「猪木を生きて返すな」黒いジャンパー姿の男たちが襲撃...アントニオ猪木、伝説の“喧嘩マッチ”

「猪木を生きて返すな」黒いジャンパー姿の男たちが襲撃...アントニオ猪木、伝説の“喧嘩マッチ”

  • 文春オンライン
  • 更新日:2022/11/25

日本プロレス界の父・力道山は「プロレスはルールのある喧嘩である」と言った。ルールに基づいて行えば、どんなに激しい流血戦も、ただの喧嘩でなくプロレスになるのである。

【画像】隆起した筋肉の迫力…鋭い視線で相手を睨みつけるアントニオ猪木さんの写真を見る

しかし、時にはその範疇を越えた不穏試合や「喧嘩マッチ」と呼ばれる試合もある。今年10月1日に亡くなったアントニオ猪木(享年79)も、プロレスラーとして活動する中で幾多の「喧嘩マッチ」を経験してきた。

ここでは、『プロレス喧嘩マッチ伝説―あの不穏試合はなぜ生まれたのか?』(彩図社)から一部を抜粋。1978年8月2日に日本武道館で行われた「アントニオ猪木VSザ・モンスターマン」戦と、1980年2月27日に蔵前国技館で行われた「アントニオ猪木VSウィリー・ウィリアムス」戦の舞台裏について紹介する。(全2回のうち1回目/北斗晶VS神取忍編を読む

No image

アントニオ猪木さん ©文藝春秋

◆◆◆

新日本プロレスの運命を背負う、猪木の異種格闘技戦

プロレスの看板を背負い、数多の格闘家を撃破してきた燃える闘魂・アントニオ猪木が、思い出深い一戦と語るのが1977年8月2日、日本武道館大会でのザ・モンスターマン戦である。

猪木は1976年6月26日、プロボクシングWBA&WBC統一世界ヘビー級王者(当時)に君臨していた“プロスポーツ界のスーパースター”モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦を実現させたが、凡戦と世間から酷評され、9億円という莫大な借金を背負うことになった。

さらに視聴率低迷、観客動員数減少に陥り、新日本プロレスは経営危機に直面。借金返済と人気回復のために猪木と新日本が打ち出した戦略が異種格闘技戦路線の継続とアリとの再戦実現だった。

対戦相手のザ・モンスターマンは全米プロ空手世界ヘビー級王者という経歴を誇る打撃系格闘技重量級(190㎝、110㎏)の怪物。アメリカのプロ空手はマーシャルアーツと呼ばれるが、ザ・モンスターマンは全米プロ空手世界ライト級王者“怪鳥”ベニー・ユキーデと並ぶマーシャルアーツの看板ファイターだった。

ルールは3分10ラウンド。判定のほか、KOとギブアップ。逆関節技は禁止。寝技3秒以内。ロープエスケープあり。投げ技、スタンドでの絞め技、ヒザ蹴りとヒジ打ちは有効というものだった。

1ラウンド。猪木はいきなり足元への回し蹴り(アリキック)を見舞うと、ザ・モンスターマンは飛び前蹴りで牽制。そのパンチとキックは強烈で、恐ろしく速い。モンスターマンの打撃を警戒する猪木は組もうとするが、すかさず離れるザ・モンスターマン。互いに一歩も引かない五分五分である。

2ラウンド。ザ・モンスターマンが左ミドルキックを連発し、猪木が足をキャッチすると右足でお株を奪う延髄斬り。だが猪木は左の掌底から、ダブルアーム・スープレックスで投げる。

スタンドになりザ・モンスターマンが左ジャブから右ストレートを放つと、猪木は左の一本背負いから腕十字、だが寝技3秒以内ルールなのですぐにレフェリーがブレイクに入る。ザ・モンスターマンは打撃、猪木は打撃を凌いでからの投げ技に勝機を見出しているようだ。

両者、一歩も譲らない戦いが続き…

3ラウンド。いきなり猪木はドロップキックで飛び込んで、猪木・アリ状態になり下からローキックを入れようとするが、ザ・モンスターマンは上からジャンプしての踏みつけ。スタンドになるとザ・モンスターマンはバックスピンキックから左のジャンピング・ハイキック、パンチのラッシュで猪木を後退させる。

