黒沢清が贈る2020年の“ハッピーエンド”。映画『スパイの妻』が提示する男女の普遍

黒沢清が贈る2020年の“ハッピーエンド”。映画『スパイの妻』が提示する男女の普遍

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  • 更新日:2020/10/17
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第77回ベネチア国際映画祭で、黒沢清監督が銀獅子賞(監督賞)を受賞したことで話題を呼んでいる『スパイの妻<劇場版>』が2020年10月16日に封切られた。

物語の舞台は、1940年の神戸。蒼井優と高橋一生が扮する夫婦は、夫が抱えている大きな秘密と、抗うことができない時勢に飲み込まれていくのだが……。

ライターの相田冬二氏は、本作を「2020年に忽然と現れたハネムーン映画」であり、「実はシンプルに、男女の普遍を提示しているだけかもしれない」と評した。その真意とは――。

『スパイの妻』が公開されること、それは特殊化した世界への<ギフト>である

ハネムーン。

日本で、いっとき、好んで用いられた新婚旅行の別称だ。もはや古風な言い回しかもしれない。今の若い人は、もうこんな言い方はしないのではないだろうか。

黒沢清監督の『スパイの妻』は古風な映画である。

だからだろうか。最近ではあまり耳にしなくなったハネムーンという単語が浮かんだ。この監督の映画からハネムーンが連想されるなどとは、想像すらしたことがなかったから、これは未だ見ぬ世界の到来である。それが未来というヤツなのだろう、きっと。

2020年は特殊な年だ。日本だけのことではない。世界的に特殊な、地球規模で特殊な、歴史に残る特殊な年である。なぜかは、今さら言うまでもない。乳児以外、なぜ特殊かは理解している。ことによると、赤ちゃんだって、今年の、この特殊さは、なんとなく体感できているかもしれない。

まずは、黒沢清が、特殊な、極めて特殊なこの年に、こんなにも古風な映画を贈り届けてくれたことに感謝したい。もちろん製作は、世界が特殊化する以前に始まっている。だから、本来はなんの関係もない。だが、結果的に、2020年に『スパイの妻』が公開されることは、特殊化した世界への<ギフト>以外の何物でもない。

『スパイの妻<劇場版>』90秒予告編

映画には、力がある。そのことを実感する。

『回路』(2001年)で。『叫』(2006年)で。『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(2017年)で。『大いなる幻影』(1999年)で。黒沢清は何度も世界を破滅させてきた。だが、この映画作家は断言する。「私は、楽天的なのだ」と。「世界がどんな状況になろうとも、どうにか生き延びる人はいる。それを見つめている」と。私はインタビューで、直にその言葉を聴いた。

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黒沢清監督

つまり、どんなに陰鬱とした画面であろうが、絵に描いたような希望がなかろうが、彼は一貫してハッピーエンドとしての映画を創りつづけている。

前作のタイトルは、そのことを証明しているだろう。『旅のおわり世界のはじまり』(2019年)。おわりははじまりとくっついている。はじまるのだ。何度でもはじまるのだ。何度でもはじめられるのだ。旅はおわっても世界ははじまる。世界をはじめられる。

ハッピーエンドは、エンドレスループ。

こうした理念を孕む黒沢清の2020年作品『スパイの妻』は、実に古風なハネムーン映画だった。

夫は妻にある危険な<旅>を提案する

蒼井優と高橋一生が扮する夫婦は、新婚ではない。だが、ここで見つめられるふたりの道行きは、まさにハネムーンだ。とりわけ、妻のウキウキぶりはハンパない。新婚旅行どころか、婚前旅行かもしれない。さらに言えば、ひと組のカップルが体験する<初めての旅>と言えるかもしれない。

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日本屈指の実力派俳優のふたりが夫婦役を演じた

神戸は、黒沢清の故郷。1940年の神戸を舞台に、この物語は繰り広げられる。1940年は、太平洋戦争勃発の前年だ。

貿易商、福原優作の妻、聡子は幼なじみで、今は神戸憲兵分隊本部で分隊長を務める津森泰治から、あることを知らされる。物資調達のため、満州に渡った夫が、ひとりの女性を日本に連れて帰っていたこと。そして、彼女が死んだこと。

