天才プレーヤーは短命か? Jの歴史などから読み解くジーニアスが生きる道

天才プレーヤーは短命か? Jの歴史などから読み解くジーニアスが生きる道

  • サッカーダイジェストWeb
  • 更新日:2021/06/11
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6月10日発売のサッカーダイジェスト。特集は「天才を究める」

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20歳の時の大怪我でピーク期間を縮めてしまった小野だが、卓越した技術は健在。トラップひとつで客を呼べる真のスーパースターだ。写真:徳原隆元

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オランダ代表のエースだったファン・バステンも、膝の怪我に苦しみ……。29歳での引退を余儀なくされた。写真:Getty Images

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FW並のスプリントを繰り返し、鮮やかなパスで上田のゴールを演出。川崎戦の荒木は、天才が生きていく道を示唆する活躍を見せた。写真:金子拓弥(サッカーダイジェスト編集部)

等々力陸上競技場で荒木遼太郎の疾走ぶりに目を奪われていた。13番をつけていても、荒木に託された役割は10番に近い。だが同じように高校を卒業して間もない小野伸二が華麗なテクニックで違いを見せつけていた頃と比べると、そのハードワークぶりには隔世の感がある。

荒木を天才と呼ぶべきかは、後世の判断に委ねることになるだろう。しかし十代で鹿島のエース級になる選手が、成長過程で天才と呼ばれなかったはずがない。

その昔、お山の大将と言えば、我儘の象徴だった。攻撃の才が傑出していれば、不得意な守備には目を瞑ってもらえる傾向があった。

実際リオネル・メッシは、そのまま大人になり、他の9人が一斉に守備へと切り替えている時でも堂々とピッチを闊歩している。かつてアマチュア末期に、日本代表がワールドカップへの初出場を賭けて韓国との決戦に臨んだことがある。先にプロが出来た韓国は、当時明らかに格上だった。そこでボランチの宮内聡は、10番の木村和司に「もう少し守備を」と頼もうとした。だが「そこはお前がカバーしてくれ」と機先を制され「分かりました」と頷くしかなかった。

ところが荒木は、相手のCBにプレッシャーをかけたかと思えば、川崎が自分のサイドからカウンターに出れば必死の形相で戻って来る。どちらも掛け値なしの全速力だ。

プロだから仕事や役割だと割り切ってしまえばそれまでだが、チーム屈指の芸術肌が守備のためにフルスプリントするのは、なかなか出来ることではない。しかもそれでいてボールを受けた時のプレーの質もまったく落ちない。終わってみれば荒木の走行距離はチームトップの12275メートル。スプリントも22回を記録した。

鹿島で荒木に次いでよく走ったのがレオ・シルバで、こちらは12081メートル。だがスプリントは14回なので、負荷はだいぶ違う。荒木はFW並のスプリントを繰り返し、対戦相手の川崎で最もスプリント回数が多い山根視来の仕掛けに対応しながら、わずかな隙を突いて上田綺世のゴールを導いたことになる。まさに攻守が途切れない新時代に、天才が生きていく道を示唆するようなプレーぶりだったーー。

天才という響きは、短命=儚さを想起させる。しかし世界的に天才の夭逝は、事故や薬物などの影響を受けたロック・ミュージシャンを初めとする芸術畑に多く、日本では不治の病とともに減少傾向にある。

サッカー界で周知の天才の早逝となると、直近でも1958年のマンチェスター・ユナイテッドの航空機事故まで遡る。当時、イングランド随一の有望株だったダンカン・エドワーズも、生きていればもう84歳だ。

一方で生命そのものではなく現役生活に視点を変えても、儚くて惜しまれた天才の引退例は、それほど脳裏から浮かび上がっては来ない。最も惜しまれたのは、バロンドールを3度獲得したマルコ・ファン・バステンの29歳での引退で、ラストゲームがチャンピオンズカップ(現行のチャンピオンズ・リーグ)決勝だったという事実が悲哀を帯びている。偉大なストライカーは、度重なるファウルの餌食となりついにヒザが悲鳴を挙げた。

