「牟田口軍司令官の暴走を押えてもらいたい」 届かなかった河辺軍司令官の悲痛な“叫び”

「牟田口軍司令官の暴走を押えてもらいたい」 届かなかった河辺軍司令官の悲痛な“叫び”

  • 文春オンライン
  • 更新日:2020/11/20

牟田口中将が武断した「インパール作戦」 なぜ、最大の問題だった“後方補給”は省略されたのかから続く

第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」。NHK連続テレビ小説「エール」では、名作曲家・古関裕而をモデルにした主人公・古山裕一がインパール作戦に従事する様子が描かれ、話題となった。

インパール作戦惨敗の主因は、軍司令官の構想の愚劣と用兵の拙劣にあった。かつて陸軍航空本部映画報道班員として従軍したノンフィクション作家・高木俊朗氏は、戦争の実相を追求し、現代に多くのくみ取るべき教訓を与える執念のインパールシリーズを著した。シリーズ第2弾『抗命 インパール2 (文春文庫)』より、牟田口廉也中将が周囲の反対を押し切り、インパール作戦を決行する様子を描いた「インド進攻」を一部紹介する。(全6回の4回目。#1#2#3#5#6を読む)

◆◆◆

関東軍を支配していた片倉衷

片倉衷の名は、早くから有名であった。満州事変を画策し、実現させ、関東軍を暴走させた首謀者のひとりであったからだ。これについて、満州事変当時、奉天総領事代理だった森島守人氏が、その著『陰謀・暗殺・軍刀』(岩波新書)のなかで、つぎのように書いている。

《板垣征四郎大佐を筆頭に、石原莞爾中佐、花谷正少佐、片倉衷大尉のコンビが関東軍を支配していたので、本庄司令官や三宅光治参謀長は全く一介のロボットにすぎず、本庄司令官の与えた確約が取り消されることがあっても、一大尉片倉の一言は、関東軍の確定的意志として必ず実行されたのが、当時における関東軍の真の姿であった》

片倉高級参謀のために、牟田口計画も阻止されそうに見えたが、方面軍司令部の空気も悪化するばかりだった。

河辺軍司令官はこうした状態を打開しなければならなかったが、その力がなかった。

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©iStock.com

河辺軍司令官は総軍の稲田総参謀副長に事情を打ちあけて助力を求めた。

当時、稲田副長は総軍の作戦を、ひとりできりまわしていた。寺内総軍司令官も黒田総参謀長も、稲田副長にまかせきっていた。頭も明敏であったが、遠慮なく痛烈な意見をはく反骨の人でもあった。

牟田口軍司令官の暴走を押えてもらいたい

稲田副長は最初にビルマに行った時に、河辺軍司令官の意向を聞いていた。それは、近く兵棋演習をおこなって、とくに15軍の考えを十分にただすから、その時に、ぜひ出席して牟田口軍司令官の暴走を押えてもらいたいということであった。

稲田副長は、このために大本営に連絡して参謀の派遣をたのんだ。竹田宮と近藤参謀のふたりには、シンガポールで会談して、稲田副長の考えを伝えた。牟田口軍司令官の性格から見て、宮殿下のような高貴の人にぴしゃりと押えてもらうのが、一番効果があると思われたからであった。竹田宮も、稲田副長の考えに同意していた。

竹田宮がラングーンで、牟田口軍司令官の懇願をしりぞけたのもこうした事情からであった。兵棋演習が終ったあとで、河辺軍司令官は稲田副長に感謝して、ていねいに礼をのべた。

兵棋演習の結論としても、牟田口計画は不備不確実であり、方面軍や総軍の意図にも反するとされた。しかし、インパール作戦そのものが否定されたのではなかった。牟田口軍司令官の計画は拙速として否定され、実行可能の改案を要求されたものであった。インパール作戦の必要があるということは、結論でも認められた。

総軍では、こうした事情を大本営に伝えて、準備をうながすことになった。このために稲田副長が東京に派遣された。

それまでの大本営は、インド進攻計画は実行困難だと考えていた。その理由は

(1)日本の航空兵力が劣勢である。

(2)補給が困難である。

(3)防衛地域が広くなるので、そのために兵力を増加しなければならなくなるからだ。

それでも、牟田口軍司令官から直接の要請があったので、大本営では第1(作戦)部長の綾部橘樹少将をビルマに派遣した。綾部少将は牟田口軍司令官に会って、大本営としては、全く不同意であることを伝えた。4月19日のことであった。

インド国民軍を気に入っていた東条英機

稲田副長は7月12日から1週間、東京にいた。その間に、インパール作戦を実施する場合に必要な後方部隊の増加配属を大本営に要請して承認を得た。このころには、大本営もインパール作戦に期待をかけるようになっていた。

