奇跡の一本松と伐採された御神木 日系3世のチェロ奏者が音色に込めたこと

奇跡の一本松と伐採された御神木 日系3世のチェロ奏者が音色に込めたこと

  • Forbes JAPAN
  • 更新日:2021/04/07
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青々と広がる海に、褐色に広がる大地──。すっと佇む「奇跡の一本松」。

2011年の東日本大震災で、約7万本あったとされる岩手県陸前高田市の高田松原は壊滅状態となった。西の端にあった1本の松の木が、押し寄せる津波に耐えて立ったまま残った。

その「一本松」も海水の影響で枯死したが、保存作業が施され、復興を象徴するモニュメントとして10年たった現在も同じ場所に立っており、多くの人が見学に訪れている。

だが、そこからほど近い気仙川沿いにある今宮天満宮の樹齢800年の巨木「天神大杉」が震災後に枯死し、伐採されたことを知る人はどれほどいるだろうか。

天神大杉は高さ30メートルもあり、古くから「御神木」としてこの地域では親しまれてきた。25メートルほど伐採されたが、いまも根元近くの太い幹は残っている。

東日本大震災から10年を迎える直前、残された御神木の前で、鎮魂と希望の思いを込めて自ら作曲した楽曲を、胴体に「奇跡の一本松」が描かれたチェロで、演奏した音楽家がいる。

日本にルーツのある、オーストラリア出身のアーティストであり、チェロ奏者のベンジャミン・スケッパーだ。

かつて国際弁護士として活躍したが、2008年のリーマンショックを機にチェロ奏者へと転身し、09年にはグローバルな活動を行うため東京にクリエイティブ・シンクタンク「contrapuntal」を設立する。

イタリアやロシアなどでも活動を展開してきたが、昨年から本格的に日本に拠点を移し、音楽とアートの力を復興の糧にしてもらおうと「OUR STORY by BENJAMIN SKEPPER:FOR OUR FREEDOM in Iwate」を始めた。

ベンジャミンはどんな思いで鎮魂と希望の楽曲をつくり、新プロジェクトを始めたのだろうか──。

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伐採された「天神大杉」の前で、演奏された「TSUNAMIチェロ」(Photo:Hidemi Ogata)

被災木の「チェロ」で奏でた曲

2月下旬、ベンジャミンはチェロの演奏をするために初めて陸前高田を訪れた。今宮天満宮では震災の津波で拝殿や鳥居などが流され、社殿を再建中だ。樹齢800年の断ち切られた御神木の前に立ち、彼は何を思っただろうか。

「自然がすごく泣いているように感じましたね。いかに人間が自然の力をわからなくなってしまったか。たくさんの人たちが犠牲になり、人間の死を感じて悲しさが込み上げてきました。だけど、残された幹の周りには赤ちゃんみたいな葉っぱが出ていて、我々の未来を表しているようだと感じました」

そして、自然と涙が溢れ出てきた。海水で被害を受けても、樹齢800年の歴史の中で地面には根が張り巡らされ、そこには古くからの生態系が成り立っている。演奏に使用した「奇跡の一本松」が描かれたチェロも、弦楽器製作を手がける中澤宗幸さんが被災木で製作したものだ。この時、ベンジャミンは「自然は死なない」と直感した。

彼が今宮天満宮の「御神木」の前で奏でたのは、自身が作曲した楽曲「For Our Freedom」。周りの心を落ち着かせるようにゆったりと音色を響かせた。それは、再生へと向かう自然と調和するように柔らかな音色だ。

この曲は東日本大震災が起きる前の2011年2月中旬、予知夢のように津波の夢を見て、深夜に起きて明け方までチェロを弾きながら作曲したという。曲名には「それぞれの人生にミッションがあるから、希望を持って自分らしく生きよう」という思いを込めた。これまで8年間滞在したロシアや、イタリアなど世界各地で演奏してきた。

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再建中の今宮天満宮で(Photo: Hidemi Ogata)

演奏の当日、今宮天満宮に集まった地元の人々の被災体験に耳を傾けると、太平洋戦争中に広島で被曝した祖母の姿に重なった。話を聞いたある女性は震災から10日後、瓦礫の下にいた子どもに気づいたが、どのように瓦礫を取り除いたらいいか分からない。近くの人と協力したが、為す術はなかったという。

