「死ぬ間際まで平和を」 被爆体験つづる95歳の思い

「死ぬ間際まで平和を」 被爆体験つづる95歳の思い

  • 毎日新聞
  • 更新日:2022/08/06
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原爆慰霊碑を訪れ目頭を押さえる鈴木郁江さん=広島市中区で2022年8月6日午前4時47分、山田尚弘撮影

残された時間が限られる中、惨禍の記憶を後世にとどめようと急ぐ被爆者は少なくない。2021年に証言録を出版した神奈川県座間市の鈴木郁江さん(95)もその一人。6日には、最高齢の遺族代表として、広島の平和記念式典に初めて参加し、自分が被爆した当時の場所も約半世紀ぶりに訪れた。何が背中を押したのか。

【写真】広島平和式典 祈りと厳戒態勢と

「頑張って生きるからね。生きて平和を訴えるからね」。式典終了後の6日昼の炎天下、鈴木さんは、同居する次女の山本緑さん(68)に車椅子を押されて、広島赤十字・原爆病院(広島市中区)を訪ねた。1945年8月6日は、看護師の見習として、同病院の敷地にあった寄宿舎で被爆した。被爆死した旧友らの名前が刻まれた石碑に語りかけながら、手で優しく何度もなでた。

あの日、寄宿舎で仲良しの女友達とおしゃべりをしていた時、突然「死の光」に襲われた。爆心地から約1・5キロ。「ピカドンと言うけれど、ピカッとした瞬間、意識を失ったんです」

叫び声で目を覚ますと、柱の下敷きで身動きが取れない。その時、がれきの隙間(すきま)から一筋の光が差し込んだ。「生きなきゃいけない」。一心不乱にもがき、光に向かってはいずり出た。

その後の記憶は断片的だ。一緒におしゃべりをしていた友達を捜して焼け野原を歩き回った。夜になり、一帯では積み上げられた遺体が焼かれ、青い炎が上がっていた。不思議と恐怖は感じず、ぼんやりと見つめたことを覚えている。後日、友達は焼死したと知った。

被爆後は健康被害に襲われた。体がだるくて貧血で立っていられず、看護師の夢を断たれた。広島県甲山町(現世羅町)の実家に戻り、5年後に結婚。4人の子を身ごもったが、うち1人は妊娠6カ月で死産した。偏見を恐れ、被爆したことを進んで語ることはなく、結婚してしばらくは夫にも黙っていた。

5歳上の姉は原爆投下後、鈴木さんを捜して広島市に入り、入市被爆した。快活で、剣道の稽古(けいこ)にも打ち込んでいたが、床にふせることが多くなり8年後、がんのため31歳で亡くなった。

体験を公の場で発信することはほとんどなかったが、被爆から74年後の19年に転機が訪れた。緑さんと近所付き合いのあった小学校教諭から、学校での被爆証言を依頼された。記憶をたどりながら、当時を語る様子を教諭が撮影。映像は、神奈川県大和市立小の6年生約70人に授業で紹介された。

後日、感想文の束が届いた。「鈴木さんから聞いたことを自分の妹にも伝えたい」などと率直な感想がつづられ、胸を打たれた。

さらにその年、緑さんが入る神奈川県原爆被災者の会の「二世・三世支部」メンバーから、証言録を出しては、と勧められた。「伝えなきゃいけないことがあったのに、今まで何をしていたんだろう」。児童たちが寄せた感想文にも背を押され、出版を決意した。

緑さんらが同年7~11月、鈴木さんに3回にわたってインタビューを行って内容をまとめ、21年1月に自費出版した。書名は「光に救われた命」。あの日、がれきの隙間から差し込んだ日の光のことだ。「いまだに人との争いごとはなくなりません。それも武器を持っての争いです。私はこのことも、大人や子どもに問いかけていきたい」と継承への決意が語られている。

鈴木さんは取材に「原爆の恐ろしさは人間を人間でなくすること。死ぬ間際まで平和を訴え続けていきたい」と力を込めた。【安徳祐】

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