『BEASTARS』から考える「鳥獣戯画」の世界

『BEASTARS』から考える「鳥獣戯画」の世界

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2021/04/09
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※この記事には『BEASTARS』の内容に関する記述があります。未読の方はご注意下さい。

日本の古美術の中では、「鳥獣戯画」は比較的よく知られた作品であろう。この作品は、漫画の源流であると言われることも多い。

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特別展「国宝 鳥獣戯画のすべて」公式Twitterより

たしかに「鳥獣戯画」でもっとも著名な甲巻は、ウサギやカエルが人間のような振る舞いをしていてファンタジックであるし、白地に墨の線だけで描くスタイルも漫画のようだ。ネコ耳の美少女に限らず、動物を擬人化することは漫画表現の有力な手法であるが、見た目に動物的な要素が色濃く残っているという意味では、2018年にマンガ大賞を受賞した『BEASTARS』 などが、とりわけよく似ているかもしれない。

しかし、両者はまったく同じというわけではない。例えば、「鳥獣戯画」にはコマ割や吹き出しなどは存在していない。動物が人間のように振る舞っていても、「鳥獣戯画」と『BEASTARS』は似ているようで似ていない、つかず離れずの厄介な関係なのである。それは『BEASTARS』におけるレゴシとハルの恋愛のようにもどかしい。

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背景にある「近代的な人間観」

『BEASTARS』では、共存する肉食動物と草食動物の対抗関係が作品世界の軸をなしている。肉食が禁じられた世界で両者の間に生じる、喰うか喰われるかの命をかけた緊張感が、その世界に不穏な空気を作りだす。

動物たちは、肉食と草食の対立を乗り越えたかのようにおだやかに生活しているが、抑圧された肉食動物の本能は、非合法に草食動物の肉を販売する「裏市」という形で、社会の表面からは隠されつつも継続している。決して両者の対立が解消されたわけではないのである。

この動物社会における「肉食―草食」の対立は、作品に登場するキャラクターの内面へと移しかえられる。例えば、主人公であるハイイイロオオカミのレゴシは、肉食動物としての本能があることによって内面に激しい葛藤が生じる。

レゴシは、自分の中にあるドワーフウサギのハルへの愛情が、肉食動物の本能に突き動かされてのものなのか、純粋な恋愛感情なのか常に悩み、確信がもてないままである。動物社会における「裏市」と同様に、レゴシの内面では肉食動物の衝動が、押さえ込んでも消えることなくくすぶり続ける。

そして、その内面性を表現するためなのか、『BEASTARS』のキャラクターたちは多弁である。彼らは自らの内面を言葉で語ることによって、本能と理性の間に生じる葛藤を見る者に伝えてくる。彼らの葛藤は、私たちの内でも常に経験されるものであり、言葉を通じて、私たちは動物たちに人間的な共感を寄せてゆく。

しかし「鳥獣戯画」では、動物たちは言葉を発せず、むしろ内面の語りを拒否しているようである。見ている私たちには、彼らがなぜ好き好んで人間風の振る舞いをしているのかあまりよく分からず、共感の糸口がつかめない。

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特別展「国宝 鳥獣戯画のすべて」公式Twitterより

「鳥獣戯画」の動物たちは、こちらから話しかけても無反応で、黙々と自分たちの行為に没頭している。私たちは会話の糸口が与えられず、動物たちとの間にコミュニケーションが成立しないことに困惑させられる。そのためこの絵巻は、いまだに「謎の絵巻」と言われている。

内面の告白は個人のアイデンティティーと密接に結びついているはずである。実際、『BEASTARS』では、差異と多様性によって、個々のキャラクターのアイデンティティーを確立することが強く意識されている。例えば、キャラクターたちの体格は、レゴシとハルに典型的なように、現実の動物を反映して大小様々である。また彼らはそれぞれ個別の名前を持ち、性格の違いも表現されている。

しかし、「鳥獣戯画」ではそうではない。例えば、ウサギやカエルなどの主要キャラクターは、全員がほぼ同じ大きさで描かれ、個々の動物の体格の差はなくなってしまう。また、「鳥獣戯画」の動物たちには、個別に名前が与えられることはなく、何か独特の性格類型が描き分けられるわけでもない。

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特別展「国宝 鳥獣戯画のすべて」公式Twitterより

彼らはそれぞれが自立した個体としては認識されず、いわばモブキャラのような扱いである。そこでは個別のアイデンティティーを描き出そうという意欲が欠けていると言えよう。

「鳥獣戯画」では、『BEASTARS』とは違って、個人の主体性を尊重する近代的な人間観に沿ってキャラクターが設計されているわけではないのである。

海洋世界が持つ「聖性」

このように、「鳥獣戯画」と『BEASTARS』は、同じ動物の擬人化とは言っても、異なる人間観や世界観に基づいている。しかし、『BEASTARS』においては、「鳥獣戯画」の世界をもたくみに作品内に取り込み、表現の幅を広げているようである。

より丁寧に言えば、「鳥獣戯画」的な世界は、レゴシたちが生活する世界という中心に対する、聖性と野蛮、つまり海洋世界と裏市という2つの周縁領域として、『BEASTARS』の中に立ち現れているように思われる。

このうち、聖性を担っているのは、海洋生物の世界である。この世界は、言葉の異なる異国とされており、レゴシたちは彼らと容易に意思疎通できない。それは、「鳥獣戯画」の動物たちを眺めている時の私たちの経験と同じである。

また、海洋世界は、陸上世界との死生観の違いにおいても際立っている。海洋生物にとっては、個の意識は曖昧であり、生死においても存在の個別性へのこだわりは希薄である。自らの死は他者の生によって補完され、彼らは集団的な生命の循環に身を委ねている。