こうしてファン・バステンやディエゴ・マラドーナら非凡な才が悪質なファウルに痛めつけられる状況を背景に「フェアプレー・プリーズ」を謳い文句とした90年イタリア・ワールドカップでは、カードが急増するのだった。

天才の大敵は故障と自己管理だ。どうしてもスタンドを魅了する芸術家は、対戦相手の最大の標的になる。また遊びの中で育って来た奔放な天才たちは、生活の急変にコントロール不能に陥りがちだ。

ワールドカップを2度制した天才肌のドリブラーだったガリンシャは、アルコール依存症から身体を壊し49歳で早逝。2002年日韓ワールドカップで得点王に輝いたロナウドも、故障が相次ぎ三十路を前に肉がつき始めた。そしてマラドーナが薬物に手を出すようになったことも周知の事実だ。

だがむしろ後から惜しまれる才能の大半は、なんらかの原因で世に出る前に消えている。天才の代表格とも言えるジーコが語っていたそうである。

「私より才能のある選手はいくらでもいた。しかし私のようにサッカーを最優先に考えて生活を送れる選手はいなかった」
本来天賦の才とは、持って生まれたものを指す。しかしそれも賢く磨く術を持たなければ、世に出すことはできない。実際来日したジーコは、自他ともに厳しい姿勢を貫いた。それが習慣となり伝統に変わり、他のクラブに先駆けて鹿島はプロの礎を築いた。

今振り返ると、いかにも天才の日本型変異種と言えるのが中田英寿だったのだと思う。中田を天才と見る人は少ないかもしれない。サッカーのセンス、技術、フィジカルなど個別要素を検証すれば、あまり突出したものはない。

だが極東の島国で育った少年が、際立って早くから欧州でプレーする将来設計を描き、成就するために徹底して無駄を排して努力をし続けた。その賢さと意思の強さは、他に類を見ない。93年に自国開催のU-17ワールドカップで日本代表の10番を背負い、当時は天才の呼び声を独占した財前宣之との対比が面白い。

「生意気盛りだったガキの頃は、頑張って走っているヤツらを見ながら、いやいやサッカーはテクニックだから、と思っていました。でも身体能力のある選手にテクニックがついたら強いんですよね」(財前)

技術の精度や創造性で勝る財前は、攻撃のリーダーだった。しかし中田は、欧州で戦うことを想定して、国内でも出番確保優先で最初の一歩(ベルマーレ平塚)を刻み、技術、フィジカル、それに語学も含めてトータルに肉付けしていった。

彼は29歳でスパイクを脱いでしまうのだが、裏返せば29歳までにすべてをやり尽くしたという見方も出来る。限界の見極め方も含めて早熟で賢明だった。

ただし中田は自ら29歳で見切りをつけたが、基本的にフットボーラーは才能の大きさに比例して長寿を築く傾向にある。小野は20歳の時の大怪我でピーク期間を縮めてしまったが、40歳を過ぎてもプロとしての需要がある。

また中村憲剛のように、40歳まで全盛に近い能力を発揮し続けたケースもある。中村俊輔や遠藤保仁らも合わせて共通項は、サッカー小僧のまま楽しめていることだ。「好きこそものの上手なれ」と言う。夢中になれることが彼らの最大の武器になり、スピードダウンを技術や駆け引きで埋めているのだ。

しかしこうしてサッカーのフィジカル化が進む時代に生まれた天才は、もはや一芸に秀でるだけでは不十分だ。快足の前田大然が何度もスプリントをする持久性も兼備して評価を高めているように、本来相反する能力を研磨していく必要もある。

多彩なマジックを持つロナウジーニョでも、晩年は「もっと走れよ」と野次られた。これから育って来る「次世代のメッシ」は、守備へのタスクも免除されないだろう。特徴を活かしながら、弱点も見せない。おそらく完璧に近いアスリート能力を基盤に、創意や技術で違いを見せられる選手だけが、天才との賞賛を継続できる。

プレーを愛し、人一倍の勝者のメンタリティを有し、そのためにはなにより効率を追求しなければならない。頂点近くまで極めていくには、当然総合的なサポートが要る。

現代の天才たちには、薬物に走ったり、酒におぼれていたりする暇はなさそうである。(文中敬称略)

文●加部 究(スポーツライター)

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