佐藤浩市「22歳の頃、相米慎二監督の何十回ものNGからのOKで、突飛なことをすればいいと勘違い、3、4年芝居で苦しんだ」

佐藤浩市「22歳の頃、相米慎二監督の何十回ものNGからのOKで、突飛なことをすればいいと勘違い、3、4年芝居で苦しんだ」

  • 婦人公論.jp
  • 更新日:2023/09/19
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「自分一人でどんなに頑張っても、どんなに勉強しても開かない扉がある。それがちょうどいい時に出会った人物によって、スッと開かれることがあるんです」(撮影:岡本隆史)

演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第20回は俳優の佐藤浩市さん。22歳で出会った相米慎二監督に、演技の解釈は一つじゃないことを教わったと語る佐藤さん。30代での阪本順治監督との出会いと共に、適切な時期の、幸運な出会いだったと語ります――(撮影:岡本隆史)

【写真】元気だった時期の原田芳雄さんと

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<前編よりつづく

大きな勘違いで数年芝居に苦しんだ

ところで、第1の転機となるのは、どのあたりでしょうか。

――どんな時にどんな人物と出会えたかが大きな転機になるんだと僕は思うんです。自分一人でどんなに頑張っても、どんなに勉強しても開かない扉がある。それがちょうどいい時に出会った人物によって、スッと開かれることがあるんです。その出会いは運でもあるんですけどね。

第1の転機は相米慎二監督との出会いだったと思います。僕は22歳という若さでその出会いがあった。それが《勘違いだったかもしれない》ということも含めて、あの出会いは大きかったと思いますね。

その作品は83年公開の『魚影の群れ』。下北半島の漁港・大間で喫茶店を経営する青年が佐藤浩市。その恋人が夏目雅子。その父親で鮪の一本釣りをする荒くれの漁師が緒形拳。

――相米さんから教わったのは、解釈は一つじゃない、ということ。「悲しみも、怒りも一つじゃねぇ。その怒りを十個やってみろ。泣くから悲しいのかお前。悲しいから笑うんだろう」。そういうことを教わった。

でも具体的に教えてくれるような楽な人じゃなかったから。「てめぇ、バカ野郎、自分で考えろ。下手糞、もう一回!」しか言わなかったですね。

最初に雅子ちゃんとの出会いのシーンがあって、次に緒形さんが僕の喫茶店に乗り込んでくるシーン。それこそ何十回やってもオッケーが出ず、もうどうしようもなくなって、僕は勝手に考えて、『少年マガジン』を持って便所に入っちゃった。

キンコーンって扉が開く音がして緒形さんが乗り込んでくる。でもそこにいるはずの俺がいない。緒形さんが困ってるのもわかるわけですよ。

それからトイレを流して「いらっしゃい」って出て行って芝居を続けたら、それがオッケーになったんですよ。やったぁ!と、それが勘違いの始まり。

突飛なことをすればいいんだという大勘違いをして、3、4年、芝居で苦しみました(笑)。緒形さんはあの時、「芝居変えて、この野郎、やりやがったな畜生」と思ったんでしょうね。撮影の終盤のシーンで、思いっ切り引っ叩かれましたから。(笑)

映画が繋いでくれた縁

第2の転機となる出会いは阪本順治監督だという。凄絶な復讐劇『トカレフ』(94年)に出演する。

――原宿のエアドームシアターで阪本監督の『どついたるねん』(89年、赤井英和主演)をやるらしいと知り、「行かない?」って僕が三國に電話をかけて、一緒に観ました。そしたらプロデューサーの荒戸源次郎さんと阪本さんが、「あとでお茶でも」って。そこからの繋がりですよ、阪本さんとは。

『トカレフ』は予算の問題で一回撮影が飛んで、一年後に再開した。僕は誘拐殺人犯の役。最初は薬物依存なんかのメンタリティからそういう犯罪者になるという設定だったのを、一年経ってみたら、「ちょっとこれ普通の人間にしましょうよ、病んでるように見えない人がそうなってしまうほうが……」とか阪本さんと話し合って。

僕はこの世界に入って数年で相米さんに出会って、さあこれから役者として難しくなるだろうなという30代で阪本順治さんに出会った。

自分の置かれているちょうど適切な状況の時にいい人に出会えて、幸運だったと思います。

お芝居ではないけれど、浩市さんの「朝日のあたる家」を聴いて、いいなと思いました。歌の世界への誘いは原田芳雄さんとの出会いから?

――70年代の非常にフワフワした時代に青春期を過ごした僕らにとって、本当はあるはずのないアウトローたち――原田芳雄、松田優作、萩原健一といった人たちへの共感と憧れというのがありましたからね。

芳雄さんと出会ったのはずいぶん前ですよ。20歳の時に『ポーツマスの旗』というスペシャルドラマでご一緒して、それからいろいろあって阪本さんの『KT』(2002年)という金大中拉致事件を扱った映画でもガッツリ共演しました。

そうこうしているうちに、実は芳雄さんの息子の原田喧太と、僕の妻の妹が結婚したので、身内になったんです。芳雄さんはよくライブもなさっていたから、ちょこちょこ遊びに行っていました。

その後、芳雄さんが亡くなって、その追悼ライブをやるようになって……ということなんです。もう、年に何回かはライブをやらせてもらってます。

原田さんの遺作となった『大鹿村騒動記』(11年)には三國さん、浩市さん父子が出ていらっしゃる。

――あの時は芳雄さん、とても苦しそうでしたね。周りはみんな覚悟していて、撮影が滞っても、それをどういうふうに撮ろうかというのも含めて、みんなで考えながら臨んでいました。

三國はその2年後に亡くなるんですが、僕は甲斐甲斐しく病院に通うような関係性ではなかったわけで。

でもこれも映画が繋いでくれた縁だと思うけど、たまたまこれも阪本順治監督との映画(『人類資金』)でニューヨークに行かなきゃならなくて、しばらく顔を見られないなと思ったんで、病院へ会いに行ったんですよ。

車椅子を押して庭に出たんだけど、「寒い」って言うからじきに中に入っちゃって、結局話らしい話もしなかった。そして僕が帰国してまもなく彼は亡くなったので……。これも映画というもののおかげでしたね。

僕が横浜流星くんとともに主演を務めた『春に散る』という映画がもうすぐ公開されますが、若い役者たちが激しいボクシングのシーンを、覚悟を持ってやっています。僕はボクシングで一時代を築いたものの今は病を抱えるコーチの役。チャンピオンを目指す若いボクサーとともに命をかけて闘う。

それで思ったのは、経験値の高い人間が、より人間としての位が高いわけじゃない。若い奴らからも教わることがある、ということでしたね。

では最後に、第3の転機は……?

――まだこれから先に第3の転機、新しい出会いはある、ということにしておきましょうか。

若さが感じられていいですね。

佐藤浩市,関容子

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