
2010年まで横浜でプレーした下窪陽介さん【写真:本人提供】
鹿実で選抜V…下窪陽介さんは日大で外野手に転向した
1996年選抜高校野球大会で鹿児島実業のエース、下窪陽介さんは大会中に2段モーションを注意され、1段モーションへフォームを修正。優勝投手となった。夏の鹿児島大会も制し、春夏連続で甲子園出場を果たしたが、右肩を痛めるアクシデントに見舞われた。大学では途中から外野に転向し、社会人を経て横浜(DeNA)入りした。打者として成功する要素に「自分がどういう選手なのかをいち早く知ること」をあげる。社会人にその答えを見つけ、才能が開花したという。
鹿実のエースとして春夏連続で甲子園出場を果たした下窪さん。しかし、夏の鹿児島大会優勝後、休日明けの練習では右肩の痛みでキャッチボールすらまともにできなくなっていたという。「痛くて投げられないというのはそれまでありませんでした。最近よく思うのは、2段モーションと1段モーションのズレが原因でそうなったということ。左足がマウンドに着いた時に、右腕が2段モーションの時のように上まで上がり切れていなかった。無理して上まで上げようとして投げていたから、右肩に負担がきたんじゃないかなと思っています」。
夏の甲子園では右肩痛を押して登板も、本来の球威にはほど遠く、準々決勝の松山商(愛媛)戦で2回までに4点を失うなど、5失点敗退。進学した日大でも当初はリハビリの日々を過ごした。完治こそしたが、足が速かったこともあり、鈴木博識監督(当時、現茨城・鹿島学園監督)からは投打の二刀流を勧められた。
それまで投手しか経験してこなかった下窪さんにとって、野手は未知の世界。打撃に関しては、バットを振る量を増やすとともに、同級生だった尾形佳紀さん(現広島スカウト)らにタイミングの取り方や狙い球の絞り方、足の上げ方などを聞き、対応に努めた。
「まずは自分がどういうタイプのバッターなのか知ること」
最も苦労したのは外野の守備だった。投手のように一定の投げ方ではなく、時にはクイックや横からなど、状況に応じてスローイングの種類を変えることが要求され、次第に「ピッチングができなくなった」という。そして3年から外野手一本に専念した。「大学時代はまだ野手の体になれていなくて、盗塁の時とかによく肉離れをしました。(投手と野手)2つやるって難しいし、大谷翔平は凄いなと思います」。
打撃の才能が開花したのは社会人の日本通運時代だった。右打者の下窪さんは逆方向の「センターから右に強く打つ」ことを徹底し、4番打者として6年連続都市対抗出場に貢献。27歳だった2006年、大学社会人ドラフト5巡目で横浜に指名された。実働は4年と短かったが、プロの世界を経験できたことは下窪さんの誇りだ。
投手から野手に転向する選手たちへ。下窪さんが大事にしてほしいのは「自分がどういう選手なのかをいち早く知ること」だという。「どれだけバットを振るか、ボールを打つかは大事だけど、まずは自分がどういうタイプのバッターなのかを知ること。自分は大学の時、その答えが見つからなかった。その判断が早いほど、結果も変わってくると思います」。
投手への未練がなかった訳ではない。ただ、それでも野手として努力を重ね、プロにまでなった下窪さんだからこそ、その言葉には重みがある。(内田勝治 / Katsuharu Uchida)