しかし、猪木はファイティングポーズを決めて立ち向かい左の掌底、ザ・モンスターマンの左ミドルキックをさばいてから胴をクラッチしてロープに詰め寄ると、左エルボーを一閃。だが、ザ・モンスターマンは下がることなく左右のフックを見舞っていく。互いの攻撃が止まらない。

4ラウンド。猪木は腕十字に持ち込むが、またも寝技3秒ルールに阻まれる。するとザ・モンスターマンはジャンプしての足刀が顔面にヒットし、ダウンする猪木。起き上がると猪木は片足タックルでテイクダウンを奪い、上からヒジを顔面に押し付ける。これはゴッチ流か。

5ラウンド。ザ・モンスターマンの打撃に苦戦する猪木だったが、足を掛けてテイクダウンさせると、ザ・モンスターマンは後頭部を打ってダメージを負う。

勝負に出た猪木はテーズ式パイルドライバー(リバース・スラム/今でいうところのパワーボム)で叩きつけ、さらに追い打ちのレッグドロップ(ギロチンドロップ)を投下。ダウンを喫したザ・モンスターマンは立ち上がろうとするが、左肩を押さえて立てず、10カウントが入り、猪木のKO勝ち。

緊迫感が溢れる格闘技戦を制した猪木は両手を挙げ、レスラーたちが作った騎馬に乗り男泣きをした。アリ戦で負った汚名を試合で返上したのである。

この一戦がきっかけになり、新日本の観客動員数や視聴率は回復していく。テレビ朝日は特番で猪木の異種格闘技戦シリーズ(格闘技世界一決定戦)を組むようになり、新日本はその放映料でアリ戦で負った借金返済を果たしたのである。

猪木は後年、ザ・モンスターマン戦について「コイツのハイキックは振りが速くて見えないんです。しかも二段蹴りというか、上下でトントーンと蹴ってくるのでかわし切れない。飛び蹴りにしても、絶対届かないだろうと思える距離からシューンと伸びてくるんです。こいつは怖かった」と答えている。(「Sports Graphic Number PLUS January 2000 格闘者 魂のコロシアム」文藝春秋)

死闘を繰り広げた末に敗れたザ・モンスターマンは後年「猪木は偉大な人物であると共に、偉大なファイターだった。その世界で成功するために、長い年月を練習に費やしたのだろう。彼は大きくて力強かったが、私が人生で出会った人間の中でも最高の紳士的で思いやりのある人物のひとりだった。そして、いい試合を私に与えてくれた」と語った。(那嵯涼介『最強の系譜 プロレス史百花繚乱』新紀元社)

猪木と新日本が仕掛けた異種格闘技戦シリーズが総合格闘技(MMA)の源流とするなら、この猪木vs ザ・モンスターマンがなければ総合格闘技の誕生や発展はなかった。そう考えるとこの試合はプロレスと格闘技の歴史を変えた一戦だったのだ。

最強の格闘技はプロレスか、空手か

1978年から1981年まで「週刊少年マガジン」で連載された梶原一騎原作の漫画作品『四角いジャングル』。新日本プロレスや極真空手、キックボクシングなど格闘技界の動向を取り入れたリアルタイム格闘技漫画として人気を呼んだ。

この作品の影響もあり、「最強の格闘技はプロレスか、空手か」という機運が高まる。そんなときに行われたのが、日本プロレス界の盟主である新日本プロレスの王者アントニオ猪木とフルコンタクト空手世界最大組織・極真空手の怪物ウィリー・ウィリアムスの対決。この試合はプロレスファンと格闘技ファンの夢だった。

猪木は数々の異種格闘技戦を経て、あの前田日明よりも前に「格闘王」と呼ばれ、格闘技世界ヘビー級王者に君臨していた。

一方のウィリーは映画『地上最強のカラテPART2』で熊と素手で戦ったことにより、「熊殺し」と呼ばれるようになった空手モンスター。

1979年に第2回極真空手世界大会3位という実績を上げたウィリーは「最強の格闘技はプロレス」を掲げる猪木に「極真空手こそ最強の格闘技」だと挑戦状を叩きつけた。だが、極真空手の大山倍達総裁がその挑戦にストップをかける。第2回世界大会後にウィリーは極真空手から破門されるが、師匠・大山茂と新格闘術・黒崎健時がバックアップに回り、さらに梶原一騎が立会人となり、夢の対決が実現したのである。

