東大卒の数学教師、子ども自身が勝手に伸びる教育法

東大卒の数学教師、子ども自身が勝手に伸びる教育法

  • 週刊女性PRIME
  • 更新日:2020/10/19
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『いもいも』主宰 栄光学園数学科講師 井本陽久さん 撮影/近藤陽介

有名進学校から東大のエリートコースを歩み母校の教師になったが、挫折を味わった井本陽久(はるひさ)さん。教師という枠にとらわれていたことに気づき、成績を上げるのではなく自分で考える学びの場を作った。“ふざけ・いたずら・ズル・脱線”によって、子どもたちが生き生きと輝ける環境づくりとは──。

【写真】勉強よりもテニスに熱中していた“イケメン東大生”時代の井本さん

ねらいは「上手に発表できること」ではない

「僕ね、子どもたちが笑顔で生き生きしているのを見るとうれしくなるんですよ。成績とか学力なんて上がんなくていい。そんなこと幸せには全く関係ないから」

井本陽久さん(51)は、昨年4月に栄光学園中学校・高等学校を辞め、数学の非常勤講師となった。栄光学園は、養老孟司さんを輩出した鎌倉市内の名門校。東大合格者数は全国トップ10に入る。井本さん自身も栄光学園の中高から東京大学に進学、その後、母校の教師となった。

現在、栄光学園での授業や長年続けている児童養護施設の学習支援に加え、花まる学習会で“ダメでいい、ダメがいい。”をスローガンに主宰する、みんなの学び場『いもいも』が井本さんの活動の中心になっている。

7月の夕方、JR東戸塚駅前にある花まる学習会の一室に中学生が集まってきた。新型コロナウイルス感染症による自粛が解除され、ようやく再開された『いもいも』。この日は、「表現・コミュニケーション教室」と「数理的思考力教室」の授業だ。1年生から3年生まで、さまざまな学校の子どもたちが通っている。

井本先生の教え子で、栄光学園の卒業生が3人で受け持つ「表コミ」は、この日はオンラインで自宅からの参加も可能。顔を出さない子もいるが、それも自由だ。

ネットで自宅と教室をつなぎ、ハイブリッドで進んでいく。オリジナルで考えたミニゲームをするうちに、子どもたちは自然に試行錯誤し、論理やルールの穴を見つけてふざけたりズルを思いつく。ゲームはなかなか進まないが、笑い声が絶えない。

学校に行っていない子もここでは安心して「自分」を発揮できる。1度、教室に入りさえすれば、次回からは例外なく自分の足で来るようになるという。この教室のねらいは、「自分が上手に発表できること」ではなく、「どんな人の表現やコミュニケーションも面白がれるようになる」こと。

大人たちは、授業を行う2時間(小学生は90分)の間、子どもたちがありのままで躍動し、没頭できる環境を作るだけだという。

「子どもたちが生き生きと輝きはじめるのは、“自分の考え方で考える。自分のやり方でやる”ときだけ。“ふざけ・いたずら・ズル・脱線”こそが、それを発揮する最大の場面です。でも、だいたい見学に来た人は何をやってるか全然わからないって言うんですけどね(笑)」

やんちゃで有名だった子ども時代

一方、「数理」は、栄光学園での数学の授業に近い内容だ。井本さんが時間をかけて用意した問題を生徒たちに提示する。短パンにサンダルばきの井本さんは、最初に謎なぞのような論理クイズを出して緊張ぎみの子どもたちをほぐし、子どもたちをあだ名や下の名前で呼ぶ。みんなに渡したプリントには9つの点が書かれていた。

「この9つの点のうち、4つの点を通る円をすべて書いてください。同じ半径の円は同じ種類と考えます」

授業ではたった1問だけしか問題を出さないこともある。あとは生徒が各自で考え、友達と相談して一緒にアイデアを出し合う。生徒がウロウロと教室を歩き回ることも、黒板を使って解くこともある。生徒たちはパズルやゲームにチャレンジするように「これ、いけそうだな!」「あ、違ったか」「こうしてみたらどうかな?」と声をあげ、前のめりに取り組む。問題を必死に考える生徒たちは真剣だ。

エリートから、学習環境が整わない子どもたち、発達障害や不登校など学校での居場所がない子どもたちまで、幅広い子どもたちと過ごすことが井本さんにとっての喜びだ。

神奈川県で3人きょうだいの末っ子として生まれた井本さんの子ども時代は、まさに昭和のやんちゃ坊主だ。6つ上の姉・詠子さん、3つ上の兄・温也(あつなり)さん、両親。祖父母も近くに住んでいた。

