激烈な魂を持った無期懲役囚、美達大和

激烈な魂を持った無期懲役囚、美達大和

  • JBpress
  • 更新日:2021/04/08
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徳島刑務所で服役中の70代男性(写真は本文と関係ありません、写真:ロイター/アフロ)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

日々、犯罪が起きている。

女子会社員を殺害した無職35歳。女子大生を暴行して強盗強制性交で逮捕された消防士35歳。ガス検針員を装い強盗をした17歳と19歳、おれの彼女にならないなら殺すぞと脅した23歳、入院患者を眠らせてわいせつ行為をした医者29歳、ヤマト運輸従業員の男女二人を殺傷した46歳、女子高生をホテルに連れ込みわいせつ行為をした30歳、元交際女性を殺して自分も自殺した34歳、同居女性を刺した71歳、公衆浴場の従業員を斬りつけて逮捕された54歳。キリがない。

われわれが日常の感覚で、凶悪な犯罪やわけのわからん犯罪が多いというと、いやいや、統計的には犯罪は減っているんだよ、と得意顔にいう人がいる。それはその通りである。しかし被害者にとって、犯罪統計などなんの意味もない。自分が被害に遭ったことだけが問題なのである。

犯罪報道に接するとき、わたしたちもまた被害者(になる可能性)の位置から見ているのである。平均寿命であれ、平均年収であれ、犯罪の増減であれ、わたしたちは「平均」や「統計」で生きているのではない。生活感覚や日常感覚に意味はあり、そっちのほうが切実なのである。

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いまや刑務所は「健康ランド」

よくわからないのは、どうして素人が次々と簡単に犯罪を犯してしまうのか、ということである。刑務所に入ることを恐れていないように見える。あるいは自分が捕まるとは思ってないのか、それとも逮捕されてもしょうがないと思っているのか。なかには犯罪を犯したオレ、ということにヒーロー意識をもっている者もいそうである。

ヤマト殺傷事件の男は、逮捕されたとき、カメラに向かって笑いながらピースサインをし、精いっぱい強がってみせたのである。ようするに後先のことはなにも考えず、その場の感情に支配されてやってしまったというのが大半なのだろう。

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『塀の中の残念なおとな図鑑』(美達大和著、主婦の友社)

そのような犯罪者の実態を描いた本が、3月末に出版された。美達大和『塀の中の残念なおとな図鑑』(主婦の友社)である。

「現在の刑務所は昔と違って、一種の悪党ランドになりました。(略)工場に出ているチョーエキなら月に5、6回の映画は見られますし、テレビも毎日です。おまけに医療も社会にいたころより、いいと感じる者がほとんどで、健康ランドとなっています」

刑務所の代名詞だった“臭い飯”も消滅した。いまやそこは「チョーエキたちの笑いが絶えない『明るい世界』というのが現実」である。衣食住が保証されているところから「最後の福祉施設」ともいわれる。

自分の犯罪はけっして悪ではない

同書には18人の軽重の受刑者が描かれていて、かれらの犯罪動機や考え方が明らかにされている。編集者が考えた今風で軽妙なタイトルが示しているように、著者の精緻な人間観察がユーモアに満ちた文章で書かれていて、このうえなくおもしろい。しかも読むにつれて、人間とはなんという生き物か、ということについても考えさせられる。今年読んだ本のなかではおもしろさ一番である。

採り上げられている受刑者は、「愛嬌のある好青年チョーエキ」(20代後半、傷害、刑期2年+1年6か月、初犯)、「ひ弱な見栄坊チョーエキ」(40代後半、窃盗、11年)、「寄せ場処世の達人チョーエキ」(60代前半、覚醒剤、2年6か月、13回目)、「骨の髄まで己を改善した見事なチョーエキ」(50代、殺人、無期)、「チョーエキのシーラカンス」(60代後半、強盗殺人、通算60年)といった面々であるが、かれらは世間話をしているときは、ふつうの青年、ふつうのおっちゃんである。こんなおっさんが野球場ではおもしろいヤジを飛ばして、周囲を笑わしたりするんだよな、というのもいる。