決戦当日。両雄のセコンドは殺気立っていた。リングサイドには極真空手の関係者が複数来場していた。「不測の事態があった場合は猪木を生きて返すな」という大山総裁という無言の意思を感じ取っての行動だった。これは新日本プロレスと極真空手の代理戦争なのだ。

試合開始のゴングが鳴った。1ラウンドは両者ともに相手の様子をうかがう展開。2ラウンドになると猪木とウィリーが場外に転落すると、ウィリーサイドと思われる黒いジャンパー姿の男たちが雪崩込み、猪木を襲撃する。ウィリーが場外で猪木に馬乗りになりパンチを浴びせる中、両者リングアウトとなった。

騒然となる会場。場外で口論に発展する両陣営。いつの間にか額から流血している猪木がエキサイトし、ウィリーサイドに詰め寄る。このままでは終われない。立会人の梶原一騎が試合再開を決断する。

3ラウンドに猪木はウィリーを腕ひしぎ十字固めで極めようとしたが「寝技5秒以内」ルールに阻まれた。4ラウンドになると、またも猪木とウィリーは場外に転落。猪木がそこで腕ひしぎ十字で極めると、ウィリーサイドの関係者が殺到し、大混乱。猪木はウィリーサイドにいる空手家に殴られてろっ骨を折り、ウィリーも関節技で右ヒジを痛めて、両者ドクターストップという裁定で、夢の対決は幕を下ろした。

「猪木だからドクターストップに持っていけた」

この試合について貴重な証言を残しているのが、梶原一騎の実弟で作家の真樹日佐夫である。彼は極真空手の師範を務めた経歴を持ち、試合当日はウィリーサイドについていた。

〈「あのとき、会場には警備員が100人いたよ。金属探知機も用意されていた。それに引っかかって帰れなくなった奴もいたよ。あのときは何人も留置場に入ったんだよ。俺も(途中で)絶対にプロレスファンと空手ファンの戦争になると思ったから、どさくさにまぎれてレスラーを蹴っ飛ばしてやれということで鉛入りの靴(スニーカー)を履いていったの。鉛は金属探知機に反応しないからね。でも、鉛の重さですぐに脱げちゃうから、上からガムテープで張りつけたんだ。ちゃんとその靴を履いてサンドバッグを蹴って感触を確かめてから会場に向かったよ。(大山倍達)先生は指令を出さなかったけど、以心伝心で、もしウィリーが負けたら猪木を五体満足で帰すなという気持ちで(空手の関係者は)来ていたよね」



「(引き分け決着ながら必要以上に騒ぎが大きくならなかったのは)あれは猪木だから、ドクターストップという終わり方に持っていけたんだよ。運もあったし、相手をうまくリードできる力もあった。そういうものが全部加味されて、辛うじてああいう終わり方になったんだよ。他のレスラーだったら真似できなかっただろうね」(『週刊プロレススペシャル6 プロレスvs 格闘技大戦争!』ベースボール・マガジン社)〉

ちなみに猪木とウィリーは1997年1月4日の東京ドーム大会で17年越しのリターンマッチで闘っている。決め技限定(猪木=コブラツイスト、ウィリー=正拳突き)ルールで行われた異種格闘技戦は猪木がコブラツイストで勝利を収めた。夢の対決は17年の時を経て決着したのである。

格闘技界に数々の伝説を残したウィリーは2019年6月7日、心臓病のために逝去する。享年67。ウィリーの死去を受けた猪木はこのような哀悼のコメントを残している。

「戦いを離れゆっくり休んで欲しいと思います。さようなら、ありがとう、ウィリー・ウィリアムス。アントニオ猪木」

額を割られ、顔面血だらけの姿はまるで「赤鬼」…北斗晶vs神取忍、女子プロレス伝説の“喧嘩マッチ”を制したのは?へ続く

(ジャスト日本)

ジャスト日本

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加