姉の詠子さんは当時をよく覚えている。

「陽久は近所でも有名なくらいハチャメチャで、私も思春期のときは恥ずかしかったな。雨上がりには裸になって外に飛び出して、家の前の水たまりでチャプチャプ遊んでると思ったら、そのまま行方不明。ファミレスに行けば店じゅうの椅子の上を渡り歩いて大騒ぎ。それはもう大変でした。でも、わが家は比較的のびのびしていて、近所の人も温かく見守ってくれていましたね」

井本さん自身も子どものころの自分をこう振り返る。

「エネルギーがあり余ってたんです。考える前に動いちゃう。それでも全然怒られなかったし、愛されていることを疑うことさえなかった。とても恵まれていたと思います。

いちばんひどかったのは3、4年生のころ。先生にダメって言われることは全部やってました。人をびっくりさせたい、盛り上げたい、笑わせたいっていう気持ちが抑えられなくて(笑)」

宿題は一切やらない。忘れ物も多い。忘れ物をすると印をつける用紙が貼り出されていたが、忘れ物が多すぎて井本さんのところだけ枠が足りなくなり、紙をつけ足されるほどだった。それさえも人と違うことは喜びだった。立ちションをしてどこまで飛ばせるかを競ったこともある。

中2のころ、教師になると思った

「公園で友達と遊んでいたら、その子のお母さんが来て、ハルちゃんと遊んじゃダメでしょ、って連れて帰っちゃうことも。学校にも苦情がたくさん来てたみたいですね。母親が授業参観で学校に来ると、仲よかったお母さんに知らん顔されたって言ってました」

人をいじめることはなく、友達が笑って喜ぶことを率先してやっていただけだが、家に苦情の電話がかかってくるたび、母と一緒に謝りに行くのが日課のようなものだった。

「勉強しろって言われたことは1度もないんです。世間とか常識とか、そういうこともあんまり言われたことがない。うちはみんな自由な家系なんですね」

そんな状態から中学受験に向かったきっかけは、いちばん仲がよかった友達と遊べなくなったことだった。

「理由を聞いたら受験をするから塾に通い始めたって言うんです。僕は野球に夢中だったんだけど、塾の日と重なっていたから“野球やめる!”って宣言しました。家族はみんな驚いていましたね」

たまたま通い始めた個人塾の先生は破天荒で、塾長の人柄や勉強の面白さにのめり込み、エネルギーがすべて勉強に向くと、問題行動はピタッとなくなった。

「僕みたいな子どもでも親が面白がって自由にさせてくれたこと、あんなに好きだった野球をパタッとやめ塾に行き始めたこと、よくわからないまま入った栄光学園が自由な学校だったこと、そういうことすべてが僕にとってはすごい縁だし、何か意味があるんじゃないかと思うんです。あのときのやんちゃな僕がいたから今があると思います」

栄光学園は井本さんにとってかけがえのないホームとなった。中学1年生から、大学の4年間を除くすべてを、井本さんは生徒として教員として栄光学園で過ごしてきた。栄光学園の自由な校風も井本さんにフィットしたという。なかでも、校長が言ったこの言葉は今でも忘れない。

「人に迷惑をかけるなとよく言うけど、そんなことは思うな。100人のうち100人が違うと言っても、自分がそうだと思ったら人に迷惑をかけてでもそれをやり抜きなさい。そのかわり、人が自分に迷惑をかけてもそれを認めなさい」

ダメと言われるとやりたくなる井本さんにとっては、ベストな学校だった。

井本さんは中学に入っても、学校帰りの電車に迷い込んできた蝶々を見つけると車両の端から端まで追いかけるなど幼さは抜けなかったが、中学2年のころには、「栄光学園で数学教師になる」とすでに思っていたという。「なりたい」や「なるぞ」という強い意気込みではなく、きっと自然な流れでなるものだと思っていた。

「僕ね、不思議と何かの節目に、急に言葉が降りてくるような感覚があるんです。野球をやめると言ったときも自分でびっくりしたし、中学のときも、校舎の外階段を上がっているときに、『よし、勉強するぞ』って、ボッていう音が聞こえるくらい一瞬で発火したような感覚になったんですよ。そこから高3の受験が終わるまで毎日すごく勉強しました」

