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ランニングマシンで一時間走り、プールで八百メートルを泳ぎ、サウナで残った汗を絞り出すと、頭のなかに居座っていた鉄球がクリームのように溶解し、体中が心地いい倦怠感に包まれた。
左沢(あてらざわ)陽介はスポーツジムをチェックアウトし、階数数字をぼんやり眺めながらエレベーターの到着を待っていた。
「アテラザワさん、おひさしぶりです」
声のほうに振り向くと、ジム専属トレーナーの寺島弥生がほほ笑んでいた。
「今度はヨーロッパですか、それとも前回と同じアフリカ?」
エクササイズを終えたばかりのようで、フェイスタオルで首筋の汗をしきりに拭いている。ポニーテールに結んだ髪が緩んで、浮世絵に描かれた湯上りの女のようだと思った。
「アラスカだ」
左沢は思いとは裏腹にぶっきらぼうに答えた。
「足の向くまま気の向くまま南に北に、か。羨(うらや)ましいな。アラスカはどちらですか、バンクーバー、それともアンカレッジ、それとも……」
「バローだ。バンクーバーはカナダだ。バカヤロー」
左沢は苦笑した。弥生がトレーナーになりたての頃、彼女をパーソナルトレーナーにしたのがきっかけで、ふたりは軽口をたたき合える仲になっている。
「バカヤローじゃなくてバローか、確か北米最北の町ですよね、白夜とオーロラの町、いいなぁ。好きなんだ、私、白銀の世界」
弥生は遠くを見るような目をした。
「何がいいなぁ、だ。仕事で行ったんだぞ」
「じゃあ飛行機もホテルも出版社もちですね。やっぱり、いいなぁ。まっ、私たちみたいな肉体労働者はアテラザワさんのエッセイを読んでアラスカに行った気分になるよりしょうがないか。でも、いつか連れてってほしいな、アラスカ」
「ああ、いつかな」
「いつか、か。当てにならないからな、アテラザワさんのいつかは」
弥生は肩をすくめた。
「ふん」左沢は鼻を鳴らし、目を階数数字に戻した。
「それじゃお疲れさま」
エレベーターの到着を知らせるチャイムを合図に、弥生はぺこりと頭を下げて、スタッフルームに歩いていった。
エレベーターを降りるとすっかり日が暮れていた。東の空には薄雲に霞んだ月が浮かんでいる。二〇一〇年十月二十日の十四夜(じゅうよや)の月。
左沢は丘の中腹に建った多摩ヶ丘スポーツジムを出て左側に伸びた長い階段をのぼった。左沢のマンションはこの小さな丘を越えたところにある。ジムから十分ほどの距離だ。
マンションの一階はコンビニエンスストアになっている。店内にはエントランスホールからも出入りでき、左沢は食糧や日用品の買い物をほとんどここで済ましてしまう。
「アテラザワさん、久しぶり。今度もアフリカ?」
缶ビールと野菜サラダとコンビーフをカウンターに置くと、オーナーの内川吾一が待っていましたとばかりに声をかけてきた。内川は百八十センチを超える大男だが、口ぶりはいわゆる“オネエ言葉”だ。
「ええ、まぁ」
弥生と同じ会話の始まりに、今度は否定する気にもなれず、ただうんざりとして曖昧に応えた。
「周平くんのこと、大変だったわね」
内川はバーコードリーダーに目をやったまま言った。
「……」
左沢は無関心を装った。世間話は別のところでやってくれ。後ろに客も並んでいる。
「えっ、何も知らないの?」
内川は目を丸くして左沢を見つめた。
「いえ、何も」
左沢は気のない返事をした。周平に何があったか知らないが、どうせたいしたことじゃないだろう。うわさ好きの内川にいちいちつきあってもいられない。
「えっ、何もまだ聞いていないの、ホントに?」
内川はさらに目を丸くして、ワンオクターブ高い声で「すみません、隣のレジでお願いします」、と後ろに並ぶ客に左沢の肩越しに呼びかけ、左沢をカウンターの隅に手招きした。
(やれやれ)
左沢はうんざりとして内川に従った。
「周平くん、亡くなったのよ」
「……」
「だから、周平くん死んじゃったのよ」
「周平が死んだ⁉」
そこまでの白けた気分が吹っ飛んだ。オーナーはいったい何を言い出すんだ。
「心中だって」
「シンジュウ? 何ですかそれは」
左沢は、うわずった自分の声を他人の声のように聞いた。
「福島県警の刑事さんがここに来てね、周平くんが福島の山中で心中した、何か心当たりはないかって訊くのよ。相手の女性も東京の子みたい。周平くんの恋人じゃないかって言ってたわ。先週の金曜日のことよ」
「で、オーナーの心当たりは」
左沢は、馬鹿な質問をする自分の声を、同じように他人の声のように聞いた。この問いは、まず自分に向けるべきもの、自分のほうが周平とは圧倒的に濃密なのだ。
「あるわけないでしょう。心中に結びつくようなことは何もない、ひと月ほど前に店に来たけど、いつもと変わりなかった、と刑事さんには答えておいたわ。年配の刑事さんだったけど、あなたにも会いたがってたわよ。何か思い当たることある?」
「まったくないですよ。相手はどんな女性だったか聞きましたか」
左沢は、突然出来(しゅったい)した事態に、やっと向き合うことができた自分を感じた。
内川は、大きくうなずいて、青い縞模様のユニフォームの胸ポケットから紙切れを取り出し、カウンターに広げた。
「滝山みどりってゆうんだって、アテラザワさん知ってる?」
聞いたことのない名前だった。
三苫 健太