「陸前高田でも10人くらいのおばあちゃんの話を聞きましたが、彼女たちは当時を思い出して涙をこぼしていました。津波で町ごと流されてしまっても、自然とともに生きていく。そんな強さも感じて、自分のおばあちゃんを思い出しました」

戦争花嫁としてオーストラリアに渡った祖母の教え

彼の祖母、井川憲惠(1925~98年)は広島県出身。原爆で被曝したが、生き残り、終戦後にオーストラリア兵のウイリアム・ブラウンと結婚し、1953年にオーストラリアに移住した「戦争花嫁」だという。

幼少期からクラシック音楽の英才教育を受けたベンジャミンは、演奏家として10代から世界を巡る生活をしており、トップ美容師として活躍する両親に代わって、祖母が彼の演奏旅行に同行することが多かった。

「祖母は戦争花嫁として最初にオーストラリアに渡った日本人で、忍耐強いパイオニア精神をもった女性でした。彼女の人生のストーリーや原爆の被爆体験を聞いて、子供のころから日本に強い関心がありました」

ベンジャミンは、日本語教育が受けられるメルボルン高校に入学。その後、メルボルン大学法学部に進学、上智大学にも留学して日本語を身につけた。

当時のオーストラリアでは「スポーツはマッチョ、音楽はゲイだという偏見があった」とベンジャミンは振り返り、せっかくクラシックの英才教育を受けて育った周りの友人も、音楽やアートの道を選ばず、法律家やエンジニアを目指す人が多かったということだ。

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取材時にも「For Our Freedom」を即興で演奏した

カンボジアで学んだオリエンタルな課題解決

最初は「弁護士になりたくない」と反抗していたが、祖母から教えられた日本のことわざ「石の上にも三年」を信じて、我慢してその道を選んだ。

そんななか、カンボジアのNGOで少数民族をサポートするボランティアに行く機会があり、そこで大きな影響を受けたという。

当時は、ポル・ポト政権後のカンボジア紛争(1979~91年)終結した後で、市場経済化が進められ、現地の人々がまちづくりの方向性を模索していた。そこでは、僧侶が地域の問題解決に向けて話し合いの場を主導していることに驚いたと振り返る。

「訴訟はA or Bの勝ち負けの世界ですが、話し合って解決するという方法が印象深く、とても影響を受けました。また宗教が色濃く根付いていて、課題解決のためにも大事にされていることから、オリエンタルな価値観を学びました」

音楽家への転身 多様な分野を融合して新しい息吹を

主に国際法や人権法を勉強して、大学在学中に国際弁護士事務所で1年間働きながら弁護士の資格を取得すると、事務所を辞めた。その後も一時は国際弁護士の道を進んだが、前述のようにリーマンショックを機に本格的にアーティスト兼チェロ奏者に転身し、各国で演奏活動をしてきた。

新プロジェクト「OUR STORY by BENJAMIN SKEPPER:FOR OUR FREEDOM in Iwate 」では、現代アーティストのプロダクション事業を展開するHARTiと組んで、陸前高田で撮影したドキュメンタリー映画の製作も進めており、そのため祖母のルーツがある広島など日本各地でもドキュメンタリー製作と演奏活動を計画している。ベンジャミンが抱負を語る。

「環境やアート、カルチャー、自然、まちづくりなど、未来を生きる若い人たちが抱える問題をどう解決すべきか。被災地ではまちづくりに住民の声があまり反映されていない、行政トップダウン方式の限界を感じました。現地の人たちと語り合う場を設けて、音楽とアート、メディアのパワーで新しいムーブメントをリードして行きたい」

このほかにも、4月16日~18日には、東京都千代田区にある登録有形文化財の「kudan house(九段ハウス)」で、新感覚のアートと食のイベント「A Taste of the Senses」を開き、ライブパフォーマンスなどをする。

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音楽やアートなどの力で「新しいムーブメント」を起こしたいと意気込むベンジャミン。どんな活動を展開していくのか

そして、ベンジャミンは自分の立ち位置を次のように考えている。

「アーティストは、社会から切り離された存在ではなく、社会の一員なのです。音楽やアート、法律、ビジネスなど多様な分野を融合することにより、人類が豊かになる。被災地で暮らす人たちと一緒にローカルコミュニティを軸に輪をつくっていくことは、そのひとつです」

ひとつの職業に縛られず、多分野を自由に行き来するベンジャミンの今後のプロジェクトに期待したい。

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