私たちは、四十路を迎えた碇シンジである──『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』レビュー

私たちは、四十路を迎えた碇シンジである──『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』レビュー

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  • 更新日:2021/01/15
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2021年、日本社会のひとつの分水嶺となった1995年に誕生したアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が、1月23日に公開される『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で完結する。

その公開を記念して、QJWebではライター・相田冬二氏による《ヱヴァンゲリヲン新劇場版4部作》のレビュー記事を1作ずつ掲載していく。

まずは2007年公開の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を、現在の視点から捉え直す。

※『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、2021年1月14日に「公開 再延期」が発表されました。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告【公式】

《ヱヴァンゲリヲン新劇場版4部作》とは?

テレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』は、1995年10月4日にスタートした。

主人公、碇シンジは14歳だから、もし彼がフィクションの住人ではなく、この現実を生きる人間だとすれば、2021年、40歳になる。

エヴァ誕生から四半世紀となる昨年、世界は“セカンドインパクト”に匹敵する一大災厄に見舞われ、現在も終息の気配はない。人類の叡智は、謎のウイルスを前に為す術もない。1年かかっても、有効と断定できるワクチンすら生み出せていないのである。だれもが「途方に暮れること」に慣れてしまった。

こんなときにエヴァがいてくれたら……などと、私たちはため息をついたりはしない。そもそもエヴァは、そのような短絡的なヒーローものではなかった。世界を救うヒーローなど、いない。むしろ、そんな諦念からもたらされる切実さがあった。だからこそ、今、向き合う必要がある。

オウムと地震の年に生を受けたエヴァが、コロナ2年(令和という元号はもはや忘れられつつある)の今年、映画で完結するという。《ヱヴァンゲリヲン新劇場版4部作》と呼ばれるシリーズを、現在の視点から見てみたい。

「古過ぎて観れないもの」を「観れるもの」に

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 Angel of Doom PV

2007年、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』と共にエヴァは新生した。

テレビシリーズをリアルタイムで体験している世代にとっては、大きな改変は感じられなかった。しかし、エヴァが相手にしていたのは、かつてを知る人々ではなかった。エヴァを郷愁として愛でる者たちはすでに射程に入っていなかった、とも言えるかもしれない。

後年、私はエヴァに興味を持った14歳の少年に「まずはテレビシリーズから。特に最終回がすごいから」と1995〜96年のヴァージョンを勧め、DVDを貸した。ところが、彼はテレビ版第壱話についてこう語った。

「画が古過ぎて観ていられない」

この発言は衝撃だった。世界観やストーリーやセリフが、ではなく、画が古い。おそらく映像のクオリティから、アニメーションとしての質量、キャラクターデザイン、作画、色彩感覚などなど、それらはすべて、2010年代のアニメを普通に嗜む世代からすれば、古かったのだと思う。

その当時は衝撃が先行して事態がよく呑み込めなかったが、今にして思えば、たとえば、戦前の映画を観たときにもたらされる違和感の嵐に近かったのではないか。高度成長期に生まれた私のような人間にとって、戦前の映画は、それがたとえ母国語の作品でも、あらゆる面でしっくりこない(資料価値はあるものの)奇天烈なものに映った。そう「観ていられない」のである。たとえば、アートとしてのリズムや映像の文体が、戦後の映画群とはまるで違う。ひどく遠くにあるものに思えた。

14歳の少年は、『:序』は「観れた」し、「興味深かった」と肯定した。リアルタイム世代にとっては劇的な変化がないように思えた『:序』は、「古過ぎて観れないもの」を「観れるもの」にした。

『序』の価値はまずここにあると思う。

生誕から干支が1周していた。12年後のエヴァは、自分よりもあとに生まれた観客が「観れるもの」も志向(=思考)していたのではないか。それは媚びることではない。自らを新しく鍛錬し、現役のアスリートとして、その「身体」を躍動させることにほかならなかった。

