韓国警察庁長官の竹島上陸の背景にある「小中華思想」の呪縛

韓国警察庁長官の竹島上陸の背景にある「小中華思想」の呪縛

  • JBpress
  • 更新日:2021/11/26
No image

韓国の警察庁長官が上陸した竹島。韓国が実効支配している(写真:Topic Images/アフロ)

(ファンドビルダー:韓国コラムニスト)

韓国は、地球上で唯一と言える反日共和国である。反日が日常化しているうえ、愛国行為としても認定されている。「慰安婦、徴用工、独島(竹島)問題などが存在するために韓国が反日になる」という考えは大きな錯覚だ。韓国は、「反日」そのものを目的とする国家である。

慰安婦、徴用工、独島(竹島)問題などは、「反日」のための手段にしか過ぎない。いつの日か慰安婦と徴用工問題が解決したとしても、韓国は次の手として、関東大震災朝鮮人虐殺事件、朝鮮人被爆者、サハリン残留韓国人、閔妃暗殺事件など新しい問題を浮上させ、どうにかしてでも反日を続けるだろう。

韓国は20世紀に日本と戦争をしたことがない。日韓併合に関しても、当時の朝鮮の総人口の99.9%以上が順応していた。今日の韓国は朝鮮人が独立運動を積極的に展開したように宣伝しているが、これは誇張であり歪曲である。独立運動家の比率は、当時の朝鮮の総人口の0.1%にも満たなかった。

2021年8月15日現在、独立運動に貢献したという韓国の独立有功者数は1万6932人だ(1895年の日清戦争終了時点から1945年8月14日までの期間中活動した人)。この中から外国人72人を除外すれば、1万6860人となる。韓国は2005年に「独立有功者発掘団」という専門組織を創設し、独立有功者を毎年数百人ずつ血まなこになって「発掘」しているが、その中には、反日独立運動である「三・一独立運動」、学生運動、文化運動、啓蒙活動の参加者などがすべて含まれている。

韓半島の人口は1910年代に1300万人程度だったが、1945年にはほぼ倍増し、2500万人ほどになった。このことから、日韓併合時代(1910~1945)の当時の平均人口を約2000万人と見積もるのは無難であろう。

となると、当時の国内および海外で独立運動に勤しんだ朝鮮人1万6860人というのは、総人口の0.084%でしかない。当時の朝鮮人全体の99.916%は、独立運動とは何の関係もなく生きていたということだ。

両班などの支配層から虐げられていた大多数の朝鮮人は、日韓併合のおかげで、初めて人間らしく生きていけるようになった。

独立運動を先導したのは、日韓併合によって特権を受けられなくなった両班階層と社会主義信奉者であり、日韓併合で損害を受けたのは少数の両班階層と、500年間、権力を維持して来た李王家だ。だが李王家は、日韓併合以後も特別待遇を受け、気楽に過ごした。

No image

日韓併合時代の朝鮮の小学校。支配層に虐げられていた大多数の朝鮮人は日韓併合後、人間らしく生きられるようになったと韓国人の著者は言う(写真:Alamy/アフロ)

[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]

韓国人の潜在意識に深く根付く「小中華思想」

日韓併合のおかげで韓半島は近代化し、朝鮮人の生活水準は高まった。日本、米国、欧州、オーストラリア、中国、ロシアなど、地球上の主要国の国民が戦争に動員され、死んだり怪我をしたり、空襲などで国土が廃虚になった時も、韓半島と朝鮮人は相対的に見れば安全であった。

日韓併合時代の35年(1910~1945)は、それ以前の35年(1874~1909)と以後の35年(1946~1981)とを比較してみても、はるかに安全で平穏な時代であった。

日韓併合以前の朝鮮は、政府の無能と腐敗によって民衆の反乱と政変が絶えなかったし、解放以後は朝鮮戦争、後の大統領となる朴正煕が主導した5・16軍事クーデター、光州事件などの激変が続いた。

したがって、今日の韓国人が反日を採らなければならない特別な理由はない。それでも、韓国は事実上、反日共和国という非常識国家として存在している。このような韓国の非常識は、台湾と比較しても際立っている。

韓国の反日は、どんな薬も効かない病気(あるいは精神疾患の一種)と言っても過言ではないだろう。病気の症状には原因がある。肥満の場合、過度の飲食が原因になる。肺疾患の場合は、喫煙が原因になるだろう。それなら、韓国の反日の原因は何だろうか。それはまさに、韓国人の潜在意識に深く根付いている「小中華思想」だと言える。

【関連記事】
韓国に二度煮え湯を飲まされた岸田首相が韓国に対してすべきこと(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67389)
韓国人が語る、反日全体主義集団と化した韓国とどう向き合うべきか(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67390)
自浄能力のない韓国に期待しても無駄、強力な輸出規制をかけよ(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67392)

小中華思想とは、「中国の臣下を自認し、中国を崇拝する思想」を意味する。中国が世界の中心であり、中国から遠く離れたところは辺境の野蛮人だと信じることだ。中国事大主義、あるいは中国を慕う「慕華思想」である。

韓半島では、1000年前に小中華思想が生まれた。李氏朝鮮(1392~1910)以前の王朝としては、高麗(918~1392)がある。

高麗の11世紀後半の人物、朴寅亮(?~1096)は、高麗の王、文宗(1019~1083)について、「(文宗は)野蛮な風俗を中華の風俗に変え・・・(中略)・・・隆盛な文化資産が中国に比べられるほどあり(高麗を)小中華と称した」と書き記している。小中華思想は李氏朝鮮になると、本格的に韓半島に根をおろした。