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*写真はイメージ(写真:Shutterstock/アフロ)

ところが話が自分の犯罪のことになると、本性が出てがらりと変わるのだ。平気でうそをつく、他の受刑者をいじめているところを刑務所職員に見られていても平然とやってないという。自分は絶対悪くない、あくまでも正しいと思っている。

減刑や仮釈放を得るために、口では、反省している、被害者には申し訳ないことをしたというが、本音はまったく逆である。自分が捕まったのも刑に服していることも、みんな被害者が悪いと思っている。「なんで、あんな時に帰ってきたのか」「抵抗しやがって」「声を出したから」と、被害者を恨んでいる。おもしろいことに、そんなかれらでも「自分ではない第三者の犯罪は悪だと認め、時には怒りの念さえ表す」ことである。しかし自分が犯した犯罪はけっして悪ではない。

“因子”のない者の生き方は絶対に変わらない

だから更生するものなど、まれである。美達氏が25年以上服役してきたなかで、真に反省し更生した受刑者はわずか3人だという。

わたしがほんとにそうだな、と感じたことは、次のようなところである。美達氏の観察は信用できる。「社会の人には想像できないでしょうが、己の犯罪を反省する、更生の決意をするというのは、その人の心の中に、そのような『因子』がなければできないのです。(その)因子のない者には何を言っても馬の耳に念仏で、生涯ワルの人生、犯罪者の人生を続けるだけでしかありません」。

美達氏はこういいきっている。「実際にLB級のワルたちと生活した経験から」そういう者の「生き方は絶対に変わらないと断言できます」。ちなみにLB級とは、長期刑の凶悪犯という意味である。「人は誰でも変わりうるという言葉は、人間の理想を表して」いるが、「LB級刑務所に来る受刑者の大半には該当しない言葉」である。

「チョーエキは、何年もの時間を有益に活かすこともなく、入ってきたときと同じ精神年齢、能力、価値観のまま、また、チョーエキになるために出所していきます。(略)そこには自分に対する自尊心、尊厳などというものはありません。ひたすら、目先の欲望のみに囚われ、己の将来を一顧だにすることもなく、犯罪に走る獣のようでもあります」。これがほとんどの受刑者の現実なのである。

人は更生できる、というのとおなじように、必然的契機さえあれば、だれもが加害者や殺人者になりうる、とよくいわれたりする。わたしも謙遜を込めてそう考えていた時期がある。だが美達氏はそういう言い方にも納得しない。そういうのは「レトリックの上だけで、ならない人が大半なのです」と一蹴である。いまではわたしもそう思う。「大半」のひとはやはり、幼児虐待はしないし、車を煽ったりしないし、暴力を行使しないし、強盗殺人をしないのである。

「自分の行為は絶対に正しい」という自信

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『死刑絶対肯定論: 無期懲役囚の主張』(美達大和著、新潮新書)

しかし『塀の中の残念なおとな図鑑』のなかで描かれたどの受刑者よりも、一番興味深い存在は同書の著者である美達大和氏(これはペンネーム)である。じつをいうと、わたしはかれの『死刑絶対肯定論』(新潮新書)を読んで以来、かれの本を愛読している。

かれは、ウソはつかない、口にしたことは絶対に守る、決めたことは実行する、卑怯なことはしない、といった絶対原則を自らに課した。それだけならよかったのだが、それを他者にも適用して2件の殺人を“確信犯”的に実行したのである。「日頃から口にしたこと、決めたことは自分の生命・損得にかかわらず必ず実行するとしていたための蛮行」だった。裁判で、生まれ変わったらまたおなじことをするかと訊かれ、すると答えている。

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『罪を償うということ――自ら獄死を選んだ無期懲役囚の覚悟」(美達大和著、小学館新書)

