江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目

江戸で流行のコレラから民を守ったヤマサ醤油七代目

  • JBpress
  • 更新日:2021/01/13
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(柳原 三佳・ノンフィクション作家)

正月休みが明けて間もない1月7日、東京都内ではこれまでで最も多い2447人の新型コロナウイルス感染者が確認され、同日、首都圏の1都3県に2度目の緊急事態宣言が発出されました。

私が住んでいる千葉県もその対象となっていますが、つい先日まで「GoToトラベル」や「ディスカバー千葉」等のキャンペーンを展開し、大々的に旅行が推奨されていたことを振り返ると、『あれは何だったのか・・・』と首をかしげざるを得ません。

そうこうしているうちに、千葉県も9日にはついに、477人もの感染者を記録してしまいました。連日の報道を見ていると、医師会の危機感と政府の方針の乖離に大きな不安を覚えるばかりです。

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幕末の日本を恐怖に陥れたコレラの大流行

実は、今と同じような危機が、幕末の日本でも起こっていました。

明治維新の10年前、1858年に日本中を襲った「安政のコレラ大流行」です。

このとき、江戸(現在の東京)のすぐ隣に位置する下総国(現在の千葉県)の銚子で、コレラの感染拡大を食い止め、ほとんど死者を出すことなく収束させた若き医師がいたことは、昨年2月、本連載の31回目〈幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎〉で書いた通りです。

(参考記事)幕末、感染症に「隔離」政策で挑んだ医師・関寛斎
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59485

コレラ菌がドイツの細菌学者・コッホによって発見されたのは1883年ですから、当時はもちろん、病原菌の存在など確認されていませんでした。民衆は次々と人が死んでいく恐怖を前に迷信にすがり、豆まきをしたり、家の前に松の飾りをつけたり、獅子舞に舞わせたりするしかなかったのです。

そんな中、銚子で病院を開業していた29歳の関寛斎は、高名な蘭医に教えを請い、さまざまな医学書を読み、江戸から薬を取り寄せ、そして、隔離対策を実行します。

昨年の記事では、関寛斎の子孫であり、医師で参議院議員の梅村聡氏の講演内容を取り上げましたが、梅村氏のお話の中で特に印象に残ったのは、関寛斎が語ったという以下の言葉です。

「幕府の役人に任せると、話し合いばかりしてなにも決まらない。こういうときに大事なことは、先に医者が動くことだ」

結果的に、江戸ではコレラ感染によって約30万人の死者が出てしまいました。しかし、銚子は江戸からそう遠くないにもかかわらず、ほとんど死者を出すことなく、民衆を守ることができたのです。

コレラから銚子を守った濱口梧陵

さて、今回はここからが本題です。前回の記事では触れることができなかったのですが、このとき、銚子でコレラの感染拡大を食い止めたのは、関寛斎ひとりの力ではありませんでした。実際には、現在まで続くヤマサ醤油の七代目を継いだ濱口梧陵(はまぐちごりょう。七代目濱口儀兵衛/1820~1885)という実業家の後方支援によってなしえたのです。

濱口梧陵に関しては、『稲村の火』という物語が、かつての教科書に掲載されていたので、ご存じの方も多いことでしょう。

(参考)濱口梧陵記念館「稲むらの火の館」資料室
https://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/siryo_inamura.html

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濱口梧陵(Wikipediaより)

コレラ騒動の4年前に起こった、安政南海地震による大津波から、地元の紀州・広村(現在の和歌山県広川町)の住民を守ったという逸話は、今もしっかりと語り継がれています。

和歌山と江戸を行き来し、長年、銚子で醬油づくりを行ってきた濱口家の当時の当主・梧陵は、銚子の町でも有力者の一人として、民衆の暮らしには常に気を配っていました。

1858(安政5)年、コレラが大流行したとき、偶然江戸にいた梧陵は、銚子にいる医師・関寛斎に次のような緊迫した内容の手紙を送っています。『濱口梧陵傳』(広川町教育委員会)の中からその内容を一部抜粋してみたいと思います。

「まだ銚子にはコレラが発生していないが、目下、江戸で猛威を振るっているこの悪疫は、早晩、銚子方面へも流行が拡大していくと覚悟しなくてはならない。ゆえに、流行するに先立ち、予防法と治療法を研究しておく必要がある。一切の費用は濱口家が負担するので、寛斎を急いで江戸へ来させてほしい」

