
5日、新日本プロレス松山大会でKENTAはスタッフとしても働いている女子プロレスラーの下田美馬さんのデビュー35周年を祝いながら、恒例の自伝「足跡」宣伝に勤しんだ。
この日はアーロン・ヘナーレとのG1公式戦を制して星取りを2勝2敗の五分に戻した内藤哲也も「次戦は来週の火曜日、オレのホームである(8・9)広島で迎えるKENTA戦。KENTA対策…そうなだぁ、彼の自伝でも読んでみようかな。絶賛発売中なんでしょ? 明日の大阪大会でもタッグマッチで対戦するわけで、ぜひぜひアナタの大好評の自伝を、オレにプレゼントしてくれよ。もちろん、サイン入りでね、カブロン!」とコメント。そのKENTA自伝には22年前のNOAH旗揚げについてのエピソードも紹介されている。
KENTAはNOAH旗揚げ当時、本名の小林健太がリングネームだったのだが、とある奇妙なリングネームに改名するプランもあったという。
「2000年8月5日の旗揚げ戦でオレの試合は組まれなかった。だから、オレの中での旗揚げ戦はNOAH2戦目の8月6日。浅子覚さんとのシングルマッチだ。
当時のオレは先輩たちからラクダに顔が似ているとからかわれていて『リングネームはキャメル小林でいけ』とも厳命された。誰が言ったのかは忘れたが、どうせこんな後輩をバカにするようなことを言うのは丸藤(正道)さんだろう。
もちろん絶対にイヤだった。オレは普段は先輩たちに『はい!』しか言えない新人であったものの、さすがに猛抗議をした。新聞とか雑誌の試合結果欄が“C・小林”になるかどうかの瀬戸際だ。
“C・小林”って…。
どうにか猛抗議を受け入れてもらい、小林健太のままで旗揚げを迎えられたのだが、大切なオレにとってのNOAH旗揚げ戦は浅子さんのキャメルクラッチでギブアップ負け。浅子さんはキャメルクラッチが得意技ではない。あえて“キャメル小林”をキャメルクラッチで仕留めたのだ。
そんな遊び心も試合で表現できるという意味では、プロレスはものすごく包容力のあるジャンルだ。もっとも当時は身内以外、誰にも浅子さんの意図が伝わっていなかったが。ともかく、でもキャメルクラッチを食らうとあの頃の記憶がよみがえってくるから肉体的なダメージ以上に、人知れず精神的なダメージを受けているのはここだけの話にしておく」
KENTAにとってのNOAH旗揚げ記念日は8月5日ではなく8月6日。そんなメモリアルな日に今年は新日本プロレス大阪大会を控えている。
試合はジュース・ロビンソン&バッドラック・ファレと組んで、内藤&SANADA&BUSHI戦。8・9広島大会における内藤とのG1公式リーグ戦の前哨戦だ。
KENTA、内藤ともにすでに2敗を喫しており、互いに負ければCブロック突破がほぼ絶望となる。まだ内藤はKENTA自伝を読んでいないので、キャメルクラッチに旗揚げ戦の苦い思い出があることを知らない。この記事を読んでいないといいのだが…。
週刊プロレス編集部