もともと好きだった数学は、中学1年生の最初のテストで60点だったが、定期試験のたびにテスト問題を自分で作って楽しみながら勉強した。2学期は66点、72点、3学期は84点、100点とどんどん上昇。

一方、数学以外の教科は、すべていい成績をとることを目指して効率よく勉強した。

東大合格の日は自宅に帰らず

「英語がいちばん成績よかったけど、やっぱり身にはついていないんです(笑)。テスト勉強ってまじめにやればできるけど、やっぱり本物の力は、おもしろがって自分で問いを立てたり考えたりしないと身につかない。

数学は、小学校5年生のころから問題を作っていて、あるとき塾の先生に問題を出したら、先生が僕が考えていたものとは違う答えを出したんです。僕の答えも正しいのに、違う答えがあった。そこに本質的な面白さを発見して、それから算数の問題を作るのがすごく面白くなりました」

中学、高校と成績もよく、東大へ。何がなんでも東大というよりも、受けてみたら合格したとサラリと話す。

「たまたま東大に入ったけど、どこでもよかったんですよ。教員になるつもりだったけど教育学部に行こうとも思わなかったし、何も考えてなかった。数学が好きだから入って、勉強もせずにテニスのサークルに明け暮れた4年間でした。親友ができたのも大学時代。あの時期は毎日、本当に楽しかったな」

東大の合格発表の日、結果を見た井本さんは、すでに結婚して家を出ていた姉の詠子さんの家に公衆電話から電話をした。

「えーこ(詠子さん)、俺、受かった。このまま友達の家に泊まって今日は家に帰らないから。よろしく」

家族にとって、井本さんが東大に進学することは喜ばしいことだった。それは当然のことでもあるが、詠子さんは、弟がそのことを嫌がる気持ちもよくわかっていた。

「ハルは昔から、頭がいいとか何かができるということでほめられるのが大嫌い。なのに、父も祖父も、ハルがすくすく育って栄光学園や東大に進学することが自慢だったんですよね。近所の人にもうれしそうに話すし、お祝いだって大騒ぎしちゃうから嫌だったんだと思います。でも皮肉なことに、掲示板の前でハルが胴上げされてる写真が偶然、新聞に載って、バレちゃって。それを見て両親は喜んでましたけどね(笑)」

兄の温也さんは脳性小児麻痺で、松葉杖を使っていた。井本家では、家族はみんな障害について全く特別扱いすることなく、きょうだいも対等な関係だった。養護学校(現特別支援学校)の友達が来て一緒に遊ぶことも、井本さんや詠子さんの友達が温也さんと遊ぶことも自然なことだった。きょうだいゲンカだってお互いに手加減しない。「優しくしなさい」「手伝ってあげて」などと言われることも全くなかった。

しかし、井本さんは、そんな環境の中で子どものころからずっと考え続けていることがあった。

「僕、走るのも速かったんですけど、成績がいいとか足が速いとか、そういうことは人生にとって本当に価値があることじゃないと思ってた。なぜかみんなにほめられるけど、僕がすごい人間だから足が速くなったんでも頭がよくなったんでもない。それが偉いなんて全然思わなかった」

井本さんは幼いころ、祖父母から天国や地獄など、目に見えない世界の話をよく聞かされていた。「死んだらどうなるんだろう」と考えることも多かった。

「自分がどっちに行くのかなってときどき考えてましたね。足が速いとか頭がいいから天国っておかしいでしょ? だから、持って生まれたものに、いいとか悪いとか、そんな不公平なことはあるはずがないという感覚がずっとあった。努力して手に入るものも同じです。努力できる環境がたまたまあっただけのこと。僕がたまたまこんなふうに生まれただけで、ほめられることもイヤだった」

サークルの人気者“イモニイ”

姉の詠子さんは、その話を聞いて、ふたりの弟についてこう話してくれた。

「アツ(温也)は、気持ちはすごく活発で、たぶん健常者だったら好きなところへビューンと行ってしまうような子だったと思います。だから、ハルをうらやましいと思うこともあっただろうし、ハルもそれを感じていたんじゃないかな。

何かと親戚で集まって大勢で食事をすることも多かったけど、いつもハルが面白いことをして、みんなを笑わせていましたね。ほめられるのは嫌いだけど、そうやってみんなをほぐしてくれる存在でした」

