史上最悪の大量殺人「津山三十人殺し」猟銃と日本刀で村人を襲った男の真実

史上最悪の大量殺人「津山三十人殺し」猟銃と日本刀で村人を襲った男の真実

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/10/16
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一晩で30人を手にかけた「大量殺人」

1938年、岡山と鳥取の県境にある山間の村で、深夜のわずか1時間あまりの間にたった一人の若者の手で、30人の老若男女が惨殺された。世にいう“津山三十人殺し(津山事件)”である。

横溝正史の金田一耕助シリーズ『八つ墓村』のモデルになった事件といえばピンとくるだろうか。

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徐州陥落に沸く日中戦争のさなかであるにもかかわらず、事件の報は日本中の人々を震撼させ、当時の新聞は一面で事件の詳細を伝え続けた。

しかし犯人は警察に逮捕されることなく、事件直後に近くの山中で自ら命を絶った。このため、事件の詳細は明かされないまま、警察の捜査は中止された。

その後も事件の詳細が不明のままだった最大の理由は、警察の捜査資料をまとめた「津山事件報告書」が、戦後しばらく閲覧できなくなっていたからだ。そのため1970年代から80年代にかけて、松本清張や筑波昭らの著作が事件を伝える主な資料として取り上げられ、事実関係が曖昧なまま事件の原因や経緯をめぐって様々な俗説が飛び交った。中には犯人の若者をダークヒーローとして崇拝する者まで現れた。

ただ最近の市民の調査によって、筑波昭の著作には創作の箇所が少なからず含まれていることが判明。バイブルだと思われた資料の信頼性が失われ、事件の解明はますます混迷を極めた。

私は2000年頃から最近まで断続的に現地取材を重ね、犯人の家族の係累を調査し、実際に襲撃されて命拾いした被害者のインタビューを行った。そして、アメリカ西部の大学図書館に所蔵されていた「津山事件報告書」を見つけ、それまでの定説とは異なる事件の真相にたどり着いた。

82年前の大量殺人の真相をここに伝えよう。

最初に襲ったのは、実の祖母

事件は、1938(昭和13)年5月21日、中国山地にある西加茂村(現在は津山市)の貝尾集落で発生した。当時の貝尾の人口はわずか111人。全22戸のうち10戸(他に隣接の村で1戸)が襲撃を受け、一晩で村人の3分の1近くが命を失った。

犯人は貝尾在住の青年、都井睦雄(とい むつお・22)。事件が起きたのは午前1時半頃、朧月夜だったという。

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都井睦雄[ウィキメディアコモンズ]

5月20日の夕方、まず睦雄は犯行前に村へ通じる電線を切断し、村を暗闇につつんだ。

夜半過ぎ、睦雄は黒セルの詰襟服(学生服のようなもの)を着込み、茶褐色の巻きゲートル(脛に巻く布。怪我やうっ血を防ぐ)を装着した。足には地下足袋を履き、二つの懐中電灯を取り付けた鉢巻を頭に巻いた。首からは自転車用ライトを紐で吊り下げ、薬莢や弾薬を入れた雑嚢(リュックのようなもの)を左肩から右脇にかけた。

凶器の日本刀一振、匕首(小型ナイフ)二口は左腰に差し、上から革の帯で締めて、刀が揺れすぎないように整えた。また自ら改造した9連発の猟銃と銃弾約100個を携帯すると、あらかじめ磨いておいた大きな斧を両手で握り締めた。

殺戮の準備は整った。

睦雄はまず、同居する祖母のいね(80)の寝所へ向かった。そして、その首めがけて巨大な斧を振り下ろした。とっさにいねは、枕カバー代わりの手拭いの端をぐいっと噛み締めた。睦雄は老女の首を一刀両断…できなかった。睦雄は祖母の頸部めがけて数回にわたって斧を振り下ろした。何度目かでようやくいねの首は胴体を離れた。頸部の肉は損傷がひどく、出血も激しかったため、いねの寝床は血みどろになった。

彼が最初に選んだ犠牲者は、自分を長らく育ててくれた祖母だった。首がちぎれるまで幾度も斧を振ったということは、祖母に対する睦雄の恐怖や敵意が尋常ではなかったことを意味する。どうやら睦雄はこの祖母をとても憎んでいたようで、絶対に生き返らないように、首が胴体から離れるまで安心できなかった。

