
視聴率20%の好スタート
『青天を衝け』の初回の視聴率は20%、好調な発進であった。
おそらく前週2月7日に『麒麟がくる』の最終回が放送され、間をあけずに次週2月14日に第一話が放送されたからだろう。

主演の吉沢亮〔PHOTO〕Gettyimages
『麒麟がくる』の最終話は本能寺の変が描かれ、話題になった。
明智光秀は、天正10年に織田信長を本能寺で殺した。そこはきちんと描かれた。でもそこまでしか描かれなかった。11日後の山崎の合戦で光秀は敗れたがしかし『麒麟がくる』では死んだとはされなかった。
その3年後の、生き延びたとおもわれる光秀が映し出されたのである。
光秀は、山崎の合戦以降も生き延びたのではないかという、歴史的な妄説が採用され、とても驚いた。とても愉快でもあった。
その話題の余熱が冷め切らぬうちに一週間が経って、『青天を衝け』が始まった。
しかも、冒頭、徳川家康が出てきて、日本の歴史について語った。
「信長様にすすめられて」私も鉄砲を使い、平和の世をもたらした、「徳川幕府の二百六十年」をよい時代だったと自賛していたのである。
この家康の登場は『麒麟がくる』を受けての登場だったのだろう。
明智光秀から渋沢栄一につなごうとして、家康が出てきたように見える。
44年ぶりの…
大河ドラマで、前作の最終話から、7日後の日曜に、つまり一週間後に次作が始まるのは、じつに44年ぶりのことである。
大河ドラマ第14作『風と雲と虹と』の最終話は1976年の12月26日に放送され、その一週間後、1977年1月2日に『花神』の第一話が放送された。
これが一週間の間隔で大河ドラマが交代したもっとも近い放送になる。
『風と雲と虹と』の主人公は加藤剛が演じた平将門、『花神』は中村梅之助が演じた大村益次郎である。かなり隔たりのある主人公の交代だった。(平将門は大河ドラマで扱われた主人公でもっとも古い時代の10世紀前半の人である。藤原道長や清少納言より60年ほど年長)
初期の大河ドラマは、だいたい年末の最終日曜に最終話が放送され、一週後の年始第一日曜に次の第一話が放送されることが多かった。
1963年から1977年までは、昭和でいえば38年から52年まで、大河ドラマ交代のインターバルは一週間だった。
最終日曜が12月31日になってしまった1967年(『三姉妹』)、1972年(『新・平家物語』)と、12月30日だった1973年(『国盗り物語』)は、それぞれ最終回はその前週だったが、それ以外は第1作『花の生涯』から第15作『花神』まで、最終話は年内最終日曜に放送されていた。

『花神』に出演した浅丘ルリ子〔PHOTO〕Gettyimages
たぶん、昭和の半ばころは、みんな年末ぎりぎりまで働いていた、ということではないだろうか。12月半ばくらいから「年末スペシャル」と称して、特別な番組をいろいろ展開するのがいまのテレビのお約束になっているが、それは1980年代の昭和末期に始まり、平成になって定着したすこし奇妙な習慣なのだ。
大河ドラマの最終話は、1985年以降は12月半ば(11日から17日)に迎えるようになり、1990年(平成2年)は、さらに前(12月9日ごろ)に終わるようになった。
大河ドラマだけではなく、日本人の年末年始の生活が何か変わったからだろう。
だから、一週しか空かずに、大河ドラマの最終話の次の週に次作第一話が始まったのは、じつに珍しいことなのだ。
おそらく今年だけの復活ではないだろうか。
物語の始まりは敢えての…
北大路欣也演じる徳川家康の前説が終わると、主人公の吉沢亮が映し出され、物語が始まった。
冒頭はまず、文久4年だった。
文久4年は改元あって元治元年となるので、あまり「文久4年のできごと」というのは聞いたことがないなとおもって調べると、2月20日に改元されている。文久4年はほんの少ししか存在しない。
敢えてその「文久4年」を用いてるところにこのドラマの細かい選択が見える。
渋沢栄一が喜作とともに、一橋慶喜に直訴のように出会うシーンから始まった。
(テロップでは徳川慶喜と出ていたが、栄一が、あれが一橋様か、と言っていたように彼をこの時期に「徳川」慶喜と呼ぶ人はあまりいないとおもわれる)。