高麗を倒して政権を取った李成桂(1335~1408)は、中国(明)から建国の許可を得るために、首都を移し、首都名を「中国に属する小さい村(城)」という意味の「漢城」と決めた。自ら中国の一部であると、中国に取り入ったのだ。

合わせて、東京、西京、南京、開京という地名を廃止し、それぞれ、慶州、平壌、漢城、開城に変えた。朝鮮には「京」というものが決して存在しないことを、中国にアピールするためであった。

「朝鮮」という国名すら自分で決められなかった歴史

「朝鮮」という国名さえ、自ら決めたものではなかった。中国(明)から、「新しい王朝名を何にするのか、案を報告しろ」という命令を受け、「朝鮮」と「和寧」という二つの名称候補を中国に提出した。この中から、中国が「朝鮮」という名称を選択したのだった。

このようにして、中国から「臣下の地位」どうにか得たのが、まさに朝鮮だった。以後、朝鮮は、露骨に「小中華」を自認し、かえって自主独立国である日本に向かって、根拠のない優越感を持つようになる。「朝鮮は、難しい中国から『臣下席』を得たが、日本はまだ得ていないので、お前らは野蛮だ」という錯覚と妄想は、その時から始まったと思われる。

日本に向けた朝鮮による根拠のない優越感と虚勢の代表的な例は、1876年の朝鮮修信使一行の行動だろう。

1876年(高宗13年)2月、日本と朝鮮は日朝修好条規条約(江華島条約)を締結したが、朝鮮国内では相変らず衛正斥邪(小中華および宋明理学崇拝勢力)に足をとられて、そこから少しも抜け出せないでいた。

条約締結で、朝鮮が少しでも変わることと期待した日本は失望した。困った日本は、朝鮮の指導層が日本の近代化した姿を直接目で見れば、近代化に対する重要性を知るようになるだろうと思い、アイディアを出した。それが、朝鮮通信使(1607~1811、12回実施)の復活である。

名称は、日本と朝鮮間の信義を新しく修めるという意味から「修信使」にした。以前の朝鮮通信使の場合と同じように、朝鮮修信使の招聘費用は日本が全額負担することにした。第1次修信使は76人に決まった。

ところが、この76人中、約30人が風楽隊(伝統音楽の楽団)と旗手団で構成された。朝鮮修信使一行は、文明国からやって来たということを日本人に広く誇示し自慢するために、風楽隊と旗手団に固執したのだ。

当時の朝鮮の指導層は性理学と朱子学を信奉しつつ、朝鮮の小中華文明が日本よりもはるかに優秀な文明だと信じていた。

【関連記事】
紙幣から紐解く、韓国が過去に囚われ終わった話を掘り返すDNA(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67452)

当時の朝鮮にはちゃんとした船舶がなかったので、日本は朝鮮修信使一行のために日本内務省専用蒸気船「黄龍丸」を送った。朝鮮修信使一行は、1876年5月29日に釜山を出発して、下関を経て横浜に到着した。そして、横浜で蒸気機関車に乗ることになったのだが、朝鮮修信使一行はこの蒸気機関車に大きな衝撃を受けることになる。

朝鮮修信使代表の金綺秀は、『日東記遊』に、日本の蒸気機関車についてこのように記している。

「雷や稲妻のように走り、嵐のように暴れ、一時間に300~400里を走るのだが、車体は穏やかで振動は少ない。左右には、山川、草木、家屋、人物が見えるのだが、目の前を電光の如く過ぎ行くので、落ち着いて眺めることはできない。タバコ一本吸う間に、既に東京の新橋に到着していた」

朝鮮修信使を「化石の一行」と称した英国人

朝鮮修信使一行は、朝鮮が文明国であることを広く知らしめるために、日本の市街を風楽を鳴らして行進した。近代化した日本の大通りを、古風な服装の旗手を前面に立たせ、風楽を鳴らして過ぎ行く光景は、日本人にとっては、普段めったに見ることのない珍妙な姿だった。

これは面白い見世物だと、人々は大挙して集まり、警察が動員され、鎮静させるほどであった。朝鮮修信使の行列は、ただの大きな見世物でしかなく、その人波は歓迎のためではなく、めったに見ることのできない見世物を楽しもうと集まった人々だった。

日本の歴史学者、佐々木克は、このような朝鮮修信使のことを「朝鮮が派遣した修信使は、鎖国状態の朝鮮の無知がもたらした、時代錯誤的なハプニング」と評した。また、当時の日本駐在の英国の新聞記者はこのように書いた。

「伝統的な服装に身を包み、最高の威厳を示しながら行進する朝鮮修信使の行列は、まるで化石の一行だ」

朝鮮が中国の属国であったという事実は、朝鮮王の年号を見てもわかる。朝鮮を建国した李成桂は、明の太祖の年号「洪武」を使用した。例えば、朝鮮は、建国年度(1392年)を「洪武25年」という形で記録した。高宗(1852~1919)の場合、清の同治帝の年号「同治」を使用した。(続く)

【後編】「中華」に対する屈従と日本に対する病的な「反日」の共通点(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67827)を読む

ファンドビルダー

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加