東京大学の入学ガイダンスで、井本さんは、知り合いもなくポツンとひとりでいた山根隆男さん(53)に声をかけた。

「僕は2浪して京都から上京してきたから、知り合いもいなくてひとりで座ってたんです。あいつは友達に囲まれてワイワイ楽しそうでしたね。でも僕を見つけて声をかけてくれました。第一印象もその後もずっと、裏表のないスレていない感じ。

それ以来、大学時代はずっと一緒に過ごしました。研究室もサークルも、テニスのペアも一緒。あいつはひとり暮らしの俺の家に入り浸って、家庭教師のバイト先からうちに“井本先生いますか?”って電話がかかってくるくらいでした」

同じテニスサークルで親友になった内山堅介さん(52)も、当時の様子を教えてくれた。

「東大って、大学デビューのやつが8割9割いるんですけど、あいつはホントにピュアで素直。最後まで全く変わらないやつだった。よく、からかったりしていましたね。あいつは人をとにかく喜ばせたい。いじられるのもOKだし、歌もうまいし、盛り上げ役。間違いなく人気者で、あいつがいたから僕たちも大学時代、本当に楽しかった。

“イモニイ”という呼び名も、大学で後輩から呼ばれるようになったんです。テレビ(NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』)で見たあいつと生徒とのやりとりなんて、サークルでの俺たちとのノリとほとんど同じです(笑)」

授業はどれも単位が取れるギリギリの出席日数で、テニスコートの予約をするため出席の返事をしてすぐに教室の窓から抜け出していた。テストではクラスメートに助けてもらいながらなんとか単位を取得した。それでも、教職のための授業は欠かさず出席していたという。

「井本は、世の中のしがらみとか、世間を上手に渡っていくとか、大人の忖度とは無縁の人間。企業とか絶対に向いてない。学生時代から子どもも好きだったし、教師は合っていますよね。今、すごく楽しそうでよかったなと思います」(山根さん)

天真爛漫だった井本さんが「真っ暗闇だった」というのが教員になった20代の数年だ。外では明るくいつもと変わらない様子で、友人や離れて暮らす家族からは何も気づかれないほどだった。

栄光学園の先生たちにも相談することなく、ひとりでずっと抱え込んでいた。教師としてというより、人としての自分に葛藤していた。

それまでは「自分のことをわりといいやつだと思っていた」はずだったが、公私において、自信をなくすきっかけとなることがいくつも重なったのだ。

教員生活で味わった「人生の暗闇」

栄光学園の教師になって1年目、大学時代から長く付き合っていた彼女にふられた。「大切にしていたつもりが、実は自分のいいようにコントロールしてたんじゃないか」と、ただただ彼女に申し訳なくなった。それまであった自分のあらゆる自信が一気に吹き飛んだ。

学校では新人の教員がいろいろな提案をしても、会議の議題にさえ取り上げてもらえない。自分では生徒たちに自由でいてほしいと思う一方、生活指導の担当になったときには服装を注意したり、厳しく叱ることも時折あった。

叱らないようにしようとする自分の行動さえ、「本当はイラッとしているのに、生徒によく思われたいから大目に見ているだけじゃないか」と思い始めた。

学校では笑顔で過ごし、生徒たちの前では明るくいい先生として振る舞える。生徒や保護者から慕われて、「井本先生は素晴らしい」と保護者に言われても、「本当の自分はこんなんじゃない」と自分のエゴが許せない。

ひとり暮らしの家に帰ると、自分で自分のことを罵倒する日が続いていたという。

教員7年目のある朝、起きると熱があった。学校に電話をして休むことを伝えると熱が下がる。そんなことを数日繰り返し、ふと気がついた。

「俺、不登校の生徒と同じだ」

慌てて着替えて学校に行き、午前中ずっとカウンセラーに話を聞いてもらった。抱えていたことを一気に吐き出すと、カウンセラーがこう言った。

「井本さんの中には、ものすごくおおらかで自由な軸と、ものすごくストイックな軸がある。それがぶつかってるから苦しいんだね。本当の自分はどっちだと思う?」

井本さんは答えられなかった。

「じゃあ、子どものころの井本さんはどっちだったの?」

それにはすぐに答えられた。

「自由でおおらかだった」

そして、思い出した。

「僕は本来、正しいとか正しくないとかどうでもよかった。人を笑わせたり、驚かせたり、緊張を解くことにしか興味がなかったんだ」

カウンセラーと話したことで、「この苦しさはずっと続くわけじゃない。いつか楽になるときがくる」、そう思えるようになり、少し楽になった。それでも、問題を抱えている生徒を担任することが続き、生徒に寄り添える先生でありたいという理想と、自分のずるさとの葛藤の中での苦しみは続いた。