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なぜ睦雄は育ててくれた祖母をここまで恨んだのだろうか。後述するが、睦雄の祖母に対する一連の行為は、犯行動機と密接に結びついていたと考えられる。

戦前の日本には、いまだに「夜這い」の文化が残っていた。特に貝尾のような山間部の集落は娯楽が少ないため、村内で男女関係が複雑に結ばれていたとされる。睦雄も何人もの村の女性に夜這いをかけていた。被害者の多くは、彼と性的関係があって、肺病(肋膜炎)を患った睦雄を馬鹿にしたり、笑いものにした女性とその家族だったという。

その後、睦雄は頭と胸のライトを点けて、闇夜の中、貝尾集落中の家を次々と襲撃した。恨みの少ない相手は急所を1発で撃ち抜き仕留めたが、強い恨みを抱いた相手には、子供であっても容赦せず、急所へ多数の直撃弾や刀傷を負わせた。その惨劇の模様をご紹介しよう。

独特な方法で「確実に」射殺する

最初に襲撃した家は、都井家と敷地が隣接する岸田勝之家(戸主の勝之は不在)だった。当時の貝尾には、夜間にカギをかけている家はなかった。

睦雄は半狂乱となって岸田家の納戸に躍り込むと、そこで寝ていた勝之の母つきよ(50)、弟の吉男(14)、守(11)を日本刀で斬りつけて、殺害した。

かつて睦雄はつきよに夜這いをかけたものの、断られたうえ、近所の人たちに面白おかしく暴露されたため、相当恨んでいた。また勝之と睦雄は同年代で仲が良かったものの、勝之は徴兵検査を優秀な成績で合格していたので、周りから病弱と馬鹿にされていた睦雄は強い引け目を感じていた。

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襲撃2軒目は、西川秀司家だった。睦雄は表座敷から堂々と侵入し手前の四畳間に寝ていた西川トメ(43)の上腹目がけて猟銃を発射。トメは一撃で絶命した。このトメは貝尾でも好色で知られ、睦雄からお金を巻き上げて性的な関係を持ったこともあった。

しかし徴兵検査で睦雄に肺尖カタル(伝染性の肺病)が見つかってからは、彼の夜這いの様子を村の女たちに暴露して「マヌケ」と笑い者にしていた。このような女たちの嘲笑が睦雄の誇りを傷つけ、犯行の大きな原因となった。

睦雄は続いてトメの夫の秀司(50)、長女の良子(23)、妹の千鶴子(24)を銃弾の餌食にした。いずれも1発から2発で絶命させている。

睦雄は犯行前に入念に撃ち方を練習していたようだ。闇夜にもかかわらず、睦雄が被害者を1、2発で絶命させることができたのは、右腹の肋骨の下の部分から上方の急所である心臓へ向けて、確実に銃弾を命中させたからである。

胸の上から心臓を狙っても、銃弾は肋骨に阻まれる。そこで、右下腹部から上方へ向けて銃弾を撃ち込むことで、肋骨の下を通って心臓を直撃できる。この右脇腹下のことを右季肋下方というため、私は睦雄のこの撃ち方を「右季肋下方撃ち」と呼ぶことにしている。

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3軒目のターゲットは、勝之家の下隣に位置する岸田高司家だった。睦雄は土間から侵入すると、岸田高司(22)と内妻の智恵(20)を右季肋下方撃ちで殺害。智恵は妊娠6ヵ月で、この胎児を被害者に含めると、実に「三十一人殺し」となる。この2人は西川トメの縁者だった。

隣の部屋には高司の母(70)と甥(18)が寝ていたが、やはり睦雄の猟銃の被害者となった。

(文中、「都井睦雄」以外は仮名を用いています)

参考文献
石川清『津山三十人殺し最後の真相』、ミリオン出版、2011年
石川清『津山三十人殺し七十六年目の真実』、学研プラス、2014年

睦雄の凶行はまだまだ続く…。生き残った被害者へのインタビューを含む後編の記事はこちら→「津山三十人殺し」の生き残りが語った、大量殺人鬼・都井睦雄の素顔

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