「ギャーという悲鳴、ブスブスッと銃弾が体に食い込む音が...」日本人1000人をソ連戦車部隊が殺害“葛根廟事件”に巻き込まれた少年の証言

「ギャーという悲鳴、ブスブスッと銃弾が体に食い込む音が...」日本人1000人をソ連戦車部隊が殺害“葛根廟事件”に巻き込まれた少年の証言

  • 文春オンライン
  • 更新日:2021/05/04

終戦前日の1945年8月14日。満洲に侵攻したソ連軍に、徒歩で避難中だった日本人が襲われ、戦車に下敷きにされるなどして1000人もの民間人が殺される事件が起きた。なぜ悲劇は起きてしまったのか。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の1回目/#2を読む)

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被害者となったのは「平穏に生活していた民間人」だった

昭和20(1945)年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄するかたちで日本に宣戦布告。翌9日未明、満洲国への侵攻を開始した。

以降、満洲国では実に多くの虐殺事件が発生している。その中でも最も規模が大きかったのが「葛根廟事件」である。

今ではその名前さえ知らない人が大半であろうが、決して忘れてはいけない重要な史実である。

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対日宣戦布告後、ソ連沿海地方のグロデコボ付近から満州に進攻するソ連部隊(タス=共同) ©️共同通信社

葛根廟事件の被害者となったのは、満洲国興安総省の省都である興安街(烏蘭浩特)の住民であった。現在では中国の内モンゴル自治区となっている地域である。

戦前戦中、興安街とその近辺には、日本からの開拓移民が多く暮らしていた。土地の買収などを巡って問題が起こることもあったが、移民一人ひとりは現地の人々と交流を持ちながら平穏に生活している人たちがほとんどであった。街には神社(興安神社)や国民学校(興安在満国民学校)などがあった。

戦時中も大きな戦闘はなく、住民は静かな日々を送っていた。

現地召集によって、住民の大半は「女性・子ども・老人」に

興安街には3000人ほどの邦人が暮らしていたとされる。一時は4000人ほどまで増えた時期もあったが、戦争が長期化すると成人男性の現地召集によってその数は減少した。「根こそぎ動員」により、住民の大半は女性や子ども、老人となっていた。

こうして迎えた昭和20年8月9日、ソ連軍は国境を越えて、満洲国に侵攻。スターリンは当初、11日の侵攻を命じていたが、6日にアメリカが広島に原子爆弾を投下したことを受け、予定を早めた。

一方、満洲国を防御するはずの関東軍は、その主力をすでに南方戦線に移しており、戦力は著しく低下していた。これは日ソ中立条約を過信した結果である。或いは関東軍の減少による抑止力の低下が、ソ連軍の一方的な侵攻を招いたとも言える。

それでも国境付近では、爆雷を抱えた兵士が敵戦車に飛び込むなど、果敢な肉弾戦を繰り広げた守備隊もあった。しかしその一方で、早々に後退した部隊も多く、このことは「関東軍は民間人を見捨てて逃げた」との声を在留邦人の間に生む契機となってしまった。

まずは、ソ連軍機の空襲が始まった

それまで平穏だった興安街の状況が一変したのは、10日の午前中のことである。十数機ものソ連軍機が興安街の上空に侵入し、爆撃や機銃掃射を始めたのだった。住民は数日前につくったばかりの防空壕などに退避したが、逃げ遅れた人々も多かった。市街地の建物は、軒並み大きく破壊された。

空襲は日付が変わっても断続的に行われた。

そんな中、住民たちは街から退避することを決めた。居住地域によって東と西という2つのグループに分かれ、興安街から音徳爾(オンドル)という町を目指して徒歩で避難することになったのである。音徳爾まではおよそ100キロの距離であった。