「うわべで生徒と触れ合うことはできても、心の底から本当に思っていないと、その子の本当の力にはなれないんです。不登校の生徒や、家庭環境や本人の状況がとても難しい生徒に力になれない自分が嫌になっていた。だけど、あのときがあったから今の僕がある。そう思います」

「教師だから」という枠からの解放

井本さんが「真っ暗闇だった」と呼ぶ時期を、当時、校長として見守っていた神父の関根悦雄さん(70)は、こう振り返る。

「彼は与えられた仕事はまじめに一生懸命やる。でも天真爛漫な面も見受けられる。そして、疲れていても悩んでいても、明るく振る舞うところがあるんです。頼まれ、やると決めるととことんやってしまうので、そのあたりのバランスも難しかったと思います」

井本さんが担任を受け持ったある生徒が留年をしたときのことだ。責任感から、「勉強しろよ」「ちゃんとやっとかないとダメだぞ」などとその生徒に声をかけていた。しかし、その生徒は学校をやめてしまった。

「教員としてその生徒のためを思っての行動だったけど、それがさらに彼を追い詰めたんじゃないかと思いました。そこで、自分が人としてやりたくないことはもうしないと決めました。彼がそのことを教えてくれたんです」(井本さん)

それ以来、「教師だからこうするべき」という枠から解放された。生徒たちに服装を注意し、厳しく指導することはなくなった。学内やライブハウスなどで歌ったり、藤沢の養護施設に学習支援に出かけたりするようにもなった。

立場に縛られず、子どものころの自分のままで、生徒たちにちょっかいを出す。すれ違いざまに脇腹をチョンッとつついたり、肩や頭をポンッと軽く触ったり。愛情を振りまきながら校舎を歩く。

井本さんを見つけた生徒たちが、「イモニイ!」「パンツ見えてるぞ!」「早くお嫁さんもらえよ!」と声をかけると、その場にいるみんながドッと湧く。「イモニイ」の周りにはいつも子どもたちの笑顔があふれた。

気がつくと、自分のままで子どもたちに接することができるようになっていた。

「私の教員時代にも退学した子はたくさんいますが、大事なのは栄光を卒業することではなく、その生徒が自分として育っていくことです。何より井本さんは人が大好きですね。学校はどうしても生徒の評価をしなければならない場所ですが、それ以前に人として愛することが大切で、彼はそれができる。

栄光学園のMEN FOR OTHERS、WITH OTHERS(人のための人、人とともにある人)ということを彼は実践している。素晴らしい卒業生であり、よい教員ですよ。生徒たちと友達のように近しい関係も、うらやましいくらいです」(関根さん)

生徒たちと深く関わり、苦しみながら、自分自身を見つめ直す井本さんがいたからこそ、今のような子どもたちへの視点が培われてきたのかもしれない。

心が動くとまっすぐその方向に動く人

また、サッカー部の顧問を通して、子どもたちと違う角度からの関係性も構築してきた。ともに顧問として活動に関わった栄光学園の数学教員・日野俊一郎さん(45)は、井本さんが暗黒の時代を抜けたころに栄光学園に教師として勤め始めた。

「数学教師で論理的思考についての授業をしていますけど、普段の井本先生は論理的というよりも感覚的。心が動くとまっすぐその方向に動く人です。理屈で動いていない。僕のような後輩の意見もいいと思えば取り入れてくれるし、大事にしているのは何よりも生徒なんだっていうことがすごく伝わってきます。

テレビや本の取材を見ていると、悟りを開いた人のようにも見えるけど、サッカー部の顧問としては、もう子どもたちが可愛くってつい口だしちゃうような面もありました。人間味があって魅力的な人です。“数学を教えるときと違って、サッカーはイライラしちゃうんだよなあ”ってよく言ってましたね。非常勤になってからさらに解放されて、これまで以上に楽しそうです(笑)」