名作は、いつまでも名作ではいられない。それが21世紀だからである。

エヴァは、もともと編集の技量に飛び抜けたセンスを有していた。テレビシリーズには総集編的なエピソードがあり、素晴らしい出来。さらに初の映画『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 シト新生』の『DEATH編』(劇場初公開版が群を抜いている)は、テレビ版の主要部分を再構成したものだが、これが凄まじくエモーショナルだった。

だが、『:序』は、既存の映像をパッチワークしたものではなく、全編描き直した上で、シリーズ初期の風味を損なわず、エヴァのオーソドキシーを21世紀(つまり新世紀)のまっさらなオーディエンスに届けた。結果、観客層が格段に広がった。エヴァは郷愁に消費されず、名作の器に自閉しなかった。今を生きた。

あれからさらに14年(シンジの年齢だ)が過ぎた。『:序』の鼓動は、まだ聴こえるだろうか。

個的なシンパシーから、公的なシンパシーへ

まず、「非常事態宣言」というワードが目を引く。明滅する文字の連なりは、昨年から今年にかけて二度にわたって発令されることになった「緊急事態宣言」と間違いなくクロスする。だが、襲来する使徒を、コロナになぞらえても意味はない。前述したとおり、エヴァは勧善懲悪のヒーローものではないからだ。

私たちが生きているコロナ以後の世界は、使徒が襲来するエヴァ世界に似ているのではなく、主人公、碇シンジの心象に接近している。ファザコンで、マザコンで、逃げてばかりいるからこそ、「逃げちゃだめだ」というフレーズを呪文のように唱えるシンジ。

誰も、守ってくれない。ぼくはひとりぼっちだ。同い年の異性のパイロットは、愛されている。ぼくは、ちっとも愛されていないのに。どうして。どうして、ぼくばっかり。どうして、あいつばっかり。どうせ、ぼくはだめなんだ。ぼくは、ぼくだから、だめなんだ。

そんな堂々巡りの心の叫びは、今の私たちにそっくりだ。

国は、守ってくれない。こんなに大変なのに、何もしてくれない。不安で不安でしょうがない。あの業種は優遇されている。自分の業種は冷たくされている。どうして。どうして、何もしてくれないんだ。どうして、救ってくれないんだ。この仕事はあってもなくてもいいものなのか。自分は結局、その程度の存在なのか。要らないんだ。自分なんて要らないんだ。

孤独。孤立。恐怖。疎外。嫉妬。怒り。哀願。否定。自虐。自滅。

負の連鎖。かつて、シンジへの共感は、観客それぞれの人生に照らし合わされた個人的なものだった。つまり、プライベートなシンパシーだった。

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(c)カラー

だが、2021年に『:序』を目撃するということは、パブリックなシンパシーを抱え持つことに等しい。

私たちは、碇シンジだ。

出口も先行きも見えない、どこまでつづくかわからない、長い長いトンネルで、寝ては覚め、寝ては覚めを繰り返している。『:序』で描かれているように、いい夢を見ることはできない。もちろん、いい夢も待ってはいない。

それでもシンジがエヴァに乗るように、私たちもまた、この世界でどうにかサバイブしていくしかない。

2020年は、世界中のあらゆることが危機に瀕したが、芸術も例外ではなかった。映画も、アニメーションも、圧迫された。どうにかこうにか、かろうじて生き延びているに過ぎない。

今、この瞬間の芸術に必要なのは、崇高さでも、美しさでもなく、耐久性だと思う。踏まれても、蹴飛ばされても、放置されても、生きつづける耐久力、生命力、しぶとい力。

エヴァにも、『:序』にも、それがある。個的なシンパシーから、公的なシンパシーへ。

エヴァという生命体は、まさに覚醒しつつあるのではないか。

四十路を迎えた碇シンジの行方を、次なる『:破』で、さらに考えてみたい。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.22 Promotion Reel

相田冬二

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