西グループは11日の午前中に興安街を発った。しかし、東グループは集合に手間取り、出発が夜になってしまった。東グループはおよそ千数百人の集団だった。

たくさんの荷物を背負った女性や子どもたちが、暗い夜道を歩き始めた。食糧や水の他、着替えや紙幣などを持っての逃避行である。

中には荷車を使う者たちもいた。その他、幼児や病人を乗せるための馬車が、1台だけ用意された。

関東軍の姿はすでになく、避難民たちは軍の庇護を受けることができなかった。

女性や子どもの疲弊や治安状況から葛根廟を目指すことに

その夜、東グループは興安街から東方へ4キロほど行ったウラハタという町に入り、学校や防空壕などで一夜を過ごした。炊き出しも行われたという。

東グループは住んでいた地区などによって、さらに7つの中隊に分かれた。選ばれた中隊長の指示のもと、より円滑に退避行動が進むよう、体制を整備したのである。

小銃や手榴弾などを持ったわずかな男性たちが、各中隊の護衛にあたった。グループ全体を率いるのは、興安総省で参事官を務めていた浅野良三である。

行き先は音徳爾から葛根廟に変更となった。女性や子どもの疲弊や周囲の治安状況などを考慮し、まずは50キロほど先の葛根廟を目指し、そこから鉄道を利用する計画に変更したのである。葛根廟には白阿線という路線の駅があった。

こうして翌12日から、再び退避の旅が始まった。

昼間は8月の強烈な陽光に苦しめられた。やがて人によって歩く速度にかなりの差が見られるようになり、列は徐々に長く伸びていった。

道には衣服やカバンが落ちていた。前を行く人が、荷物を減らすために捨てたものであった。

13日の夕方には、大雨が降った。

8月14日、ソ連戦車部隊による攻撃がはじまった

事件が起きたのは、出発から4日目、8月14日のことである。

まず午前10時頃、1機のソ連軍機が低空で接近してきた。しかし、その機体は攻撃してくることもなく、その場を飛び去った。偵察機だったと思われる。

その後の正午前のことである。葛根廟駅を目指して歩く彼らの視界に不意に見えたのは、ソ連の戦車群であった。

「戦車だ!」

避難民たちは、たちまち攻撃の対象とされた。大規模な砲撃や銃撃が始まった。

場所は道の両脇にコーリャン畑などが広がる丘陵地帯のようなところであった。丘の先には、地名の由来となった葛根廟というチベット仏教の寺院が建っていた。

聖なる丘が凄惨な殺戮の場と化した。

ソ連側の資料を確認すると、この戦車群は第61戦車師団の一部だと思われる。本隊の燃料補給を待っている間に、先遣隊として葛根廟付近まで進出した部隊だったと考えられる。

空気を切り裂くような砲声や銃声を聞いた避難民たちは、コーリャン畑や窪地などに飛び込んで身を伏せた。戦車が見えない位置にいた人々は、状況をよく把握できないまま退避した。当時、興安電報電話局の女性職員だった本田福江は、その時の様子を後にこう証言している。

〈伏せてたから、音は聞こえるけれども、何も見えないでしょ。最初はてっきり飛行機だと思ったけど、飛行機にしては来るスピードが遅いしね。おかしいなァと思って頭を持ち上げて見ると、戦車なんです。四台ぐらい縦に並んで来てたのが見えたんです。伏せていた場所から五、六メートルと離れていないところを通り過ぎて行ってですね、一台通るたびに土がふくれ上がるし、キビは大きく揺れるし。そこから逃げることも、どうすることも出来ない。弾はヒューンと飛んで来て、プスッと地面に突き刺さって……。ヒューン、プスッ、ヒューン、プスッって〉(『葛根廟』)

「キビ」とはコーリャンのことである。一緒に逃げていた仲の良い同僚の一人は、頭から大量の血を流して亡くなったという。

ブスブスッと銃弾が体に食い込む音が

やがて戦車部隊だけでなく、歩兵や軍用車も姿を現した。当時、国民学校の4年生だった大島満吉は、以下のように述懐している。

〈日本兵が助けにきてくれたのかと思ったら、ソ連兵だったのです。私の背中のすぐ後ろで、日本人に向けていきなりダダダッと自動小銃を発射しました。ギャーという悲鳴、ブスブスッと銃弾が体に食い込む音…あっという間に30人ぐらいが殺されました〉(「産経新聞」平成27年11月6日付)

〈「後編」に続く〉

「ソ連兵が戦車から何人も降りてきて、片っ端から撃ち殺し…」民間人1000人殺害“葛根廟事件”で生き残った日本人が語った“凄惨な現場”へ続く

(早坂 隆/Webオリジナル(特集班))

早坂 隆

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