ウロウロ、ニヤニヤしてればいい

「栄光の子どもたちの数学の授業だけを見た人には、“進学校の子だからだよね”と言われることがありますが、僕はいろいろな状況の子どもたちと関わっています。どんな子どもにも言えることは、ありのままを認めれば、子どもたちは自ら最高に輝きはじめるということなんです」

主宰している『いもいも』は、数理的思考力の教室として3年前にスタート。今では、栄光学園の卒業生や、さまざまな先生とともに「表現・コミュニケーション」「言語的思考力」「あそび・てしごと」など多岐にわたる教室を開催している。

井本さんと栄光学園の同期生でもあり、料理研究家、編集・ライターとして活躍している土屋敦さん(51)は、3年前に井本さんに再会。当初は、子育て中のひとりの親として興味を持ち、井本さんの教室を見学。そのときのやりとりに衝撃を受けたという。

「子どもを伸ばすにはどうするの?」

「伸ばさないよ。勝手に伸びるんだよ」

「いいところを伸ばさないの?」

「いいところって何? それって大人が勝手に決めてる価値観じゃん」

土屋さんはポカン。何か大事なことを言っているようだが、よくわからなかった。もっと知りたいと見学しているうちに井本さんの子どもたちとの関わりに共鳴し、教室に毎回参加するようになり、今では『いもいも』の「読書・言語表現教室」を担当するようになった。

「子どもってひとりひとり違うから、その子への関わり方とか声かけの方法を言葉にできないですよね。ノウハウにするのも違う。言葉にした途端にウソくさくなる。僕は言葉で仕事をしてきたけど、今、言葉にできなくなっています(笑)」

そして、土屋さんが栄光学園で料理のゼミを始めたとき、井本さんにアドバイスを求めると、こんな答えが返ってきた。

「ウロウロしてニヤニヤしてればいいんだよ。子どもたちに、料理って楽しいなって伝わればいいんだ」

「井本らしいですよね」と、土屋さんは笑う。

目指すはマザー・テレサと脱教室

井本さんはこれまでを振り返り、「強い意志や目標を持ってチャレンジしたわけじゃなく、流れのままにいろいろなことをやってきただけ」と言う。だけどたったひとつ、目指すところがある。

マザー・テレサが亡くなった'97年、放送された番組でのマザー・テレサの言葉を井本さんは鮮明に覚えている。

「死にそうな人たちをここへ運んできて、死を迎える前にきれいにし、安らかに逝っていただくようにしているのは、犠牲の精神からではありません。彼らの中に私の大好きなイエス様が見えるから、イエス様に仕えることができて本当に幸せなのです」

井本さんは、マザー・テレサが自分を犠牲にしたのではなく、素晴らしい宝物を相手の中に見つけて、そこに触れ合う自分に幸せを感じていたことに共感したという。

「僕は特定の宗教を信仰していないけど、あの言葉は僕の目指すところかもしれない。マザー・テレサから見れば、死を待つ人たちは、たとえるならダイヤモンドのようなもの。僕も、どの子を見てもどの人を見ても、『最高!』って心から思えるようになりたいんです」

数学教師の枠を超越していますねと尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「そうだな。数学教師じゃなくてもいいのかも。子どもを伸ばすとか、教育を変えるために自分を犠牲にするとか、そんな気持ちは全くない。ただ、子どもたちが生き生きしていると僕が幸せになるだけ。

たまたま僕が得意だった論理的思考の授業は世間的に価値があるかもしれないけど、論理的思考なんてなくたって生きていける。好きな人だけやればいい。

子どもたちは、安心してありのままでいられる環境さえそろえば、勝手に自分で輝きはじめる。子どもたちにそういう場があるのなら、『いもいも』だってなくなってもいい」

井本さんと土屋さんは、現在、自然豊かな葉山の山の中で「葉山 里山の学校」というプログラムも行っているが、子どもたちとさらに自由に自然の中に出かける新たな教室を『いもいも』で10月から始める予定だ。

「教室を飛び出し、自然の中で生き生きと動き出す子どもたちを思い浮かべるだけでニヤニヤしちゃいます」と、井本さん。

自分がワクワクするほうへと迷いなく突き進むその横顔に、やんちゃな少年とマザー・テレサが重なって見えたような気がした。

(取材・文/太田美由紀)

おおた・みゆき 大阪府生まれ。ライター・編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に、雑誌、書籍、テレビ番組などに関わる。初の著書『新しい時代の共生のカタチ 地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)が好評発売中。

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