まさにゼロからのスタートだった。上田誠仁・元監督(64)は1985年4月、山梨学院大陸上部の創部と同時に、指揮官となった。チームも無名なら、選手たちも無名。そんな雑草集団を率い、わずか2年で予選会を突破し、7年で初優勝を果たした。

(写真:読売新聞)
■「右端を突き抜けろ」予選会突破の秘策…1985~2019年、総合V3回
「山梨県の大学が関東学連所属なのも知らなかった。本当に時の利、地の利、人の利に恵まれました」
時の利が86年。箱根駅伝は翌年正月から日本テレビによる生中継がスタート。2年目のチームは「絶対箱根に出よう」と盛り上がった。ただ、厳しい練習を課すと、師弟関係がギクシャクした。「夏合宿の途中から選手が不満を言い出して。全員に退部届を書かせ、面談して、改めて入部届を出させました」
覚悟を決めたチームは着実に力をつけ、迎えた秋の予選会。そこでは実績のある大学が前方に並ぶ。「スタートラインまでに1人10秒ロスする。それじゃ通過は無理」。打った秘策が「キャプテンを先頭に右端を突き抜けろ」。陸上のトラックは左回り。集団の選手は左へ寄る傾向がある。号砲で見事右から抜け出した選手たちは、当時ギリギリの6位で突破を果たした。
■「おごるなよ。丸い月夜もただ一夜」
「号泣しました」。喜びに浸っていると、見知らぬ男性がやってきた。「地方のポッと出の大学がよくやったね。でもこれからが勝負だろ。丸い月だって欠けていくよ」。むっとしたが、ハッとした。それから「おごるなよ。丸い月夜もただ一夜」が座右の銘となった。
これも人の利だったかもしれないが、最も「人と地」の利をもたらしたのが部の顧問を務めた秋山勉さん(83)だった。甲府市出身の秋山さんは東農大で箱根駅伝を4度走り、長野・車山高原でホテルを経営していた。そのため合宿は車山。ホテルには実業団や他大学も多数訪れ、上田さんは各監督と夜な夜な杯を傾け、指導方法の教えを請うた。
■ケニア視察で出会ったオツオリは「ふいご」
留学生の起用も、秋山さんの「なぜアフリカ勢が強いのか見に行こう」という言葉に後押しされた。86年秋にケニアで出会ったジョセフ・オツオリが、88年春に入学。「強くなりたければ誰より早くグラウンドに来て、誰より長く練習しよう」という助言を忠実に守ったオツオリに引っ張られ、チームは急成長。7年目の92年、初優勝を果たした。
当時、選手たちは4人1組で自炊生活をしていたという。「不便はあったけど団結力は抜群だった。その集団の熱量を上げるふいごに、オツオリはなったんです」。様々な出会いの融合が、奇跡の躍進の源だった。(編集委員 近藤雄二)
■[襷のメモリー]第3部 名伯楽<3>
箱根駅伝(関東学生陸上競技連盟主催、読売新聞社共催)の第100回という節目を前に、選手や指導者たちの記憶をたどり、大会の歴史をひもとく。連載「襷のメモリー」第3部は、監督たちの物語を紹介している。