東映グループ岡田裕介会長が急逝 「いのちの停車場」打ち合わせ中に倒れる

東映グループ岡田裕介会長が急逝 「いのちの停車場」打ち合わせ中に倒れる

  • SANSPO.COM
  • 更新日:2020/11/21

東映グループ会長の岡田裕介(おかだ・ゆうすけ、本名・剛=つよし)氏が18日午後10時58分、急性大動脈解離のため東京都内の病院で急死したことが20日、分かった。71歳だった。「映画界のドン」といわれた元東映名誉会長・岡田茂氏を父に持ち、俳優として活動した後、プロデューサーとして「動乱」など数々の大作を製作。死去当日に女優、吉永小百合(75)主演の次回作「いのちの停車場」の打ち合わせ中に倒れ、来年の公開を前に旅立った。

親子2代にわたって映画界をけん引してきた重鎮が、人生の幕を突然下ろした。

東映はこの日夕、裕介氏が18日午後10時58分に急性大動脈解離のため死去したと発表。葬儀・告別式は近親者のみで行うとし、喪主は妹でコメンテーターの高木美也子(たかぎ・みやこ)さんが務める。お別れの会は開催予定だが、詳細は未定という。

東映によると、亡くなった18日は午前中に出社。エレベーターで会った社員は「普段と変わらず、元気にあいさつしてくださったのに…」と驚きを隠せない様子。17日も会食があったが、その際も元気だったという。

関係者によると、裕介氏は18日午後に東京都内の自宅で「いのちの停車場」の打ち合わせをしている最中に倒れ、病院に搬送。そのまま帰らぬ人となってしまった。

同作をめぐっては、コロナ禍で撮影が遅れたほか、9月には出演俳優の伊勢谷友介被告(44)が薬物事件で逮捕されるというアクシデントに見舞われたが、出演シーンをカットせずに公開することを決断。心労が重なりながらも最前線で陣頭指揮を執っていたが、映画の完成を待たず、息を引き取った。

裕介氏は「仁義なき戦い」などの任侠(にんきょう)映画や時代劇映画をヒットさせた岡田茂氏の長男として誕生。石坂浩二(79)似の甘いマスクの持ち主で、慶大在学中にスカウトされ、1969年に俳優デビューした。

70年代半ばからはプロデューサーとしても活躍。故高倉健さんと吉永の初共演作となった「動乱」(80年)などを製作し、88年に東映入社。吉永の主演作を多数企画し、「北の零年」(2005年)、「北の桜守」(18年)では製作総指揮として手腕を発揮した。

2002年から社長、14年から東映グループ会長や日本映画製作者連盟会長を務め、父親同様、日本映画界の発展に貢献。岡田親子を知る関係者は、裕介氏について「年齢を重ねるごとに気さくで話し上手な茂さんと似てきた。偉い人なのに誰に対してもフランクで、映画以外のジャンルも話されるから、みんながスピーチを楽しみにしていた」としのんだ。

社長就任時、「映画作りには情熱が必要」と語っていた裕介氏。人生を賭けて心血を注いできた作品たちは、今後も国民を楽しませ続ける。

★69年テレビドラマでデビュー

端正な容姿で知られた裕介氏は、慶大在学中に京都のバーで友人たちと演劇論を交わしていたところ、たまたま居合わせた関係者からスカウトされて芸能界入り。1969年にNETテレビ(現テレビ朝日)系ドラマ「レモンスカッシュ4対4」で俳優デビューした。俳優、石坂浩二似のルックスで人気を集め、70年に同局系「たそがれに愛をこめて」で共演。東映のライバル会社、東宝製作の映画「赤頭巾ちゃん気をつけて」(同年公開)のオーディションでは5500人の中から主役の座を勝ち取り、同社と年間約3本の出演契約を結んで話題になった。

岡田 裕介(おかだ・ゆうすけ)

本名・岡田剛(つよし)。1949(昭和24)年5月27日生まれ。京都府出身。70年に俳優として「赤頭巾ちゃん気をつけて」で映画デビュー。76年の「吶喊(とっかん)」では主演とプロデューサーを務めた。88年に東映入社。「華の乱」「北の零年」など吉永小百合主演作を多数プロデュース。2002年に東映社長、14年に東映グループ会長、日本映画製作者連盟会長、日本アカデミー賞組織委員会名誉会長なども歴任。父は元東映名誉会長で11年に死去した茂氏。妹はコメンテーターの高木美也子さん(68)。

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2015年の日本アカデミー賞の発表会見に登場した岡田裕介氏(中央)。西田敏行(左)、真木よう子(右)と並び、映画界の重鎮らしい風格をにじませていた

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