門田博光さんを悼む 父がアキレス腱断裂後の治療担当だったサンケイスポーツ南海担当 親子2代のつながりだった

門田博光さんを悼む 父がアキレス腱断裂後の治療担当だったサンケイスポーツ南海担当 親子2代のつながりだった

  • SANSPO.COM
  • 更新日:2023/01/25
No image

1979年2月16日、右アキレス腱を断裂し倒れ込む門田氏。高知・大方キャンプでのウオーミングアップ中の悲劇だった

南海、ダイエー、オリックスでプロ野球歴代3位となる通算567本塁打を放った門田博光(かどた・ひろみつ)氏が死去した。74歳だった。門田氏の南海在籍時に本紙で担当記者を務めたサンケイスポーツの畑恵一郎代表(58)が、親子2代にわたる門田氏とのつながりを振り返った。1979年のアキレス腱断裂後、父・佳成さんが外科医として治療にたずさわった。

あれは入社2年目を迎える1988年の4月からだった。一般スポーツ担当から南海担当を命じられた。

それが親子2代にわたるカド(門田)さんとの付き合いだった。

亡き父は外科医だった。南海の大方キャンプでアキレス腱を断裂したカドさんの治療を担当した。その後、カドさんに教えてもらった話だが、ホームラン打者へ変わるキッカケを作ったそうだ。

「アキレス腱切って、もうアカンと思ったんや。お父上に『先生、僕はこれからどないしたらいいんですか』って聞いた。そしたらこう言ってくれた。『そんならホームラン打ったらええ。走らんですむがな』って。あれで踏ん切りがついたわ」

その後のカドさんの長距離砲としての活躍、不惑の2冠王など勲章の数々はここで書く必要はない。亡き父の言葉が本当に後押しになったか、わからないが、愚息としてカドさんが活躍する度に、取材する立場とは別に、誇らしげな感覚が胸に残ったのも事実だった。

もちろん、父親からの関係で記者である私をえこひいきするような人では決してなかった。どころか、とんでもなく取材しにくい、駆け出しの私には怖い、ややこしく、わがままで難解な存在だった。

でも、振り返れば私のスポーツ記者として、その後の財産もカドさんにはたくさんいただいた。ひとつあげれば「見る」という取材の原点だった。

カドさんは背中に〝目〟があった。左打者だから南海の本拠地、大阪球場の一塁側ベンチにいる記者の私が見ても、打撃練習中のカドさんにはわからないはず。でも、来る日も来る日も、背中のしわになって、よじれた背番号「60」番を見続けた。いつの頃からか、背中のユニホームのシワの寄り具合で、なんか調子がわかってきたような気がした。

それでも相変わらず、カドさんは無言のままなのだが、ある日、打撃練習から引き揚げる際、私の横を通り際、ポツンと「どや」とつぶやいた。

なんて返事したかまでは覚えていない。でも、カドさんは見えるはずのない、私の視線を感じ、わかってくれていたのが、とてもうれしかった。

もう20年以上前。父が他界した。通夜の夜、もう誰も来ない夜10時過ぎ。私が一人で棺の番をしているとカドさんが突然、一人訪れた。ビックリした。カドさんは両手を合わせながら小さくつぶやいた。そばにいた私がようやく聞き取れるほどだった。

「先生のあの言葉のおかげでホームラン王になれました。ありがとうございました」

その言葉だけつぶやき、後は無言で去っていった。

果たして私はカドさんにどんな手向けの言葉を贈ればいいのか。訃報に触れたばかりで言葉が浮かんでこない。でも、「ありがとうございました」とだけは言える。

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加