ月前の三月十二日、田口は初めて日本タイトルマッチに挑んだ。デビュー九連勝の後、初黒星を喫し、再び七連勝でようやく巡ってきたチャンス。ライトフライ級王者の黒田雅之と対戦し、惜しくも一―一のドロー。あと一歩で王座に届かなかった。引き分けは王座防衛でチャンピオンの勝ちに等しい。田口から見れば、負けも同然だ。以降、なかなか気持ちが入らない。これまで週六回通っていたジムにも、週三回ほどしか足が向かなくなっていた。

そんなとき、スパーリングのオファーがあり、トレーナーの石原雄太から相手を伝えられた。

「井上尚弥君だから」

その名前に聞き覚えがあった。

「アマチュアにとんでもない選手がいるらしい」

経験したことのない重さだった

噂は耳に入っていた。井上は高校を卒業し、十九歳になったばかりだという。

田口は日本タイトルマッチの後、これが初めてのスパーリング。だが、日本ランク一位の自負がある。プロ十八戦をこなし、六年目の二十五歳。過去には世界王者の井岡一翔、八重樫東ともスパーリングで拳を交えたことがある。

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現役時代の田口さん。日本ボクシング史に名前を刻んだ一人だ(Gettyimages)

ウォーミングアップを終え、試合の八オンスよりも大きい十四オンスのグローブを着けた。久しぶりの感覚だ。ヘッドギアをかぶり、四ラウンドの約束で開始のブザーが鳴った。

対峙するや否や、井上が猛然と襲いかかってくる。

「うん!?」。一瞬の戸惑い。まるでダッシュをしてきたかのように距離を詰められた。ジャブから右ストレート、ボディーにもパンチが伸びてくる。相手の手が止まらない。その一発一発が経験したことのない重さだった。

「そう、いいよ!」

井上のコーナーから父・真吾の少し甲高い声が聞こえた。

田口は防戦一方になった。そして、ボクシングをやってきて初めて思った。

「俺のこと、本気で殺しにきている……」

殺気を感じた。

再びワンツー、左フック、またもワンツーを食らう。攻撃に間がない。まさに間髪を容れず、パンチが飛んでくる。浴びるままに崩れ落ち、田口は尻餅をつくようにリング上を転がった。

ダウン。

何事か。有望選手がアマチュア選手に倒された。ジム内はざわつき、視線が田口に集中する。

「おい、大丈夫か?」

コーナーにいた石原は歩み寄り、田口に声を掛けた。これまで試合はもちろん、スパーリングでもダウンを喫したことがなかった。初めての事態だ。

ダウンを奪った井上は特に驚く様子もなく、自身のコーナーに戻り、相手がダメージから回復するのを待っている。

田口は立ち上がると、少しリング上を歩き、両手でロープをつかんで背筋を伸ばした。距離を詰められ、戸惑っているうちに、三分間全力で殴られているような感覚に陥った。一瞬の隙もない。圧倒され、一ラウンドが終わった。

第二ラウンド。

試合以上と言ってもいい、激しい打ち合いになった。井上の左アッパー二連発で田口のガードはこじ開けられた。ワンツーから左フックをもらい、後ずさりする。その瞬間、すぐに距離を詰められ、連打を浴びた。もうガードで精いっぱいだ。

「ストップ、ストップ!」

石原が大きな声で叫んだ。

スタンディングダウン。

田口はコーナーに向かって歩き、ゆっくりと首を回した。

「やらせてください!」

第三ラウンドも同じような展開だった。ヘッドギアをしているとはいえ、田口のダメージは蓄積しているように見えた。

「田口、もうやめよう」

石原が言った。

「やります。やらせてください!」

田口の言葉に、石原は首を振った。

四ラウンドの予定が三ラウンドで打ち切られた。こんなにやられるとは想像さえしなかった。相手は六歳年下。プロデビュー前の選手に倒された。驚いた。悔しかった。しかも大勢のギャラリーが見ている。恥ずかしい……。

ヘッドギアとグローブを外すと、田口は石原にぼそりと言った。

「ちょっとトイレに行ってきます」

この場から一刻も早く去りたかった。練習場のフロアを出て、階段の踊り場へ。誰もいない。一人になれた。すると、涙が溢れてきた。

「俺はこんなにコテンパンにやられて、今後どうなってしまうんだろう。彼がプロに来たら、俺はもう上に行けないじゃないか。きっと無理だ。もう終わりだ。日本タイトルにも挑戦したばかりだし、もうチャンピオンになるのは無理だ……」

「絶望」の文字が浮かんでくる。未来は閉ざされた。

何分いただろうか。

しばらく踊り場で泣いていた。

(田口良一が井上戦をさらに振り返る後編に続く

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