稲田副長は任務が終ってから、東条英機大将に会見した。東条大将は、しきりに、インドに行くのはだいじょうぶかと心配した。稲田副長は、

「チャンドラ・ボースをインドにいれてやれば、いいのですよ。それには、できるだけ損害をすくなくする方法を考えることです」

と、作戦のねらいを示すと、東条大将は喜んだ。インド国民軍をひきいているボースを、東条大将は気にいっていて、期待をかけていた。別れぎわに、東条大将は小心らしく、

「まあ、よく用心してやってくれ」と、くりかえした。

「いや、心配せんでください。むちゃはさせませんから」稲田副長は牟田口計画をあくまで押えるつもりだった。

インパール作戦のための準備

8月になって、大本営は総軍に対して、インパール作戦のための準備について指示を与えた。総軍は、このことをビルマ方面軍に伝えて、準備を命じた。8月7日である。この準備要綱のなかで、はじめて“ウ号作戦”の文字が使われた。

ビルマ方面軍は、さらに第15軍にこの準備を命じた。その時、とくに第15軍の久野村参謀長を方面軍司令部に呼び寄せた。そして、インパール作戦についての方面軍の考えを説明し、いままでの牟田口計画のような独断をいましめた。久野村参謀長もじゅうぶんに了解し、両者の考えは完全に一致した。8月12日のことであった。

この準備命令に基づいて、第15軍は隷下の各部隊長をメイミョウの軍司令部に集め兵棋演習を催した。各部隊長の、作戦についての考え方を、統一させるためであった。この演習には、方面軍の中参謀長も参列した。

否定しなかったことは、肯定になった

この時の計画で、ウ号作戦は奇襲戦法で突進することを明確にした。牟田口軍司令官の得意の構想であった。また、そのなかでは、烈の1個師団をコヒマに使うことになっていた。これは、コヒマを占領して、さらにアッサム州に進攻しようとする牟田口軍司令官の執念ともいうべき計画であった。しかし、この作戦は、すでにラングーンの兵棋演習の時に否決されている。その上、2週間前には、久野村参謀長が方面軍から注意をうけてきたばかりである。明らかに、今度の南方軍の作戦準備命令に違反した計画である。

奇怪ともいえるのは、この演習を統裁している久野村参謀長の態度である。ビルマ方面軍司令部にとくに呼ばれて、アッサム州進攻計画を禁止されてきたばかりである。それを今、地図上に展開させているのだ。

同じように不可解なのは、この演習に列席しているビルマ方面軍の中参謀長である。進攻禁止を決裁した当の本人である。

地図上では、烈師団の各部隊の隊標がコヒマに進出した。烈の全力をこの方面に使うのはディマプールに行くことを予期しての用兵である。中参謀長は、それを逐一、見ていた。方面軍の命令に違反した行動を、しいて見せつけられたのに等しかった。

演習が終ったあと、中参謀長は講評をしたが、烈師団の使い方については、何もいわなかった。否定をしなかったことは、肯定したことになった。

中参謀長は、軍人にしては珍しいほど人あたりがよく、温厚であった。しかし、実行力にとぼしかった。参謀長の要職にあっても、とくに才腕を示したということがなかった。つまり、何もするところがなかった。

その時、中参謀長が優柔不断で、かんじんの警告を怠ったことは、重大な結果を招くことにもなった。すくなくとも、このために烈師団の佐藤幸徳中将以下の全将兵がコヒマに行くことを、確実にしたといえる。

インパール作戦を早く実施してもらいたい

それから、ひと月とたたない9月12日、シンガポールで総軍の参謀長会同があった。これには南方軍の直属兵団の参謀長だけが集まることになっていた。ビルマから出席で きるのは、中参謀長だけである。ところが、中参謀長は、第15軍の久野村参謀長と情報主任参謀の藤原岩市少佐をつれてきた。このふたりには出席の資格がなかった。その ために、とくに中参謀長は南方軍にたのんで、第15軍参謀長を“帯同して出席すべし”という命令をだしてもらった。

参謀長会同は寺内総司令官の官邸で開かれた。シンガポール市内でも宏壮で知られた元の総督官邸を接収したものであった。会議のあいまに、中参謀長は稲田副長とふたりだけで懇談した。中参謀長はインパール作戦を早く実施してもらいたいと訴えた。

「やかましいことをいわんで、ふたりの話をよく聞いてやってくれんか。そのために、わざわざつれてきたのだ」

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“片倉高級参謀を追いだして、インパール作戦を実施する” 牟田口中将が見せた異常な「執念」へ続く

(高木 俊朗/文春文庫)

高木 俊朗

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