徳川慶喜を演じる草なぎ剛〔PHOTO〕Gettyimages
騎乗の殿様の前に出ようとしているようで、斬られるのではないかと、はらはらして見ていたら、慶喜公はやさしいのか(ツンデレかもしれない)、彼らに声をかけてくれる。
この出会いから、日本が近代が始まる、という驚きのナレーションから始まった。
ちょっとどきどきした。
タイトルが入り、時は少し戻って、天保15年、渋沢栄一の幼少時代から再び物語が始まる。渋沢栄一は天保11年生まれだからこのとき4歳。
そこから水戸藩の風景になった。
藩主の斉昭が出てきて、その子の慶喜はまだ7歳。
水戸藩家臣として藤田東湖と武田耕雲斎が出てきた。
そうか、水戸の攘夷派というのは、早すぎる攘夷派だったんだよな、と、東湖と耕雲斎の名前を見ておもいだしてしまう。この2人の名前は(東湖の息子の小四郎を連想してしまうこともふくめて)見てるだけで、かなり、哀しくなる。このへんの人たちの変転をきちんと最後まで見つめなければいけないのか、とあらためて覚悟を決めることになる。
罪人として高島秋帆が登場し、幕閣の首班として阿部正弘が出てきた。
第一話に出ていたのはそういうメンバーだった。
そこそこ有名な人たちであるが、少し地味でもあるし、高島秋帆以外は、ちょっと哀しみとともにおもいだす名前である。
『青天を衝け』は、あまり知られてない渋沢栄一の前半生をしっかり描いてくれるのだろう。彼の人生は文久4年に慶喜に出会うまでに、かなりの紆余曲折があるし、出会ったあとも変転する。
それを吉沢亮が溌剌と演じるのが楽しみである。
待ち受ける大河ドラマの鬼門…
ただ、心配なところもある。
渋沢栄一の人生のメインは明治以降にある。
近代日本を作り上げた男として、彼の見せどころは明治時代の活躍だろう。
でも、大河ドラマでの「明治時代」は鬼門である。
明治を舞台にした大河ドラマは、まず視聴率を取れない。
わかりやすいところでいえば、前々作の『いだてん』だ。(2019年)
明治から昭和にかけてのオリンピックの物語で、オリンピック好きが見るぶんにはじつにわくわくするお話だったのだが、視聴率は紹介するのもしのびないほどに低かった。たぶん、これまでの大河ドラマファンはほぼ見てなかったのではないか、という数字であった。
歴代大河のうち『いだてん』がもっとも人気なく、その次は2015年の『花燃ゆ』である。
井上真央の主演。演じたのは吉田松陰の妹。幕末動乱の長州の話から始まり、大正年間まで生きた女性を演じたから、明治以降もしっかり描かれていた。