大切な人を愛し、瀟洒(しょうしゃ)な洋館で何不自由なく暮らしていた聡子の幸せに、突然影が射す。

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夫を愛し抜く聡子だが……

疑心。愛を妨げもすれば、むしろ火に油を注ぐこともある、この感情と感覚に囚われた妻は、夫に詰め寄り、思ってもみなかった告白をされる。

優作は、大きな秘密を抱えていた。そのことに打ちのめされながら、さらに聡子はそれだけが夫の真実ではないのではないかとの想いに幽閉される。

やがて、夫は、ある危険な<旅>を提案する。それは、優作が信じる正義を遂行するための<旅>だった。

聡子は、果てしない疑心と闘いながら、己の愛に底がないことを信じて、その<旅>に飛び込む。<旅>のおわりに待っていたものとは……。

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ふたりの<旅>に待ち受けている結末とは?

聡子の完全な一人称映画ではないが、優作の真意は基本的に秘められ、主に妻の眼差しを通して夫の姿形は綴られる。だから、この作品は極上のロマンティシズムを薫(くゆ)らせる。

信じるということ。それを試すのは、疑心だ。疑心の先にあるのは、秘密の存在だ。

どんなに愛し合っている夫婦にだって、秘密はある。秘密に、触れるか、触れないか。そこが大きな分かれ目になる。

その<旅>を受け入れることが、聡子の愛の証明だった。あなたを信じます、という夫への告白だった。そう。真実はどこにあるのかはわからないが、妻は夫の告白に対して、告白で応えたのである。

あふれ出る蒼井優。抑制の高橋一生。対象的な佇まいのふたり

だからこそ、<旅>を受け入れたあとの、聡子はウキウキしている。ドキドキしている。大好きな優作のことを、もっともっと求めている。この、究極のときめき。蒼井優は純化された激情を、全身全霊で演じている。

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激情の演技を見せる蒼井優

一方、高橋一生は、正体を明かさないことが、自分を愛してくれる女性に対する最初で最後の礼儀だと言わんばかりに、優作を陰影のみで生き抜く。ジェントリーな物腰は、秘密によって支えられ、<旅>を魅惑の極北へ連れていく。

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正義のためなら手段を選ばない優作に扮した高橋一生

あふれ出る蒼井優。抑制の高橋一生。対照的な佇まいだからこそ、このハネムーンを私たちは、本気で見届けることになる。なぜなら、妻にとっても、夫にとっても、それは<初めての旅>だからだ。

蒼井優と高橋一生は今年1月に公開された『ロマンスドール』という映画で夫婦を演じていた。そこでは本作とは逆で、夫が妻の秘密にのたうちまわる、という展開だった。ふたりは新婚という設定であり、『スパイの妻』のあとで振り返ると、あれもまたハネムーン映画であった気がしてならない。

『スパイの妻』で、聡子に想いを寄せる津森を演じる東出昌大が、11月6日に公開される『おらおらでひとりいぐも』で、ヒロイン、蒼井優の夫に扮しているのは偶然か。3作にわたる、3人の演じ手によるトライアングルもまた、めくるめく誘いをもたらす。

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蒼井優が演じる聡子に想いを寄せる津森役を好演した東出昌大

一緒に旅をして、初めて相手のことがよくわかる。特に、男女間ではそうしたことが起きる。『スパイの妻』というまがまがしいタイトルのこの映画は、実はシンプルに、男女の普遍を提示しているだけかもしれない。

それを悲劇と捉えるか、喜劇と捉えるか、それとも、まったく別の次元で捉えるかは、あなたの自由だ。

しかし、いずれにせよ、これもまたハッピーエンドの変奏なのである。

2020年に忽然と現れたハネムーン映画の結末を、どうかありったけの瞳で凝視してほしい。

相田冬二

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