この手紙を受け取った関寛斎は、一名の従者を伴って早々と銚子を出発しました。

江戸で寛斎を迎えた梧陵は、早速、当時、一流の蘭方医であった林洞海(はやしどうかい)や三宅艮斎(みやけごんさい)らに寛斎を紹介し、コレラの治療と予防法を急いで研究させます。

患者の隔離で銚子での感染爆発を阻止

梧陵の計らいでひと通りの研究を終えた寛斎は、すぐさま予防や治療に必要な薬品類、書籍等を購入して銚子に戻りました。

寛斎が戻った時には、すでにコレラは江戸から銚子にも広がり、感染が拡大しつつありました。しかし、寛斎は罹患した患者をすぐに隔離するなど素早い対応を取り、ギリギリのところで感染爆発を食い止めることに成功したのです。まさに、濱口梧陵の先見の明と素早い動き、そして莫大な個人の費用負担によって、結果的に銚子の人々の命は救われたと言えるでしょう。

それにしてもなぜ、ヤマサ醤油の当主がここまでのリーダーシップを発揮することができたのでしょうか。

実は、当時の銚子(下総国)は高崎藩の飛び地で、地元には出張陣屋に郡奉行1名と代官2名が派遣されている程度の知行でした。つまり、藩の力はほとんど及んでおらず、事実上、財力のある濱口梧陵のような実業家が、行政のみならず、消防まで担っていたようです。

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銚子市にある濱口梧陵の紀徳碑(筆者撮影)

佐野鼎と濱口梧陵の共通人脈

さて、本連載の主人公は「開成を作った男、佐野鼎(さのかなえ)」(1829~1877)です。なぜ、この連載の中で濱口梧陵や関寛斎を取り上げているのか・・・。

実は、彼らと交流のあった人物を調べていくと、佐野鼎とも接点のあった人物が多数登場します。この面々はきっと、「蘭学」「洋学」といった共通のキーワードでつながっていたのではないかと思われるのです。

まず、濱口梧陵の生涯の友として有名なのは、勝海舟です。実際に、梧陵を偲ぶ顕彰碑の揮毫は勝海舟によるものですが、勝海舟と佐野鼎は長崎海軍伝習所で同じ時期に学び、1860年の遣米使節での渡米の際も、咸臨丸に乗っていた勝海舟とサンフランシスコで合流しています。

佐野鼎が記した『訪米日記』にも、勝の名前が登場します。

また、梧陵が教育の在り方について大きな影響を受けた人物の一人に福沢諭吉がいますが、福沢と佐野は1861年の文久遣欧使節としてともに船に乗り込み、ヨーロッパ諸国を訪れています。

福沢と交わしたであろうやり取りは『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)にも登場します。

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『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著、講談社)

さらに、梧陵が尊敬していた蘭方医の三宅艮斎の長男・秀(ひいず)とも、佐野鼎は接点がありました。

日本の西洋医学の発展に尽力し、東京大学医学部初の医学博士で、名誉教授となった三宅秀は、1867年から加賀藩の壮猶館(そうゆうかん)という学問所で英書の翻訳や英学教授に従事していました。

佐野鼎も同じく、加賀藩の壮猶館で教授をつとめていました。三宅秀は佐野鼎より19歳年少ですが、彼らは数年間、同じ職場の同僚だったことになります。

佐野鼎と濱口梧陵の直接の接点を裏付ける文書は見かけたことがありませんが、志を同じくする共通の知人が複数いたことは間違いのない事実です。

何より、濱口梧陵は海外渡航に強い憧れを持っていました。咸臨丸に乗り込んでの渡米も真剣に検討していたようです。そんな彼ですから、遣米使節団に随行した佐野鼎たちの動向に目を見張り、訪米日記を入手して読んでいても不思議ではありません。

結局、梧陵が海外視察のためにアメリカへ赴いたのは明治17年のこと。皮肉にもその翌年、病気のためにニューヨークで亡くなっています。享年65歳でした。

当時の彼らの足跡と人脈を辿りながら、想像を巡らせてみるのもまた楽しいものですが、160年前の日本には、私財を投じて、いち早く「感染症の予防と撲滅」という社会貢献に力を注いだ人物がいたのですね。そのことを、ぜひ記憶にとどめておきたいと思います。

柳原 三佳

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