井上真央〔PHOTO〕Gettyimages
明治維新後が長いなあ、とおもって見ていたのをすごく覚えている。維新後、群馬県令の楫取素彦(かとりもとひこ)と再婚するが、かなり地味な展開であった。
また、2018年の『西郷どん』もあまり人気がなかった。西郷隆盛が主人公であるかぎりは、幕末動乱の時代だけではなく、明治に入ってからの西郷どんも描かれるわけで、もともとあまり高くなかった視聴率は、明治時代に入ってしっかり下がってしまった。
どうも、大河ドラマファンは、明治がそんなに好きではないようなのだ。
大河ドラマは、どこまでも「時代もの」であってほしいという気持ちがあるのだろう。
私も大河ファンとして、気持ちはわかる。
べつだん、明治時代以降を毛嫌いするつもりはないのだが(『いだてん』は全話、なめるように見て楽しんでいたくらいだ)、でも「明治維新後を大河ドラマで見る」ということになると、とたんにテンションが下がってしまうのは、わかる。申し訳ない。
細かくいうなら、戊辰戦争まではいい。でもそれ以降は、士族の反乱なども含めて、もう明治だという感じがして、気持ちが盛り上がらない。申し訳ない。
つまり、土方歳三や大村益次郎くらいまでならいいけれど、江藤新平や、西郷隆盛、木戸孝允あたりの生涯を追うとなるとちょっと違ったところに入ってきたなとおもってしまうのだ。
明治時代が舞台だと「時代もの」ではなく「現代に近いもの(近代もの)」と感じてしまって、大河ドラマとしては、ちょっと距離をとって見てしまう。
不思議な感覚である。
感じてることをそのまま言ってしまうのなら、「明治の人は刀を持っていないし、戦うときに鎧兜を身につけていない」から、だからなんかおもしろくないのである。ちょっとばかみたいな意見で申し訳ないが、自分の気持ちを正直に書くとこうなるからしかたがない。
「武士たちがあつまって旗指物を翻し、鬨の声をあげ、接近戦で戦う」というのが、大河ドラマとしては、いいんである。
そうおもっている。
正装して廟堂で議論を戦わせて政敵を追い払うという行為は、近代的で、紳士的だとおもうが、なんか盛り上がらないのだ。
べつだん戦いが見たいとか、戦闘シーンが大好きとか、そういうことではない。
たぶん、とても劇的なもの、が見たいのだとおもう。
わかりやすく劇的なものが見たい。
「本能寺の変」や「禁門の変」は勝ち負け(生死の分かれ目)がとてもわかりやすい。そういうものが見たい。
「明治六年の政変」や「明治十四年の政変」では、あまり興奮しない。
勝ち負けがわかりにくいからでもある。
おそらく「昭和12年の宇垣一成の組閣流産」や「平成3年の小沢一郎の総理候補面接」と同じようなもので、密室感が強いし、裏の動きが大事そうで、見ていてもよくわからない。おそらく説明されてももっとわからない。だからドラマ化されても興奮しない。
もっと「見ていてわかりやすく、興奮できるものが見たい」というのが、申し訳ないのだけれど、「大河ドラマファンの偽らざる心境」なのである。(個人的な意見であるが、同じ傾向の人は少しはいるとおもう)。
その点は『青天を衝く』がすこし不安な部分である。
明治以降も、若々しく躍動する渋沢栄一を吉沢亮が演じてくれれば、ずっとついていくとおもう。
ドラマと相性悪い「経済もの」
もうひとつ気になるのは、渋沢栄一の明治以降の活動が「経済」が中心となっているところである。
経済はドラマになりにくい。
日本経済新聞と関係の強いテレビ東京が、「ドラマBiz」という経済ドラマ枠を作ってドラマを制作していたことがあったが、かなり苦しいドラマだった。
やはり『半沢直樹』のように、舞台がビジネスシーンであっても、人の怨念や熱情が語られないと見てもらえないわけで、なかなか「経済を中心に据えたドラマ」はむずかしい。
「大河ドラマBiz」が展開されたら、たぶんじっと見ていられないとおもう。
いっそ渋沢栄一の経済活動はすべてナレーションで済ませる、というくらいの「ナレ経」処理がいいのかもしれない。
あとはひたすら、主演の吉沢亮たのみということになる。

吉沢亮〔PHOTO〕Gettyimages
『なつぞら』や『半沢直樹』、また映画『キングダム』での吉沢亮は比較的「静」の演技が目立っていたが、この大河では「動」の人を演じることになる。
若い渋沢栄一は、かなり落ち着きのない人である。
そこが魅力的に演じられれば、そのままの勢いで最後まで見られそうな気がする。
吉沢亮のメヂカラに期待している。