個やアイデンティティーへのこだわりを捨てた海洋生物の態度は、集団的に均質化され自我を持たない「鳥獣戯画」の動物たちとも相通じている。あるいは海洋生物たちの悠々自適な暮らしぶりは、眺める人間の視線など気にせず黙々と自らの行いにいそしむ「鳥獣戯画」の動物たちの態度とも類似している。

海洋生物たちは、信仰とともに生きているとされ、実際に、400歳の長寿を保つクジラが、世界を導く超越的な神として位置づけられている。このクジラは、神ゆえに目には見えない存在であり、陸上世界の聖者であるビースターのヤフヤだけが接触できる。そもそも海中生物一般も、普段は水の奥に隠れていて、レゴシたち陸上の生物からは見えない存在として神秘化されている。

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その中では、ゴマフアザラシのサグワンは、陸上世界と海洋世界の境界を越えて、聖なる世界から姿をあらわした特異な存在である。その越境する力は、自身と他者の間にある境界線をも苦もなく乗り越えさせて、彼をフレンドリーな性格に作り上げている。サグワンのものにこだわらない穏やかな性質は、海洋生物の聖性を、陸上動物や読者である私たちにも分かりやすい形で示している。

しかしその一方で、境界の侵犯は、時に社会に不安をもたらすこともある。レゴシもしばしばサグワンの自由すぎる振る舞いに困惑を隠せない。境界侵犯は聖性の発現であると同時に、社会秩序を破壊する野蛮でもある。

聖性であれ野蛮であれ、定義不能で意味づけられないものには不安や恐怖を掻き立てられる。そのため海洋世界も裏市も、レゴシたちの目からは、ひとしく見えないもの(少なくとも見えにくいもの)として描かれている。

混沌をもたらす存在・メロン

しかし、海洋世界は、周縁領域らしくレゴシたちの世界を外部から包摂するのに対して、裏市は彼らの社会の内部にある。その違いが、同じ周縁部にも聖性と野蛮という正反対の意味を与えている。内部にある非秩序は、野蛮なものとして秩序ある社会の外側へと排除されなければならない。

この意味で、『BEASTARS』において、海洋生物たちと逆の周縁に位置づけられているのが裏市を舞台にのし上がってゆくメロンであろう。

メロンはヒョウの母とガゼルの父の間に生まれたハーフ(この単語に関しては様々な議論があるが、ここでは原作の用語に従っておく)であり、肉食動物と草食動物の境を超えた定義不能な存在である。彼はそれゆえに、安定した秩序の枠組みにはまらず、自然の暴力性さながら、悪逆を尽くして表の社会を飲み込んでゆく。

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しかしその一方で、メロンの中には高い知性も同居している。彼は、歴史学の教員としてハルの通う大学に紛れ込んだりもしているのである。肉食と草食、暴力と理知、自然と文化など、あらゆる境界を取り払い混沌へと導くメロンは、理性の働きを攪乱する不気味な存在として造形されている。それは、人間と動物が融合し混沌としている「鳥獣戯画」の動物たちとよく似ている。

興味深いのは、『BEASTARS』では、メロンが単独で真の悪とされているわけではないということである。最終段階で、メロンの父である中年のガゼルが登場するが、彼は、異種間婚姻に対する社会的差別を恐れ、育児放棄して家庭から逃亡した無責任な男であった。

ハイイロオオカミとの異種間婚姻に人生の意味を見出し、差別による苦労も厭わなかったレゴシの祖父のゴーシャ(コモドオオトカゲ)とは対照的である。ゴーシャが努力の末に充実した人生を獲得しただけに、メロンの父の人生は空虚なものとして浮かび上がる。

父の空虚で無責任な生き方が生じさせた家族の空白を埋めようと、メロンは、傍らに残された母の姿にかえって過大な意味を見出し、そして自らが作りだした意味の過剰に押しつぶされて歪んでしまう。(メロン本人は、父の不在は「母が愛するあまり父を捕食したせいだ」と解釈している。そして、行き場を失った過剰な母の愛が自分に向かっていると思って、恐怖を募らせる。結果としてメロンは母を自らの手で殺害してしまう)。

メロンにとっては、父は虚無であり、母は過剰である。それでもメロンは、父と母の間を往還するかのように、世界に意味があるのか確かめようともがいており(彼は味覚を失っているが、それでも食べ物の味を感じようと色々試す)、父のように心を失い、世界と関わることを放棄してはいない。

その意味では、どこかコミュニケーションが遮断された感じを漂わせる「鳥獣戯画」の動物たちは、メロンだけではなく、その父にも似ているとみるべきなのかも知れない。そうだとすれば、「鳥獣戯画」の動物たちもただカワイイだけの存在ではないように思われてくるであろう。

『BEASTARS』では、陸上動物たちは近代的人間観をベースとして造形されている。そして、海洋世界や裏市は、陸上動物の秩序ある世界の埒外にあるものとして周縁化されている。

しかし「鳥獣戯画」では、『BEASTARS』で周縁化されていたこれらの領域が、世界の中心を占めている。そこには肉食と草食という明快な対立軸はなく、秩序のあり方が漠然としている。物事を分けないことによって、カワイイと不気味が同居する独自の世界をつくっているとも言えよう。

しかしそれゆえに、この絵巻は謎の絵巻であり続けるのかもしれない。「鳥獣戯画」と『BEASTARS』は、成立の場を異にしている。しかし両者の擬人化表現を、いわゆる比較の手法を通じ、時間を超越して突き合わせ並置することによって、「鳥獣戯画」の世界の構造がよりくっきりと浮かび上がってくるのではないだろうか。

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