かれには、自分の行為は絶対に正しいという自信があった。しかし公判の途中で、被害者の母親の悲しみと怒りにふれ、自分の行為の非道さに初めて気づいた。衝撃だった。『おとな図鑑』と同時期に発売された『罪を償うということ』(小学館新書)のなかで、このように書いている。

被害者の母親が「公判で私を死刑にして欲しい、それができないのなら、一生、刑務所に入れておいて欲しいと述べた時、私は『そうだろう』と首肯したものでした」。自分が納得すれば自分をも糾弾する。

服役後、「自分の独善的な物事の見方、無謬性の誤りを知った」。人に寛容になった。美達氏は死刑を望んだが、無期懲役となった。だがかれは仮釈放を拒否し、獄死する覚悟である。せっかく、人間が一回り大きくなったというのに。

殺人に償いはない

このような氏の考えは、以前の著作で知っていた。わたしは、こんなに自分に厳正な人間がこの世界にいるのかと震撼した。美達氏の論理はこうである。「過失致死ではない殺人罪には償いはないというのが、以前からの考えで、今も同じです。償うというなら、生き返らせてくれということになります。それはできないので、償いとか賠償はありません」。こういうことをいった人はいない。

刑期を務めあげて、それで贖罪が済んだというのは、あくまでも人間が浅知恵で考えだした「法律的なもの」でしかない。しかもそれが可能なのは、「被害者の被害が本当に軽微な犯罪」の場合だけだ。人間の法、あるいは美達大和の法はちがう。殺人の「罪を贖うことは不可能で、殺人犯は反省と謝罪を生ある限り、続けなければなりません」。これは自分独りにだけ適用される美達大和の法である。

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*写真はイメージ(写真:Shutterstock/アフロ)

一生獄を出ない、人の役に立ちたい、というのも「単純に私のエゴ」だという。「これをしたからといって、わたしの罪が軽減されることはいささかもありません」とどこまでも潔い。「獄から出ないというだけで、己の贖罪の免罪符にしているわけでもありません。最後は善く生き、やれることに最善を尽くし、最期を迎えるという自分との誓約のために生活しています。それができないのであれば、自分は不要とも決めています」。こういう人が現実にいるというのが信じられない。

自分の子どもの声さえわからないバカな年寄りたちの金は自分たちが使ってやってるんだとか、自分が刑期をくらって何年も服役してるのはみんなあいつら(被害者)のせいだ、とうそぶく受刑者たちには、美達氏の覚悟はまったく理解できないだろう。だが、氏にとってそんなことはどうでもよいことである。

やるべきことをやり、それ以外では自分を捨てる

「どのような事情があろうと、殺人犯、犯罪者となったのは我が身の愚かさ、不徳ですが、私は卑劣、卑怯、汚い人間にはなりたくありません。自分でやるべきことをやり、それ以外では自分を捨てることを実践することが望みです」。これは伝教大師最澄の「忘己利他」という言葉そのものである。

歴史上のどんな高僧にも、どんな戦国武将にも匹敵するような、激烈な魂を持った人間という気がする。「メンタルが強い」どころの話ではないのだ。かれの目標であり、現にやっていることは児童養護施設へのサポートである。そんなかれに、実際に「社会に出て」奉仕すべきだと望む支援者もいるようである。

だが、あえて獄死するという氏の覚悟があってこその美達大和である。人間としての強靭さということでいえば、わたしは氏の足元にも及ばないが、氏の覚悟の意味は理解できるように思うのである。

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『マッド・ドッグ』(美達大和著、河出書房新社)

戦前、当時の朝鮮からやってきたかれの父親の生涯を描いた『マッド・ドッグ』(河出書房新社)もすさまじく、読みごたえがある。その父親が美達大和という稀有な人物の原型を作り上げたのである。梁石日の『血と骨』もおなじ在日韓国人の無茶苦茶な父親を描いて破壊的だったが、『マッド・ドッグ』は極悪と最善が混じりあった矛盾の塊、真っ赤に燃える石炭のような人間を描いて、信じられないほど圧倒的である。

勢古 浩爾

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